第40話 カルディナ① 境界の都市
小さくなった火の明かりは、二人の膝の先までしか届かなかった。
フィンレイは、やはり斜面を見なかった。耳だけをそちらへ向けている。ルーシーも、それにならった。
風が枝を鳴らすたびに肩に力が入りかけて、ただの風だと分かって抜ける。
何も来なかった。
交代の時間が過ぎても、フィンレイは立たなかった。ルーシーも立たなかった。
「来ませんね」
「来ないのが、いちばん嫌なんだよ」
フィンレイは、指の上の小石をまた転がし始めた。
「来たら、斬るか逃げるか決めりゃいい。来ないと、決めるもんがねえ」
空が白みはじめると、フィンレイが音もなく立ち上がった。
「火、見てろ」
それだけ言って、斜面の藪の中へ消えた。足音は、一度もしなかった。
戻ってきたのは、ほかの天幕から人が起き出すころだった。フィンレイは焚き火の前にしゃがみ、ブレイデンにだけ聞こえる声で言った。言ったつもりらしいが、ルーシーにも聞こえた。
「上に、膝をついた跡が三つ。こっちの火が、ちょうど見える所だ。見て、帰った」
ブレイデンは、鍋に水を注ぐ手を止めなかった。
「見せたんだ。数えたぞ、ってな」
(夜の見回りが、見回られてた)
出発の前に、天幕を畳む番が来た。
エドガーたちの天幕の脇に、土の丸い凹みが一つ残っていた。真ん中に、ペグの頭が、昨日バルドリックが掘った分だけ覗いている。
バルドリックが、腕を組んで横に立った。
「今日は、俺はやらねえぞ」
「はい」
ルーシーはしゃがんで、ペグの頭を指二本でつまんだ。
――揺すりながら。
前へ、後ろへ。力は入れない。土がペグを掴んでいる、その指をほどくつもりで揺する。三度目で、土の中で何かがほどけた。引くと、ペグはするりと抜けてきた。
手のひらに載せると、ひんやりと湿っていた。先には、土の色の筋が一本ついている。
「教わったとおりに、揺すりました」
バルドリックは、抜けたペグとルーシーの指を見比べた。
「だろ。揺すりゃ、抜けるんだ」
焚き火の灰を踏み消していたフィンレイが、足を止めずに言った。
「盾、二敗目」
「一勝だ。教えたのは俺だ」
「抜いたのは新入りだろ」
「うるせえ。教えたのは、俺だ」
二度目は、一度目より声が大きかった。天幕の布を畳んでいたエステルが口もとを押さえ、最後尾でロウェナが弦を、ぴん、と鳴らした。鍋を洗っていたブレイデンの眉間のしわまで、ひとつ浅くなった。
その鍋を伏せて、ブレイデンが言った。
「次の野営から、ペグはお前の係だ。打つのも、抜くのもな。一人でやれば、手間賃が一人分で済む」
「はい」
「打つのは半分だぞ、新入り」
バルドリックが、縄を解きながら付け足した。
それから先の野営では、天幕の四隅はルーシーの持ち場になった。打つときは半分。抜くときは三度揺する。バルドリックはそのたびに横で腕を組んで、抜けるのを見届けていた。
四日目の野営地は、川べりの砂地だった。いつもどおり半分の力でまっすぐ打ったペグが、夜のうちに一本、風に抜けていた。朝には、天幕の角が一つ垂れていた。
「砂ってやつは、まっすぐじゃ噛まねえ。寝かせろ」
バルドリックは、それだけ言った。次の砂地では、ペグを外へ寝かせて打った。
斜面の光を見た夜から、フィンレイは毎晩、野営地のいちばん暗い側に座った。
◇
六日目の昼過ぎ、最後の上り坂の途中で、最後尾から、ぷつん、と乾いた音がした。
ロウェナが弓を見下ろして、舌打ちをした。弦が真ん中から切れて、だらりと垂れている。
「やっぱりね。カルヴァン」
カルヴァンは歩く足を止めずに、片手だけを後ろへ出した。何も持っていなかったはずの手のひらに、巻いた弦が一本、載っていた。ロウェナが小走りに追いついて、それをつまみ取る。
ルーシーは、カルヴァンの手を見た。ローブの袖を見た。腰の袋を見た。どこにも、弦一本ぶんの膨らみがない。
「あの。今、どこから」
「商売道具だ。聞くな」
ロウェナが歩きながら弦を張り替え、ぴん、と鳴らした。今度は首をかしげなかった。
