第35話 第四部 乾杯と満腹と魔法
無事に35話終わりました・・・
ついにWU100人達成、大変感謝しております。もうちょっと頑張って投稿してみます。
更新の励みになりますので、是非感想や、評価もいただけると嬉しいです!
指定された酒場は、ギルドから二本裏の通りにあった。 煤けた看板。黒い鳥の絵は嘴が欠けている。だが、扉の隙間から漏れる喧騒と、焼けた脂の匂いが、ここが外れではないと雄弁に告げていた。
ルーシーが扉を押し開けた瞬間、熱気が顔を打つ。
煙。 酒。 笑い声。
昼のカルディナとは、まるで別の街だ。働いた人間が、金と疲労を同時に落とす場所。喧騒の中に、今日を終えた者たちの体温が渦巻いている。
「こっちだ」
奥の長卓から、ブレイデンが顎で示す。 アイアンシクスの面々はすでに腰を落ち着けており、兜と手甲は卓の端に無造作に積まれていた。剣は壁に立て掛けられ、ようやく戦闘の気配が剥がれている。
ルーシーは空いていた端の席に腰を下ろした。 木椅子が軋む音は、周囲の雑音に溶けた。
「全員いるな」
ブレイデンは立ち上がらず、ジョッキを掲げる。
「無事故。欠員なし。積み荷破損ゼロ。 ――グレイン商会の金に、乾杯だ」
「「乾杯!」」
鈍い音が重なり、ジョッキがぶつかる。 ルーシーもエールを口に含んだ。ぬるい。だが、苦味が喉を洗い、六日分の埃を流していく。
(……終わったんだ)
その実感が、遅れて胸に落ちた。
ほどなくして、料理が運ばれてくる。 最初に置かれた皿を見た瞬間、ルーシーの思考が止まった。
羊肉の串焼き。拳ほどの肉塊が、骨ごと刺さっている。表面はこんがり焼け、脂がまだ音を立てている。 次に、深皿。豆と臓物を煮込んだ濃いスープ。香辛料の匂いが湯気に乗って立ち上る。 最後に、黒パン。一人分とは思えない量が、籠に山盛りだ。
(……)
量が多い、という感想は浮かばなかった。
(……おいしそう)
それだけだった。
この世界に来てから、まともな肉料理を見るのは初めてに近い。 寮の配給は刻んだ肉片が入るかどうか。自炊は干し肉を削るだけ。護衛中は保存優先の塩漬けとパン。
焼きたての肉。脂の匂い。温かい皿。 それだけで、身体が先に動いた。
一本目の串を取る。歯を立てる。 じゅわ、と脂が溢れた。
「……」
言葉が出ない。 塩気。香辛料。噛むたびに広がる熱。
反射的に二口、三口と進む。 スープを一口。濃い。胃の奥に落ちていく感覚がはっきり分かる。 パンをちぎり、スープに浸す。
――口に入れた瞬間。
(……っ)
喉の奥が、熱でほどけた。
塩気と香辛料が一気に広がって、舌が「もっと」と叫ぶ。 噛むたびに肉の旨味が滲んで、胃袋が空っぽだったことを思い出させてくる。
理屈じゃない。
(おいし……っ)
声が出かけて、慌てて飲み込んだ。 いや、無理だ。抑えられない。顔が勝手に緩む。
次の一口が欲しい。 欲しい、じゃない。必要だ。
ルーシーは、ほとんど反射で二口目を押し込んだ。 パンをちぎって、浸して、口へ。 息をする間も惜しい。
串焼きに手が伸びる。 骨の周りの肉を、遠慮なく噛みちぎる。
脂が弾ける。 熱い。 うまい。
(なにこれ……私、今まで何食べてたの……?)
