第31話 翌朝の静寂
朝は、静かに来た。 目を覚ますと、天井の染みがいつもの位置にある。
寝返りを打ち、身体を起こす。 どこも痛くない。 昨日、あれだけ動いたはずなのに。
筋肉の張りも、鈍い痛みも残っていなかった。 それが少しだけ、不思議だった。 息を吸って、吐く。
呼吸は乱れていない。 昨夜、泣いたあとの感覚がまだ残っている。
空っぽで、でも重くはない。 逃げたいとは思わない。
昨日の行動を、間違いだったとも思っていない。 ただ——
あの場にいた重さだけが、まだ体の奥に残っていた。 扉の外で、控えめなノックがする。
「起きてる?」
マレーナの声だった。
「はい」
扉を開けると、いつもの受付服のまま立っている。 手ぶらだ。用事があるふうでもない。
「……昨日のあと、少し気になってね」
それ以上は言わない。
「……どうぞ」
二人でテーブルにつく。 マレーナは椅子に腰を下ろし、一度だけ部屋を見回した。
「体は?」
「大丈夫です。怪我はしてません」
即答だった。 マレーナは短く頷く。
「そう。ならいい」
それだけで済ませる。
「昨日のこと、後悔してる?」
ルーシーは、首を振った。
「してません」
間はない。
「あの場では、あれしかなかったと思います」
マレーナはすぐに返さず、一拍置いてから口を開いた。
「怖かった?」
「はい……怖かったです」
「今は?」
「……残ってます。でも、動けないほどじゃないです」
その答えに、マレーナは少しだけ息を吐いた。
「それなら、大丈夫ね」
慰めでも、評価でもない。事実の確認だ。
「昨日の状況で、あなたが力を出さなかったら—— 誰かが怪我をするどころじゃなかった」
言い切りだった。
「だから、間違ってはいない」
ルーシーは、静かに頷いた。
「ただ」
マレーナは続ける。
「自分が何をしたかを、ちゃんと分かってしまった」
「……」
「それは、楽なことじゃない」
ルーシーは視線を落とす。 昨日の感触が、手のひらに蘇る。
「……力を使うのは、まだ怖いです」
「当然よ」
即答だった。
「怖くならなかったら、それはそれで問題」
少し間が空く。
「マスターはね、ああいう判断をあまり言葉にしない人」
マレーナは窓の方を見た。
「何を見て、どう考えたかは、本人から聞いた方がいい」
それ以上は踏み込まない。
「普通なら、Eランクは実績を積んで申請すれば、Dに上がる」
視線を戻す。
「あなたは、数字だけ見ればもう足りてる」
一拍。
「でも、今回は少し扱いが違う。 力がある分、判断は慎重になる」
「……」
「決めるのは、マスターよ」
拒絶ではない。保留だ。
「……嫌?」
ルーシーは首を振った。
「いいえ」
少し考えてから、正直に言う。
「……一人で決められないなら、その方がいいです」
マレーナは静かに頷いた。
「そう言えるなら、問題ない」
立ち上がり、扉に向かう。
「今日は無理に仕事を入れないで。 午後、ギルドに顔を出しなさい」
「はい」
「マスターが、少し話したいって」
扉の前で足を止める。 振り返らずに言った。
「昨日みたいな夜があってもいい。 でも、ちゃんと戻ってこれてる」
扉が閉まる。
ルーシーは、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。
怖さは残っている。 力も、なくなっていない。
それでも。 逃げていない。 間違ってもいない。
「……よし」
午後、ギルドへ行こう。 判断を、自分ひとりで抱え込まないために。




