第39話 ダンジョン4
入口を越えた瞬間、ルーシーは足裏で違和感を拾った。
昨日までと同じ道。
同じ距離。
同じはずの床。
だが、踏み込みの返りが遅い。石の硬さが“遅れて”返ってくる。土でも泥でもないのに、ほんの僅かに沈む。靴裏がいったん受け止められ、そこから押し返される感触。
(……沈む)
言葉にするほどではない。けれど、この程度の差が、狭い通路では事故になる。
前を行くレインハルトも気づいたらしく、二歩目で歩幅を落とした。三歩目で足を置き直す。視線が足元に落ちている。昨日までの「前へ行きたい」焦りが、今日は薄い。
「……床、脆いですね」
小さな声。自分に言い聞かせるみたいな声だ。
「反響も変だ」
後ろのカルヴァンが即座に答える。
「音が残る。嫌な場所だ」
足音が、二拍遅れて返ってくる。返った音が壁ではなく、天井から落ちてくる。空間が薄くない。どこかに空洞がある。上か、下か。どちらにせよ、管理クエストでは歓迎されない条件だった。
それでも引き返すほどではない――まだ。
進む。
壁の亀裂が増え、天井が低い区間に入った。松明の火が岩肌に吸われるように暗い。湿った匂いに、粉っぽい石の匂いが混じる。崩れた場所の匂いだ。
通路の先で、影が動いた。
ゴブリン。三体。
こちらを見て、逃げない。
数も距離も、問題ない。
ルーシーは迷わず前に出た。剣を抜く。金属音は小さく、刃が火を拾うのは一瞬だけ。歩幅は変えない。変える必要がない。
一体目。
踏み込みと同時に、膝。
深くは斬らない。動きを奪うだけで十分だ。膝の腱が切れる角度。刃の入り方が浅いのに、相手の体勢が崩れる。
崩れたところへ返す刃。
首元。
音もなく倒れる。血の匂いが遅れてくる。
二体目は、棍棒を振り上げる前に距離を詰めた。
肩口から胸まで、一線。
重い。だが刃は止まらない。剣が「振られた」のではなく、「押された」みたいに走る。斬った後、刃がぶれない。
三体目は後退しかけた。
だが遅い。
踏み込み。
腹部。
息が抜ける前に、膝が落ちる。終わりだ。
レインハルトが一拍遅れて息を吐いた。
「……余裕ですね」
ルーシーは答えない。余裕かどうかを判断する前に、終わっていた。
カルヴァンも何も言わない。撃つ理由がない。
さらに進む。
スカーヴァーが走る。壁際を低く、足元をかすめるように。数は多いが近づかない。散って音をばらまくだけ。足元を乱すための存在だ。
レインハルトが意識して足を上げる。床を擦らない。盾の縁が壁に当たらないよう肩を少し引く。細かい。だが細かいことができるのは良い。
次の角で、数が増えた。
ゴブリン五体。
左右の割れた枝道から出る。通路の形が悪い。真正面だけ見ていればいい状況じゃない。数で押し潰すつもりだ。
ルーシーは止まらない。呼吸が乱れない。視線は一体ずつではなく塊で捉えている。どれが先に踏み込むか、どれが足を出しやすいか――そういうものを身体が勝手に拾う。
一体。
喉元へ短い線。倒れる。
二体目。
踏み込みで間合いを潰し、肩口。棍棒が上がる前に沈む。
三体目。
位置を半歩ずらし、首。倒れる。
剣を振り回さない。最短距離だけを通す。斬った後も姿勢が崩れない。倒れた敵だけが転がる。
床が鳴る。
だが、そこで足が止まらない。
残り二体が、距離を取って様子を見る。こちらの速度を測り直している顔だ。
――その瞬間。
天井が、鳴った。
嫌な音。乾いた石の割れる音。
落ちてからでは遅い。落ちる前に鳴る。
ルーシーは足を止めないまま、視線だけ上げた。亀裂が一本、二本。薄い線が蜘蛛の巣みたいに広がっている。
カルヴァンが即座に判断する。
「整理する」
短い詠唱。昨日より強い熱。余計なものがない。必要な分だけ燃やす呼吸。
正しい判断だ。残りが二体でも、ここで長引かせる意味がない。通路は狭い。床は沈む。天井は鳴っている。短時間で片付けるしかない。
火の面が走る。
爆ぜない。派手に広がらない。前方の一定範囲だけを切り取るように熱が滑る。壁を舐めない。天井に跳ねない。狭い通路に合わせた形。まるで“熱で通路の蓋をこじ開ける”みたいな動き。
残りのゴブリンが反射で後退する。
その「下がり」が、致命的に揃う。
だが――
熱が悪いわけじゃない。
問題は天井だった。
亀裂が進む。熱で割れたのではない。割れかけていたものが、わずかな刺激で“進んだ”だけだ。空洞の天井は余裕がない。