寮の薄いスープ。干し肉。硬いパン。 あれが「飯」だと思ってたのが、急に馬鹿みたいに感じた。 違う。これは――“食事”だ。人間が働いて、金を払って、腹だけじゃなく心まで満たすためのやつだ。
気づいたら、口の端が勝手に上がっていた。 目の奥がじわっと熱くなる。
(……やばい)
笑いそうだった。泣きそうだった。 どっちでもよかった。とにかく、止まらなかった。
ルーシーは無言で食べ続けた。 串を置き、次を取る。 スープを飲み、パンを浸し、また噛む。 食べるたびに身体の芯が温まって、六日間の張り詰めたものがほどけていく。
――“終わった”のは、戦いじゃない。 今日という仕事が、ちゃんと報われたんだ。
そう思った瞬間、腹の底がもう一度鳴った気がした。
ルーシーはまた串を取る。骨のまわりを遠慮なく削り、スープで流し、パンで追いかける。
息をつく暇がない。皿が減る。手が止まらない。
気づけば店員が無言で椀を追加し、籠を置き、また去っていった。
そして卓の上の皿の減り方が、彼女の前だけ異様になっていた。
「……」
向かいのカルヴァンが、ようやく異変に気づいた。
「……なあ」 「?」 「それ、何本目だ」
ルーシーは一瞬考えた。
「……五本目です」
一拍。
「……俺、二本だぞ」
静寂。 周囲の視線が、ゆっくりと集まる。 ルーシーは初めて、状況を理解した。
「あ……」
「野営じゃ分からなかったが」 誰かが呟く。 「こいつ、食うな」 「パン、もう一籠いってるぞ」 「スープも三杯目だ」
だが、咎める空気はない。むしろ感心に近い。
「……燃費が悪いんです」
ルーシーがぽつりと言う。
「そんな言い方あるか」 ブレイデンが鼻で笑う。 「だが、これだけ動いて、これだけ食うなら納得だ」
護衛の仕事は、体力の前借りだ。食える者は、倒れにくい。
「それに野営じゃ、分かりにくい」 フィンレイが肩をすくめた。 「交代で見張りに立つだろ。食う時間がズレる。お前は……見張り上がりで、黙々と食ってた」 「見られてました?」 「驚いて見てた」
短い笑いが起きる。ルーシーは誤魔化すように、結局また串を取った。
その後も料理は追加された。 ルーシーは結果的に、串焼き八本、スープ四杯、パンは数え切れないほど食べた。
最後の串を置いたあたりで、ようやく息を吐く。
(……あ、これ)
満腹、というよりも――一線を越えた感覚。 胃が重い。けれど痛みはない。ただ、内側から熱が溜まっている。 椅子の背に深くもたれ、無意識に腹部へ手を当てた。
その瞬間だった。
向かいのカルヴァンが、手元のジョッキを置いた。 その動作が、妙にゆっくりに見えた。 彼は食い意地に負けた顔ではない。酒に酔っている目でもない。 ただ、何かの“匂い”を追うような視線で、ルーシーの周りの空気を見ていた。
「……おい」 「はい?」
声が、低い。
「今、胸とか背中――熱くなったか」
唐突な問いだった。
「……お腹は、熱いです。食べたので」 「それじゃない」
カルヴァンは、指先で空を切る。 誰にも見えない糸を撫でるみたいに、ほんの少し。
「……お前、自覚はないだろうが」 一拍。 「今、ほんの少しだけ――漏れてる」
「……何がですか?」 「魔力だ」
場の空気が、一瞬止まった。 ルーシーは目を瞬いた。
「……私、魔法使えませんけど」 「知ってる。だが“使えない”と“持ってない”は別だ」
カルヴァンは、酒を一口含んでから続けた。
「普通の人間はな、何を食おうが、疲れようが、魔力は動かない。 だが今のお前は、腹が満ちた途端に――ほんの僅かだが、内側が動いた」
ルーシーは、自分の腹部に当てた手を見下ろした。
「……さっき、少し苦しかったです」 「だろうな。身体が“回そう”としたんだ」 「回す?」 「エネルギーを、だ。食った分を、回復と筋肉に回す。 ……普通はそこまで速く回らない。お前は速い」
ブレイデンが、会話に割って入る。
「魔法の話は後にしろ。今はただの反省会だ」
「いや、これは反省だ」 カルヴァンは即座に返した。 「この新人、普通じゃない」
ルーシーは苦笑した。
「よく言われます」 「褒めてない」 「分かってます」
だが、そのやり取りの最中、ルーシーは気づいていた。
――さっきまでの重さが、もう引いている。 胃の違和感は残っているが、身体のだるさはない。
(……回復、早くない?)