「聞くと、値段が上がるよ」
坂の上で、先頭のフィンレイが足を止めた。
「見えたぞ」
街道の先に、石造りの高い城壁が浮かび上がった。その向こうに、尖塔の群れと、数えきれない炊煙。
「カルディナだ。中央の玄関口だよ」
御者たちが肩の力を抜き、馬まで歩調を軽くした。
「気を抜くな」
ブレイデンの低い声が飛ぶ。だが、六日前のような鋭さはなかった。
ルーシーは城壁を見上げて、息を吐いた。足の裏は重く、鎧の革帯が肩に食いこんでいる。それでも、息は乱れていない。
すぐ後ろを歩くカルヴァンの顔には、六日分の疲れが濃く出ていた。
「息が、乱れてないな」
「体力だけは、あるので」
「だけ、か」
カルヴァンは、顎髭を指でつまんだ。
「魔法使いはな、三日目に荷台を見る。見たら、四日目には乗る」
隣を歩くエステルが、白い外套の裾についた草の実を一つ払い落とした。六日目にして、外套の汚れはそれだけだった。
「乗ってたでしょう。四日目に」
「……半日だけだ」
第一荷車の脇で、バルドリックが大盾を担ぎ直し、振り返った。
「おかしいな。荷台に載せてくれって泣くのは、新入りの方だと思ってたんだが」
「泣いてません」
「知ってる。だから言ってんだ」
バルドリックは顎で、カルヴァンを指した。カルヴァンは聞こえないふりをしていた。
◇
カルディナの城門前は、街に入る順番を待つ馬車や旅人でごった返していた。グレイン商会の荷車は、脇の商用の列へ進んでいく。
門の前には屋台が並んでいた。脂の焼ける匂いと、嗅いだことのない香辛料の匂いが、風に乗って流れてくる。
(匂いが、反則だ)
エドガーが御者台から降り、槍を立てた門番に通行証を差し出した。
「グレイン商会、エルデンからの定期輸送便です」
「積み荷は精製金属と、薬品素材と、染料ですね。後ろの護衛は?」
「いつもの『アイアンシクス』と、追加の一名です」
門番の視線がルーシーに向いた、そのときだった。
ぐうううう、と、ルーシーの腹が鳴った。
長かった。屋台の呼び込みの声が、一瞬かき消されるほどだった。
列の旅人たちが振り返る。カルヴァンが、首だけこちらへ回した。
「……今の、お前か」
「六日分です」
最後尾で、ロウェナが張り替えたばかりの弦を、ぴん、と鳴らした。
門番は通行証に目を落としたまま、口の端だけで笑った。
「追加の一名、と。腹の虫の分は、書かなくていいな」
ブレイデンが、腕を組んだまま言った。
「期待株だ」
門番は、鳴ったばかりの腹とブレイデンの顔を見比べてから、通行証に判を押した。
「通ってよし。屋台なら、門の内側の広場のほうが安いぞ。――次」
門の影をくぐりながら、ルーシーはブレイデンの背中に小声で言った。
「盛りましたね」
「盛ってない」
ブレイデンは振り返らなかった。
「期待するのは、ただだ」
城壁の内側は、道幅が広く、建物が高かった。香辛料の匂いが、もっと濃い。ルーシーは腹に力を入れて、二度目を防いだ。
荷台の上で、マーサが眼鏡の位置を直しながら、大きく伸びをした。
「着いたわね。お疲れ様、ルーシー。貴女が荷車の揺れに合わせて歩いてくれたおかげよ。変な振動が少なくて、荷の数え直しが一度もなかったわ」
「気づいてたんですか」
「帳簿を閉じるふりをするのは、得意なの」
ルーシーは視線を落とした。緩みそうになった頬の内側を、軽く噛んだ。
手綱を握った御者が、轍のない石畳を見下ろしながら、ぼそりと言った。
「……足は、いい足でしたぜ」
マーサは、荷札の端に小さな印を一つ足した。
先頭から、エドガーの声が飛んだ。
「倉庫へ向かう。最後まで油断するな」
エドガーは帳面を脇に挟み直して、付け足した。
「倉庫前は、盗賊にとって『最後の機会』だ」
無事に街について初めての長旅もようやく終わりました。
また、たくさんの方に読んでいただき、大変感謝しております。
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