第38話 ダンジョン3
同じ入口をくぐったはずなのに、今日は空気が違った。
湿り気の重さが、ひとつ増している。
松明の火が、昨日より沈んで見える。揺れてはいないのに、光が前へ伸びない。
レインハルトは昨日より歩幅を落としていた。
遅いのではない。落とすべきところで落としている。足元を見る回数が増え、壁に身体を寄せすぎなくなった。
ルーシーは、半歩後ろの位置を崩さない。
自分が前に出ると、レインが速くなる。それがわかる。理由は説明できないが、そうなる。
後ろのカルヴァンは、今日も杖を手に持っていない。
「昨日と同じだ。管理だ」
入口帯を抜け、浅層回廊へ入る。
曲がり角の数が増え、反響が強くなる。歩く音が二回返ってくる。距離感が曖昧になる。
そして、気配は唐突に来た。
カサ、と乾いた音。
スカーヴァーが一体、通路を横切る。
レインハルトの肩が跳ねる。だが剣は抜かない。
止まる。見る。呼吸を整える。
ルーシーは、それだけで少し安心した。
スカーヴァーは奥へ消える。
追わない。追う理由がない。
……と、思った。
次の角を曲がったとき、空気の温度がわずかに変わった。
匂いが違う。獣臭ではなく、汗と脂の混ざった匂い。人に近い。
「ゴブリン」
レインハルトが小声で言う。
通路の先に二体。
背は低いが肩幅がある。棍棒を持ち、こちらを見て笑う。逃げる気配がない。
昨日のスカーヴァーと違う。
これは“止める”気でいる。
レインハルトが剣を抜く。今度は音が小さい。
姿勢も崩れない。
ルーシーは剣を抜かない。抜かなくても動ける距離にいる。
それが自分の役割だ、と身体が言っている。
ゴブリンが来る。
棍棒が振り下ろされる。
レインハルトが盾で受ける。
受けた瞬間、足を引いて衝撃を逃がす。昨日より上手い。
反撃。
踏み込みが深い。刃が当たり、ゴブリンが呻く。
もう一体が横から来る。
レインハルトの視線が一瞬だけ遅れる。
ルーシーはその遅れに、考える前に足が出た。
肩を入れて、進路を塞ぐ。
棍棒が鎧に当たる。鈍い音。痛みはあるが、倒れるほどではない。
その一瞬で、レインハルトが横の敵に剣を入れる。
二体とも倒れる。
レインハルトは息を吐き、顔をしかめた。
「……思ったより、ちゃんと当たりますね」
自分で言って、自分で驚いている。
新人らしい。
カルヴァンは後ろで淡々と言った。
「当たらないと困る」
褒めていない。だが、否定もしない。
現場の空気は崩れない。
通路を進む。
枝道が増える。床の湿りが濃くなる。反響が強くなる。
そのとき、また音がした。
カサ。カサ。
スカーヴァーが二体、三体。通路の端を走り、奥へ逃げる。
レインハルトが一瞬だけ足を止めた。
「……多い」
言葉には出さないが、顔に迷いが浮かぶ。
昨日の“群れ”が、頭をよぎったのが分かる。
カルヴァンが短く言う。
「前だけ見ろ」
レインハルトは頷き、歩く。
それでいい。
だが――その次の角で、状況が変わった。
通路が広い。
左右に枝道が開いている。天井は低い。逃げ場が少ない。
そして、待っていたように影が動いた。
ゴブリンが四体。
後ろの枝道にも二体。合計六。
ルーシーは、そこで初めて「囲まれる」という形を理解した。
敵が強いからではない。位置が悪い。ここは“囲むのに都合がいい場所”だ。
レインハルトの呼吸が浅くなる。
「……多すぎる」
声が揺れる。
戦うか、引くか、決めきれない揺れ。
ゴブリンは笑いながら間合いを詰めてくる。
盾を叩き、棍棒を振り上げる。数で押し潰す気だ。
ルーシーは一歩、レインハルトの横へ出た。
剣を抜く。抜いた瞬間、刃が光を拾う。
レインハルトがそれを見て、少しだけ落ち着く。
新人は、横に人がいるだけで呼吸が戻る。
カルヴァンの声が背後から来た。
「下がれ。三歩でいい」
ルーシーは反射で振り返りそうになり、止めた。
前を見たまま、足だけ下げる。レインハルトにも同じように下がるよう、肘で軽く合図する。
レインハルトが三歩下がる。
通路の幅が、わずかに変わる。背後の枝道が視界に入る。退路が“線”になる。
