第34話 第六部 焚き火の距離
日が沈むと、街道の空気は急速に冷え込んだ。
一行は見通しのいい場所を選び、慣れた手つきで野営の準備を始める。
ルーシーは客ではなかった。
指示を待つ前に近くの林から枯れ木を集め、エドガーたちが使う天幕のペグ打ちを手伝う。
重装備のまま、不満も言わずに動くその姿を、御者たちが少し驚いたような、しかし安堵したような目で見ていた。
夜の帳が下りる頃、小さな焚き火が熾された。
パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな空気に溶けていく。
食事は簡素だった。
硬いパンと、干し肉入りの薄いスープ。
だが一日中歩き続けた身体には、その塩気が何よりも染みた。
「……悪くない動きだった」
スープを啜っていたブレイデンが、不意に口を開いた。
視線は焚き火に向けられたままだ。
「あの場面、腕に覚えのある新人なら前に出ていた。
だが、お前は隊列を維持した。
盗賊が引いたのは、お前が“隙”を作らなかったからだ」
褒めているわけではない。
ただ事実を確認しているだけの口調だった。
「前に出ても、足手まといになるだけですから」
ルーシーが短く返すと、ブレイデンは鼻を鳴らす。
「自分の限界を知っている奴は死ににくい。
護衛に必要なのは、強さより判断力だ。……今日は合格点だ」
それきり、ブレイデンはまた黙々と食事に戻った。
だが、その沈黙は出発前の冷たいものとは違い、どこか同じ輪の中に置かれた感触を含んでいた。
焚き火の向こうで、魔法使いのカルヴァンが杖で薪を軽く突く。
「それにしても、驚いたな」
彼はルーシーの横顔をちらりと見た。
「昼間、俺が魔法を構えた時……お前、反応しただろ」
「……ええ。肌が、少し」
「感知の才能もあるか」
カルヴァンは面白そうに髭を撫でる。
「魔力は見えないが、感じることはできる。
お前の中にあるエネルギーも、俺たちから見れば焚き火みたいなもんだ」
「……制御は、できてません」
「今はな。
だが理屈を学べば、その焚き火は武器になる。
焦るな。お前には器がある」
理屈。
その言葉が、ルーシーの胸に静かに落ちた。
剣も、魔法も、力任せでは通じない。
この世界で生きていくための作法を、自分はまだ学び始めたばかりだ。
「さあ、寝ろ」
ブレイデンが短く言う。
「最初の見張りは俺たちがやる」
ルーシーは毛布に包まり、枕元に剣を置いた。
朝には違和感しかなかった鉄の塊が、今は不思議と頼もしい。
見上げれば、木々の隙間から星が見える。
焚き火の匂い。
馬のいななき。
夜の冷たい風。
(……仕事、したんだ)
守られる側ではない。
役割を果たし、隊列の一部として飯を食う。
その当たり前の実感が、心地よい疲労とともに身体を満たしていく。
やがて焚き火が落ち着き、夜が深まった。
そして――。
東の空が、わずかに白み始める。
誰かが起き出す音で、ルーシーは目を覚ました。
身体を起こすと、疲労は残っているが、動けないほどではない。
剣の重さも、防具の感触も、きちんと計算できる範囲に収まっていた。
商隊は静かに動き始めている。
御者が馬具を整え、商会員が帳簿を確認する。
護衛たちは必要以上に話さず、それぞれの持ち場に戻っていく。
ブレイデンが短く指示を出した。
「五分で出る。隊列は昨日と同じだ」
誰も異を唱えない。
その言葉が、そのまま秩序になる。
ルーシーは指定された位置についた。
前にも出ない。
下がりもしない。
昨日と同じ距離、同じ役割。
それでいい、と分かっていた。
商隊が動き出す。
車輪が回り、街道に音が戻る。
何も起きない。
だがそれは、“何もしていない”という意味ではない。
守るべきものは守られ、
進むべき道は、今日も進んでいる。
(……これでいい)
胸の奥で、静かにそう思えた。
Dランク冒険者としての最初の仕事は、
派手な勝利でも、劇的な変化でもなく、
予定通りに一日が始まったという事実だけを残して続いていく。
それが、この世界で生きるということなのだと、
ルーシーは確かに理解していた。