石が落ちる。
カルヴァンは避けた。
避けたが、床が沈んだ。
沈んだのは一瞬。だが、その一瞬が、避ける角度を狂わせた。
「……っ」
石片が脇腹をかすめる。鎧の隙間。血。
派手ではない。だが赤い線が走り、呼吸が一段重くなる。
致命傷ではない。
だが即撤退案件だ。
ルーシーは即座に前へ出た。カルヴァンの負傷は“あと”でいい。今は残りを消して、道を作る。
剣を握り直す。
剣士の動きだ。
残った二体を処理する。
一体。
一線。倒れる。
もう一体。
踏み込み。刃を通す。逃げる前に沈む。
静かになる。
だが天井がまだ鳴っている。小さく、何度も。石同士が擦れる音。
ルーシーは剣を床に突き立てた。
刃が石に噛む。確かな手応え。
沈む床に対して、噛ませる角度を選ぶ。選んでいる自覚はない。身体が勝手にそうする。
そのまま肩を入れる。
石が落ちる。
腕に衝撃。骨に響く鈍い痛み。
痛みはある。
だが耐えられる。
剣と身体で天井を支える。剣を支点にして、身体全体を楔にする。腕だけではない。肩、背中、腰、脚。全部で押す。息を止めない。止めると力が抜ける。
「下がって!」
声が出た。命令でもない。反射だ。
レインハルトが即座に動く。
迷いがない。動けるのは、先にルーシーが敵を消しているからだ。自分が戦う必要がないから、撤退に集中できる。
カルヴァンも引きずられるように後退する。顔色は変わらないが、腹の辺りを押さえている。出血は止まっていない。
数秒。
天井の動きが止まる。
完全な崩落ではない。
だが、これ以上は危険だ。ここで粘る理由がない。管理クエストは、壊さないことが価値になる。
ルーシーは剣を引き抜く。刃先に石粉が付いている。剣は折れていない。折れるべき角度だったはずなのに、折れていない。
「……撤退だ」
カルヴァンの声は、まだ冷静だった。
冷静でいられるのは、判断が遅れていない証拠だ。遅れていない人間は余計な言葉を使わない。
帰路は速かった。
足音が三つ。反響が遅れて返る。今日の反響は最後まで気持ち悪い。
ルーシーがカルヴァンを支え、レインハルトが前を確認する。支える位置は肩ではない。脇腹の傷を圧迫しないよう背中側に手を回す。持ち上げるのではなく体重を預けさせる。倒さない支え方だ。
入口の光が見えたとき、三人とも同時に息を吐いた。
外の風が、やけに軽い。ダンジョンの重さが身体に残っている。
報告はその場で口頭では済まされなかった。
必要な情報が多すぎる。
報告は整理され、文書としてエルデンのギルドへ送られた。
地盤の不安定さ。
反響異常。
浅層での事故。
魔法使用と負傷者。
省ける項目は、ひとつもない。
カルヴァンは治療に回され、レインハルトは解散した。
レインハルトは最後まで何度も口を開きかけたが、言葉が見つからなかった。
今日の現場は、反省点が「戦い」ではなく「環境」にあった。
新人の頭では整理しきれない。
廊下で、カルヴァンが足を止める。
腹の辺りを押さえ、短く息を吐く。
血は止まっているが、動きはまだ重い。
「……さっきの動き」
声は低い。
叱る調子でも、褒める調子でもない。
「敵を倒すのは、お前には足りてる」
一拍。
「だが――あの天井を、力で受ける必要はなかった」
ルーシーは返事をしなかった。
今すぐ聞ける話じゃないと分かっている。
カルヴァンは腹の傷を押さえ、短く息を吐く。
「……今は無理だ」
「この状態で、余計なことは話せん」
一度だけ視線を上げる。
「気になるなら、怪我が落ち着いてからだ」
「一週間もすりゃ動ける」
それで終わりだという調子だった。
ルーシーは一拍だけ置いて、頷いた。
「……分かりました」
それ以上は言わない。
言う必要もない。
カルヴァンはそのまま踵を返し、治療室の方へ歩いていった。
背中は少しだけ丸いが、足取りは崩れていない。
ルーシーは、その背中を見送ってから、ようやく視線を落とした。
腕にはまだ、石の衝撃が残っている。
痛みはある。
だが、動かせる。
さっき見た“熱の面”が、頭に残っていた。
壊さずに、道だけを作る。
敵を倒すためじゃない。
場を整えるためのやり方。
(……次は)
その続きを考えるのは、まだ先でいい。
今日は終わった。
仕事は完了している。
ルーシーは一度だけ息を整え、歩き出した。




