第29話 赤の重み
掲示板の端の赤い紙が、朝のうちに剥がされていた。
ルーシーが受付に立つと、マレーナが帳簿から目を上げないまま言った。
「ギルド長が、少し話をしたいって。奥へ行って」
奥の部屋では、ローデリックが机の前に立っていた。指の間で、硬貨が一枚、転がっている。前置きはなかった。
「赤の討伐に、補助を一人付けたい。受けたのはBだ」
硬貨が、指の背を一つずつ渡っていく。
「北の縁の跡を見つけたのは、お前だ。靴まで入れたそうだな」
ルーシーは、靴の中で足の指を縮めた。
「行くか。断っても、帳面には何も書かん」
硬貨が、手のひらの中に握りこまれた。
髭の荷車の横板の、四本の筋が浮かんだ。空の椀を返すときも膝の上から目を上げなかった、荷縄の人の顔も。
「行きます。あの跡の主を、見ておきたいので」
「見るだけだ。一人では戦うな。装備はフィリスから受け取れ。終わったら返せ」
通路で待っていたフィリスが、丁寧すぎるほど丁寧な手つきで、革の胸当てと小手、短剣、それに最低限の医療品を差し出した。
「全部、返してね。胸当ても、小手も、あなたも」
「最後のは、備品ですか」
「いちばん高いやつ」
胸当ての留め具に手間取りながら受付の前を通ると、マレーナが出発の名簿を開いていた。レッドスティール、と書かれた行の下に、ペン先がもう一行書き足していく。丸みのある形が三つと、短い横棒が一本。自分の名前の形なら、もう読める。
「戻ったら、まずここに来て。あなたの口で、『戻りました』って言うの」
ペン先が、名前の横の空いた欄を、とん、と叩いた。
「印は、それからつけるから」
門前広場に、装備の整った四人が揃っていた。昨日、赤い紙の前にいた四人だった。
赤い矢羽の矢筒を背負った女が、ルーシーの靴から頭まで、一度で見た。
「ミラ。後衛は任せて。危ないから、飛び出さないでね」
丸い大盾を担いだ男が、首を鳴らした。盾は、男の肩から膝までを隠すほど大きい。
「ハウル。前は俺が受ける。で、補助って、荷物の番か?」
「ハウル」
低い声がした。右肩だけ革の色が新しい鎧の男だった。継ぎの当たった肩を一度回して、ルーシーに向き直る。
「グレンだ。レッドスティールを預かってる」
ハウルは肩をすくめ、腰の水袋を外して、ルーシーに放った。
「なら、これ頼む。荷物の番」
ルーシーは水袋を両手で受け止めて、真面目にうなずいた。
「はい。荷物の番、がんばります」
「荷物、それだけだけどね」
ミラが、弓の弦を指で一度弾いた。
最後に、細身の男が、腰の小さな鞄を軽く持ち上げてみせた。
「セイン。治療と応急処置だ」
「今日は、俺の後ろをついてきてくれ」
グレンが言い、門が開いた。
歩きながら、グレンが振り返った。
「目標はグラヴィス。突っ込んでくる。曲がるのは下手だ」
「止めようとするな。受けたら潰れる」
ハウルが低く付け足した。ミラが、ルーシーの腰に目をやる。
「その短剣、抜いたことある?」
「箱の紐を切るのに、一回」
「荷物の番に、ぴったりだな」
「ハウル」
「半分な」
雑木林に入ると、四人の間隔が、言われもしないのに広がった。林の底には細い水が染み出して、黒く濡れた土の帯ができていた。
地面に、深く抉れた跡が続いていた。草が根元から倒され、同じ向きに押し流されている。踏まれた土に、重い蹄の跡が沈んでいた。
(深い。でも、昨日の跡ほどじゃない。靴は、入れない)
グレンが手を上げると、全員が止まった。
草の向こうから、地面を叩く振動が伝わってくる。次の瞬間、草が爆ぜ、黒く厚い体が一直線に突っ込んできた。額から鼻先まで、盾のような骨の板が盛り上がっている。
「散れ!」
巨体がすぐ横を抜けていき、ハウルの刃も、ミラの矢も、厚い皮の上を滑った。
二度目は、こちらへ来た。
グレンの背中が、左へ跳んだ。ルーシーも跳んだ。半歩、足りなかった。
額の骨の板が、胸当ての端を裂いていった。かすめた力に引っぱられて、体が半回転する。
過ぎていく黒い尻が、三歩先にあった。
(追いつける)
グレンの手が、背中ごしに開いていた。来るな。
足の指で、地面をつかんだ。前へ出たがる膝を、腿の裏で引き戻す。
巨体は三歩先で向きを変えきれずに、木の幹へ肩からぶつかった。追っていたら、巨体と幹のあいだにいた。