自分で自分に首を傾げながら、ルーシーは背もたれから身を起こした。 それを見て、カルヴァンは小さく息を吐いた。
「……やっぱりな」
その声音は警戒ではなく、研究者が未知の現象を前にしたときの、静かな確信だった。
それから少しだけ、卓の空気は緩んだ。 話題は戦闘の細部に移り、誰がどこで足を取られかけたか、どの地点が一番危なかったか、笑い混じりに、しかし具体的に語られる。 ルーシーはそれを聞きながら、ようやく“席にいる”感覚を味わっていた。
仕事の場ではない。評価の場でもない。 ただ、同じ時間を生き延びた者同士の、後処理の時間。
「で、結局あの場面、カルヴァンは何を構えてたんだ」 ロウェナが串の骨で机を叩く。
「構えてねぇよ。準備してただけだ」 カルヴァンが肩をすくめる。 「魔法はな、思いつきで撃てるもんじゃない。詠唱か、型か、どっちかが要る。焦ると、燃やしたいのが敵じゃなくて味方になる」
「怖いこと言うな」 フィンレイが即座に突っ込む。
「だから“高い”んだよ」 カルヴァンは笑わずに言った。 「魔法使いは数が少ない。覚えるのも金が要る。失敗すると洒落にならん。 ……でも、当たれば、戦場が変わる」
ルーシーは黙って聞いた。 “見たことがない”からこそ、輪郭だけを掴む。危険で、便利で、そして高い――この世界の魔法の扱いは、たぶんそういうものなのだ。
ふと気づくと、テーブルの上の料理はほとんど消えていた。 串は骨だけになり、煮込み鍋の底が見え、黒パンの山は欠片すら残っていない。
「よし。今日はここまでだ」
ジョッキを置き、ブレイデンが立ち上がる。
「無事終わった。余計な後腐れもない。それで十分だ」
それぞれが席を立ち、金を置き、簡単な別れの言葉を交わす。 握手はない。背中を叩くこともない。 ただ、
「またな」 「次は仕事で会おう」
それだけだ。
店の外に出ると、夜風が思ったより冷たかった。 火照った身体に、ちょうどいい。 ルーシーは一人、通りに立つ。
腹は満ちている。懐は重い。剣は背中にある。
(……これが、仕事終わりか)
寮でも、野営でもない。誰かの目を気にしながら急いで食べる必要もない。干し肉を齧り、水で流し込むだけの食事でもない。
外で、ちゃんと食べた。
美味しいと思えるものを、おなかいっぱい食べた。
この世界に来てから、それがどれほど久しぶりのことだったか、今になってようやく分かった。
宿はすぐに見つかった。 仕事帰りの冒険者が使う、少しだけ値の張る宿だ。 銅貨を払い、鍵を受け取る。
部屋に入った瞬間、ルーシーは息を止めた。
――ベッドがある。
藁ではない。薄い敷布でもない。きちんとした木枠と、厚みのある寝具。
「……久しぶりだ」
独り言が、自然と零れた。
装備を外し、剣を壁に立てかけ、ブーツを脱ぐ。 身体を横たえた瞬間、ゆっくりと沈み込む感触が背中を包んだ。
野営では、常に半分起きていた。寮では、周囲の物音に神経を張っていた。 だが今は違う。
天井を見上げながら、ルーシーは今日一日を、逆に辿る。 街道。門。倉庫。酒場。
そして――最後に思い浮かんだのは、戦闘でも、評価でもなく。
脂の乗った串焼き。塩気の強い煮込み。腹の底まで届いた熱。
(……おいしかったな)
その感覚が、妙に鮮明だった。
目を閉じる。 胃の重さは、もう気にならない。身体は静かで、呼吸も深い。
ルーシーは、久しぶりに――何の心配もなく、眠りに落ちた。




