第30話 戻ってきた居場所
ルーシーが部屋の扉を閉めた途端、音が途切れた。誰かの声も、足音もない。ルーシーはそのまま立ち尽くし、少し遅れて息を吐いた。
胸当ての留め具を外して机の脇に置き、短剣を布で包んで、同じ場所に置いた。手も、指も、ちゃんと動く。
水桶の布で腕を拭くと、赤い色はすぐに落ちた。自分の血じゃない。それでも、獣と鉄と土の混じった、あの場の匂いだけが残った。深く息を吸おうとして、やめた。
椅子に浅く腰を掛けたまま、動けなかった。
膝の裏で鳴った、ぶつっ、という音が、まだ手首に残っていた。
机の木目のあいだに、こちらを見たまま光の消えていく、灰色の目があった。
――とん、とん。
控えめなノックに、少し遅れて、ルーシーは顔を上げた。
「はい」
掛け金の穴に、釘は差していなかった。そこまで、手が回らなかった。
扉が開いた。
「失礼するわね」
マレーナだった。いつもの、落ち着いた声だ。脇に、回収の帳面を挟んでいる。その視線が、机の上の装備と短剣をひと巡りして、最後に、ルーシーの顔に来た。
「装備の確認。今日中に回収することになっててね」
(あ。『戻りました』って、言ってない)
「どうぞ。そこ、使ってください」
ルーシーは、机の脇のもう一つの椅子を引いた。マレーナは一瞬だけためらい、それから腰を下ろした。
「どこか、痛むところは?」
「大丈夫です。怪我はしてません」
「そう」
それ以上は聞かなかった。マレーナは帳面を膝に置き、その下から小さな布の包みを取り出して、机の端に置いた。
「食堂で余ってたの。捨てるのも、もったいないから」
包みの口から、焼き色のついた皮がのぞいていた。丸いパンが、一つ。
ルーシーは、パンから目を離せなかった。
「話は、明日でいいわ。今日は装備だけ。無理に話す日じゃないでしょ」
マレーナは、すぐには立ち上がらなかった。帳面を開きもせず、ペンを持ったまま、ただ、そこに座っている。そのペン先は、一度も紙に触れなかった。
喉の奥が詰まる。
「すみません。すぐ、まとめますから」
声だけは、いつもの声が出た。胸当てに手を伸ばして、立ち上がりかけたとき、マレーナが言った。
「ルーシー」
それだけだった。
毎朝、受付で聞いている声だった。「おはよう」がついていないだけの、いつもの呼び方だ。語尾まで、ちゃんと伸ばして。
膝から、力が抜けた。
椅子に落ちるように座り直すと、視界が滲んだ。
「あ……」
慌てて瞬きをしたが、遅かった。一粒、落ちる。それを合図にしたみたいに、次々と涙がこぼれ、止めようとしても、止まらない。
「すみません」
声が震えた。マレーナは、すぐには答えなかった。代わりに、椅子を少しだけ引いた。
「大丈夫よ。ここで、座ってなさい」
ルーシーは、完全に崩れた。嗚咽が、はっきりと音になった。
肩に食いこんだ歯の重さ。暗いままのスマホ。返していない、昼のメッセージ。
この世界で、瑠衣と呼ぶ人は、一人もいない。
「……いたかった」
口からこぼれたのは、この世界の言葉ではなかった。
「こわかった。……ずっと、こわかった」
日本の言葉だった。
「うん」
マレーナが言った。
分からないはずの言葉だった。それでもマレーナは、ルーシーの声が途切れるたびに、一つずつ、「うん」と返した。
ルーシーは、額が膝に触れるほど前屈みになった。
膝の上の手が、マレーナの袖のほうへ動きかけて、拳になって戻った。
マレーナは、動かなかった。抱き寄せないけれど、席も立たない。机の端のパンの隣で、同じ時間を置いている。
「長かったでしょう」
ぽつりと、マレーナが言った。
「一人で、よくここまで来たわね」
嗚咽が、さらに強くなった。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。やがて、泣き声がかすれ、呼吸が少しずつ整ってくる。涙はまだ落ちるが、もう、押し殺そうとはしなかった。
マレーナは、そこで初めて立ち上がった。ルーシーの少し横に回り、椅子の背に一度だけ手を置いた。
「今日は、ここまででいい」
「はい」
マレーナは胸当てを抱え、小手を重ね、布に包んだ短剣をその上に載せた。革の音が、静かな部屋に小さく響いた。
「回収は、私がやっておくから」
扉の前で、マレーナの足が止まった。
「マレーナさん」
ルーシーは、袖で顔を拭った。今度は、この世界の言葉を探した。朝、言いに来なさいと言われていた言葉だ。
「……戻り、ました」
マレーナの手は、扉の取っ手にかかったままだった。
「……おかえり」
短い声だった。
「明日でいいから。顔、見せられたら」
扉が、静かに閉まった。
扉の向こうで、足音はしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと遠ざかっていった。