三度目はハウルの盾が斜めに受け流し、四度目のあと、向きを変えきれない巨体が、横腹をこちらへさらした。三歩で届く。爪先に、体重が勝手に乗った。
(青でも、一拍)
グレンの片手が、背中ごしに上がった。指が二本。握って、拳。それから、下へ。
ルーシーは膝を落とした。次の瞬間、巨体の後ろ脚が土を蹴り上げ、さっきまで行こうとしていた場所を、頭の高さで土の塊が抜けていった。
「ハウル、崩せ! ミラ、同じ所!」
ハウルの盾が体勢を崩し、ミラの矢が同じ傷に続けて刺さる。そこへグレンの刃が、傷を深く抉った。巨体が膝を折り、土煙が上がった。
「やった、か」
ハウルが、盾を下ろしかけた。
ルーシーは、まだ周りを見ていた。
一拍、間を置く。
右を見て、左を見て、もう一度、右を見る。
グラヴィスが来たのとは違う茂みが、一か所だけ、風と逆の向きに揺れている。
(……二台目)
「茂み!」
ミラが、弾かれたように振り向いた。
「ヴァル、三匹!」
灰色の影が三つ、低く、まっすぐ人間のほうへ走ってくる。
「セイン、右!」
グレンの声とほぼ同時に、一匹が横から跳んだ。セインの肩口に牙が入り、布が裂けて血が走る。
「問題ない、動ける!」
セインは片手で布を押し当て、位置を崩さなかった。ミラの矢が二匹目の鼻先で弾け、その一匹は悲鳴を上げて茂みの奥へ逃げこんだ。
セインに噛みついた一匹が、もう一度、喉を狙って身を沈めた。
考えるより前に、ルーシーは動いていた。ヴァルの首元に、短剣を突き刺す。
刃は、抵抗なく入った。皮も、肉も、何もなかったみたいに。
手の甲に、温かいものがかかる。目の前で、ヴァルの目が、こちらを見たまま、ゆっくりと光を失っていった。
抜こうとした。抜けなかった。崩れていく体の重さが、刃を伝って、手首に下りてくる。
指が、柄から離れない。
(……今の、私が)
手の甲にかかったものが、指のあいだで、少しずつ冷えていった。
「下がれ!」
グレンの声で、ようやく指がほどけた。刃を引き抜いて下がりながら、空いた手が勝手に、左の肩へ行っていた。噛まれた跡はもう、ほとんど残っていない。
残る一匹が、ハウルに跳びかかった。盾ごと押しこまれ、左腕が盾の縁と地面のあいだに挟まる。ハウルの口から、短い声が漏れた。グレンの刃が、その一匹を地面に縫いとめた。
セインが、肩口を押さえたままハウルに近づいた。
「腕、見せろ」
「後でいい」
「今。動かなくなる」
セインは自分の傷を放ったまま、ハウルの腕に布を巻いた。その手は震えていた。
「大丈夫だ。折れてない。……たぶん」
――ドン。
地面の奥で、振動が走った。
鳥が、一斉に飛び立った。羽音が頭の上を通り過ぎると、林から音が消えた。
――ドン。
さっきのグラヴィスとは、重さが違う。湿った獣の匂いが、風より先に来た。
正面の木が、根元からゆっくり傾いていく。めりめりと繊維の裂ける音がして、その木が倒れた向こうから、影が出てきた。
「……うそ」
ミラの声だった。
毛に覆われた巨体だった。煤けた灰色の毛が、首のまわりだけ逆立っている。頭は熊のように丸く大きく、閉じきらない口の端から、短剣ほどの牙が下へはみ出していた。一歩踏み出すたびに、地面が沈む。
(……でかい。立ち上がったら、屋根より高い)
「……ウル=ガルム」
グレンが喉の奥で言い、すぐに声を張った。
「散開! 距離を取れ!」
巻いたばかりのハウルの布に、赤いものがにじむ。セインが一歩遅れて、木の陰へ下がる。ミラの指が、一度、矢羽を取り落としかけた。
ウル=ガルムが、一気に踏み込んできた。速く、重く、迷いがない。狙いは、片腕で盾を構え直したハウルだった。
「ハウル!」
間に合わない。――だから、ルーシーは動いた。
巨体の側面へ回り込み、すれ違いざまに、後ろ脚の裏へ短剣を振る。刃は毛と皮の上を滑って弾かれた。返ってきた重さに押されて、濡れた土の帯の上で、踵がずるりと滑る。
立て直そうと蹴った地面が、思ったより遠くまで体を運んだ。後ろ脚の内側に転がりこむ。踏み下ろされてくる脚の裏が、見えた。
(あ、死ぬ)
脚は、ルーシーの上には落ちてこなかった。
踏み下ろした先は、さっきルーシーの踵を滑らせた濡れ土だった。爪が、土ごと横へ流れる。巨体がよろめいた。
(滑るのは、私だけじゃない)
「こっちだ!」
