第37話 ダンジョン2
ダンジョンの入口を越えた瞬間、空気が変わった。
冷たい、というより重い。湿り気を含んだ空気が肌にまとわりつく。外と中の境目は、音で分かる。足音が鈍くなり、松明の火が揺れなくなる。
生活圏ダンジョン。
誰かが住み、誰かが死に、そして放置された穴だ。
「……思ったより、暗いな」
前を行くレインハルトが、低く呟いた。声が壁に跳ね返り、すぐに消える。
ルーシーはその背中を、半歩遅れで追っていた。近すぎない。離れすぎない。理由は言葉にできないが、そうした方が“崩れにくい”と身体が知っている。
後ろでは、カルヴァンが何も言わずに歩いている。
魔法使いの杖は手にない。腰に固定されたままだ。
「明かりは十分だ」
短く、それだけ。
レインハルトは一度だけ頷き、歩調を落とした。
新人らしい硬さはあるが、言われたことは守る。
通路はすぐに折れ、視界が狭くなる。天井は低く、壁は湿っている。足元の石が不規則で、踏み外すと転びかねない。
最初に来たのは、音だった。
カサ、と軽い擦過音。
左の枝道から、影が走る。
「……っ」
レインハルトが一瞬、前に出かける。
「待て」
カルヴァンの声は低く、強くない。
だが、止まるには十分だった。
影は小さい。灰色がかった体毛。低い姿勢。
ゴブリン――ではない。別のものだ。
影は通路を横切るだけで、こちらに来ない。
逃げるように、暗がりへ消えた。
「今のは……」
「スカーヴァーだ」
カルヴァンが答える。
「数が出る。弱いが、足元を荒らす」
レインハルトは剣にかけた力を、ゆっくり抜いた。
「追いませんか」
「管理だ」
それだけで十分だった。
ルーシーは、何も言わない。
追わない理由を説明できるほど、言葉を持っていない。ただ、追わない方がいいと身体が判断している。
少し進むと、通路が広がった。
今度は、逃げなかった。
スカーヴァーが二体。
低く身構え、歯を剥く。距離は近い。
レインハルトが剣を抜いた。音が硬い。
動きに力が入りすぎているのが分かる。
先に来たのは、スカーヴァーだった。
跳ねるように、足元へ。
レインハルトが盾で受ける。
受けた瞬間、足が滑った。
――転びはしない。だが、体勢が流れる。
ルーシーは考えずに動いた。
半歩、前へ。
剣は抜かない。肩と腕で、間に入る。
押し返さない。ただ、進路を塞ぐ。
スカーヴァーの動きが止まり、横にずれた。
レインハルトが体勢を立て直す。
今度は、踏み込みが浅い。だが、当たる。
スカーヴァーが悲鳴を上げて倒れた。
もう一体が来る。
今度は横。
ルーシーは、そのまま位置をずらす。
剣を抜かず、壁になる。
レインハルトが気づき、前だけを見る。
短い斬撃。今度は深い。
二体目が動かなくなった。
静かになった通路で、レインハルトが息を吐く。
「……すみません」
謝罪は反射だ。
ルーシーは首を振った。
「……」
言葉が出ない。
代わりに、一度だけ頷く。
カルヴァンは何も言わない。
撃つ理由がなかった。それだけだ。
さらに進むと、床の湿りが増した。
その瞬間、足元を何かが走る。
スカーヴァー。
一体、二体、三体。
数が多い。
「……多いな」
レインハルトが顔をしかめる。
「振るな」
カルヴァンが即座に言う。
「足元を見る。踏み外すな」
剣を振れば、床を削る。
削れば、滑る。
レインハルトは剣を下げ、盾を低く構えた。
歩幅を落とす。動きはぎこちないが、止まらない。
スカーヴァーが足元を横切る。
噛みつこうとするが、深くは来ない。
ルーシーは、ひたすら歩いた。
足元を見る。滑る石を避ける。身体を前に出しすぎない。
数分で、群れは抜けた。
背中で、カルヴァンが言う。
「今のところ、仕事になってる」
レインハルトの肩から、少し力が抜けた。
通路がさらに折れ、暗さが増す。
空気が重くなり、湿りが強い。
カルヴァンが足を止めた。
「ここまでだ」
レインハルトが驚いた顔をする。
「もう少し――」
「今日は管理だ」
淡々とした声。
「増やす理由がない」
ルーシーは、内心で頷いた。
言葉にはしない。
帰り道は早かった。
来た道を、そのまま戻るだけだ。
入口の外光が見えたとき、レインハルトが小さく息を吐いた。
「……戻れましたね」
ルーシーは、頷くだけだった。
背後でカルヴァンが言う。
「今日はこれでいい。次は、もう少し奥を見る」
短い予告。
それだけで、次があると分かる。
三人は、ダンジョンを後にした。
ルーシーは歩きながら、さっきの場面を思い返す。
スカーヴァーを退かせたときの、自分の動き。
剣では、同じことはできなかった。
壊さず、止める。道だけを残す。
(……さっきの魔法も、同じだったのか)
カルヴァンが撃たなかった理由が、少しだけ分かった気がした。
理解した、とは言えない。
ただ、興味が残った。
それだけで、今日は十分だった。