カルヴァンが続けた。
「勘違いするな。今日は管理だ」
そこで、息を吸う音。
「……だが、ここは整理する」
短い宣言。
それだけで、空気が変わった。
カルヴァンが前へ出るわけではない。
それでも、背中に“確定”が乗った。
彼は杖を抜かない。代わりに、片手を前に出した。
指先が、空を掴むように動く。
ルーシーは、初めて見る。
魔法は、叫んで撃つものだと思っていた。だが、カルヴァンは声を張らない。
短い、低い詠唱。言葉は聞き取れない。
けれど、空気が変わるのは分かった。
熱が生まれる。
松明とは違う熱。もっと芯が硬い。
カルヴァンの指先に、小さな火が灯った。
掌に収まる程度の、丸い火。
小さい。
でも、怖い。
火が“そこで止まっている”ことが怖い。
燃え広がろうとしない。落ちない。揺れない。
ただ、そこに固定されている。
ゴブリンが、それを見て止まる。
笑いが消える。
カルヴァンは、指先をほんの少しだけ動かした。
火球が、前へ滑った。
投げるというより、線を引くみたいに。
ゴブリンの足元に落ちる――はずだったが、違う。
火球は地面に触れる前に、薄く広がった。
爆発ではない。
“扇”みたいに熱が開く。
前方だけ。左右には漏れない。
壁を舐めない。天井に跳ねない。
熱の面が、ゴブリンの群れの中心を切り裂く。
叫び声。
毛皮が焦げ、肌が焼け、二体が倒れる。残りが反射で後退する。
そこに、もう一つの火球が滑る。
同じ形。同じ角度。
熱が道だけを作る。
ゴブリンが散る。
スカーヴァーの気配も一斉に引く。熱を嫌うのだ。
静かになった。
松明の火が、ようやく“普通の火”に戻ったように見えた。
カルヴァンは息を吐き、指を下げる。
焦げた匂いが漂う。
しかし、壁も床も崩れていない。煤が薄く残るだけだ。
レインハルトが呆然と呟く。
「……今の、ファイアボール……ですよね」
「似てるが、同じじゃない」
カルヴァンの返答は冷たい。
否定ではなく、線引きだ。
「魔法はな、使うか使わないかじゃない。どこまで使うかだ」
ルーシーは、その言葉が胸に残った。
剣なら、ああはできない。
倒すだけじゃない。
壊さずに、道だけを作る。
(……当ててるんじゃない)
ルーシーは、言葉にならないまま思う。
(……切ってる)
熱で、空間を切る。
戦場を“形”で変える。
カルヴァンが続ける。
「討伐なら、もっと派手にやる。だが今日は管理だ。前に出す必要がなかっただけだ」
魔法を否定していない。
ただ、仕事の性質を言っている。
レインハルトは小さく頷いた。
理解したかどうかは分からない。だが、怖さは残ったはずだ。
ルーシーは、剣を鞘に戻した。
戻す動きが、少しだけ遅くなる。頭がまだ熱の面を追っている。
カルヴァンが歩き出す。
「今日はここまででいい。戻る」
レインハルトが口を開きかけて、閉じた。
反論するほどの根拠がない。自分の呼吸がまだ浅いことを、本人が一番分かっている。
帰路は、行きより静かだった。
足音が三つ。
それだけが、反響して返る。
入口の外光が見えたとき、レインハルトが小さく息を吐いた。
「……助かりました」
カルヴァンは返事をしない。
助けたのではない。現場を整理しただけだ、という顔。
ルーシーはその横顔を、ちらりと見て、すぐ前へ視線を戻した。
口に出したら、崩れる気がした。
でも、残った。
魔法は、爆発じゃない。
熱を作って、形にして、必要な分だけ流す。
それは力ではなく、操作だった。
門へ向かう途中、ルーシーは一度だけ足を止めそうになって、止めた。
聞きたい。だが、今ここで聞くことじゃない。
質問は、仕事が終わってからだ。
ルーシーは歩きながら、決める。
(……次、聞こう)
今日の熱の面を、もう一度思い出す。
あれができたら、剣で無理をしなくて済む場面がある。
興味は、必要に変わりかけていた。
そして、レインハルトの背中は、昨日より少しだけまっすぐだった。
それが良いことかどうかは、まだ分からない。
分からないまま、ダンジョンの影は背後に遠ざかっていった。