グレンの剣の柄が、巨体の鼻面を打った。その一瞬で、ルーシーは土を蹴って転がり出た。
頭の上で盾がきしみ、風を切る音が続いた。起き上がったときには、ウル=ガルムの喉元に、赤い矢羽が一本立っていた。
巨体は喉の矢を振り払うように首を振り、また前に出たハウルへ一直線に踏み込んだ。片腕の盾を、押し潰しに来る角度だ。
「ハウル、退け! 今の腕じゃ受けるな!」
叫びながら、セインが薬包を投げた。割れた包みから、目に染みる匂いが広がる。巨体の首が、わずかに揺れた。
ルーシーは、もう走っていた。視界が狭く、呼吸が浅い。いつもは少し眠たげなこげ茶の目が、巨体の膝の裏の一点だけを見ていた。
(踵じゃない。足の裏ぜんぶで、地面を掴む)
巨体が、ハウルへ向かう一歩のために、後ろ脚に体重を乗せる。毛の下で、膝の裏の太い筋が、ぐっと張りつめた。
そこへ、刃を直角に当てた。
浅く、注意を引くだけのつもりだった。刃は、つもりよりずっと深く入った。硬い筋に引っかかった、と思った次の瞬間には、もう押し切っていた。
――ぶつっ。
嫌な感触が、手首まで返ってくる。
(切れた。切っちゃった)
踏み出した脚が地面を掴めず、巨体が前のめりに大きく傾いた。叫び声が、悲鳴に近い音へ変わる。
「ハウル、肩! ミラ、喉!」
ハウルの盾が、傾いてくる肩を下から押さえた。ミラの矢が、喉の同じ所に二本目を刺す。グレンが横から踏み込み、首の付け根へ切りつけた。
巨体は、首だけを振り回した。その振りが、だんだん遅くなる。最後に、大きく息を吐くように力が抜けて、崩れ落ちた。
土煙が白く舞い、荒い息と耳鳴りだけが残った。
ルーシーは、短剣を握ったまま、自分の右手を見下ろした。血と毛がついているのに、指は少しも震えていなかった。
「全員、生きてるな」
グレンが、周りを見回した。
「俺は大丈夫だ。動ける」
セインが、肩を押さえたまま息を整えた。ハウルは盾に寄りかかって息を吐き、ルーシーのほうへ顎をしゃくった。
「……荷物の番は、取り消す」
ルーシーは、返事ができなかった。代わりに、腰から水袋を外して、差し出した。
ハウルはそれを受け取って、栓を抜いた。一口だけ飲んで、栓を戻すまで、水袋から目を上げなかった。
「あれ、完全に切れてる」
ミラが、ウル=ガルムの脚を見て低く言った。グレンの視線が、ルーシーに向いて、すぐに周りへ戻った。
倒れた巨体の後ろに、ここまで来た足跡が続いている。ルーシーは、後ろ脚の跡の一つに近づいた。縁が深く沈み、底の土が固く締まっている。
靴の先が、跡の縁の手前で止まった。
「グレン。北の縁の踏み跡。昨日、巡回で見たのと、これ、同じです」
声が、少しかすれた。
グレンがしゃがみ込み、跡の縁に手のひらを当てた。指をいっぱいに開いても、跡の幅には届かなかった。
「北の縁、か。帰ろう。持って帰る話が、一つ増えた」
ミラが、口の端からはみ出した牙を一本、切り落とした。
「証だけは持って帰ろう。肉と皮は、ギルドに任せる」
帰りは、ハウルを真ん中に入れて歩いた。草地に出たところで、ハウルがぽつりと「やばかったな」と言い、ミラが弦を一度だけ弾いて「ほんとに」と返した。それきり、誰も口をきかなかった。
ギルドの扉をくぐると、血の跡と装備の傷を見て、周りが自然と道を空けた。
受付のマレーナが顔を上げた。その目が、四人の顔を一つずつ数えて、最後尾のルーシーまで来た。ペン先から、インクが一滴、帳面に落ちた。
そのペン先が、奥の部屋の扉を指した。
奥の部屋で、グレンは黙って、机の上へ牙を置いた。ローデリックの手のひらより、長かった。
ローデリックは、転がしていた硬貨を、机の上の地図に置いた。北の森の縁の、いちばん新しい炭の丸の上だった。
「北の縁の跡の主だ」
グレンは、それ以上を言わなかった。ローデリックの目がルーシーに来て、ルーシーは一度だけうなずいた。
「森の外で、か。死人は」
「いない」
ローデリックが、ようやく息を吐いた。
「よく帰ってきた」
言ってから、最後尾に立つルーシーを見た。
「お前は、無事か」
「はい」
部屋を出ると、受付の前には、夕方の報告の列ができていた。ルーシーはその脇を、何も考えずに通り過ぎた。
ギルドを出て、夕方の通りに立ったとき、短剣を握っていた右手が、今になって震え始めた。




