第28話 見られているということ
「ノック。あれ」
ルーシーが指さした先で、森の縁に立つ木の太い枝が一本、折れて垂れ下がっていた。折れ口は、まだ白い。高さは、ルーシーが手を伸ばしても届かない。
今朝、ギルドの赤い紙の前には人だかりができていた。ルーシーとノックが受けたのは、その横の白い札――北の森の縁の巡回だった。
「風じゃないな」
ノックが近づき、足元に目を落とした。
枝の下の土が、深くへこんでいた。縁が沈み、底の土が固く締まっている。
「足の、穴……です」
「踏み跡だ」
「ふみあと」
口の中でくり返しながら、ルーシーは跡の中に、自分の靴をそっと入れてみた。
つま先から踵まで、すっぽり入った。縁は、足首の高さまである。
肘を、後ろから引かれた。ノックだった。黙ったまま、ルーシーを跡の外へ出させる。
「入るな」
「すみません」
跡の外の草を踏んだとたん、膝の裏が一度だけ、かくんと笑った。
(冷えた、せいだ)
ノックはしゃがみ込むと、腰の短剣を抜き、柄頭で跡の横の地面を突いた。柄頭が、爪の先ほど沈む。
同じ強さで、跡の底を突いた。
こつ、と硬い音がした。少しも沈まなかった。
「締まりきってる」
ノックは同じ形の跡を目で探して、森のほうへ数えていった。数えるたびに、指が一本ずつ立つ。
「踏み跡、三つ。間隔、俺の歩幅で四歩」
「私の歩幅だと、三歩半です」
「お前の歩幅で言うな。報告が変わる」
跡は森から出てきて、枝を折り、また森へ戻っていた。
「見たことがない深さだ。一つ、近づかない。二つ、持って帰って報告する。それだけだ」
「はい。今日は、指示が短いですね」
「長くしてる場合じゃない」
「ノックは、何の跡だと思いますか」
「知らないものの跡だ。だから、報告する」
ノックは、森から目を離さなかった。
森の奥で、めりめりと、何かの裂ける音がした。
太い幹が、根もとから折れていく音だった。少し遅れて、足の裏に、地面が一度だけ低く響く。右手の梢から鳥が一斉に飛び立ち、左手の鳥は、一羽も動かない。
ノックの指は、一本も立たなかった。
「……下がる」
それだけだった。
(背中を見せて走れば、追ってくる。犬でも、そうだ)
森から目を離さないまま、一歩、下がった。ノックも、同じ速さで下がる。一歩。もう一歩。踵で草を探りながら、踏み跡から遠ざかっていく。
森は、それきり鳴らなかった。
草地の真ん中まで出て、ようやくノックが、長い息を吐いた。
「今のも、報告に入れる。数えられなかったがな」
だいぶ歩いてから、ノックが聞いた。
「スクリットの件の一行。気にしてるか」
「消えない、って言われたので」
「マレーナは、気にしてないぞ」
ノックは腰の袋から畳んだ依頼書を出して、ひらひらと振った。
「今朝、この紙を俺に押しつけたのは、あいつだ。『今日のあの子なら、ちょうどいい』だとさ。『昨日より、ね』とも言ってた」
ルーシーはその紙を見て、それから、自分の手の甲を見た。
ノックは紙をしまうと、指を三本立てた。
「俺は新人のころ、三つもらった。数えてる。忘れないようにな」
立てた三本の指は、しばらく下りなかった。
「指示が長いのも、その三つのせいですか」
「二つ目のせいだ」
ノックは、その先を言わなかった。
横の茂みが、ざわりと揺れた。
体が、勝手に前へ出かける。重心が爪先へ乗り、膝が沈む――そこで、自分で止まった。
(一拍)
ノックの腕は、止まったあとの胸の前に来た。
茂みから飛び出してきたのは、茶色い鹿だった。鹿は二人を見てぴたりと止まり、跳ねるように草地を横切って、反対側の林へ消えた。
ノックが、ルーシーの胸の前に伸びた自分の腕に目をやった。
「腕、要らなかったな」
「要りませんでした」
「止まれてなかったら、鹿を殴ってたな」
「殴りません」
「スクリットは殴った」
「あれは、はい」
ノックの口の端が、片方だけ上がった。ルーシーは、上がりかけていた肩を下ろした。さっきの森の音のぶんまで、一緒に下りていった。
「減点、二つ目にならなくてよかったな」
ノックが、指を一本立ててみせた。まだ、一本のままだった。
「数えないでください」
「数える」
ギルドへ戻ると、ノックは受付を素通りして、奥への通路に入った。
「報告は、受付じゃないんですか」
「跡の話は、上に直接だ。二つ目の時に、覚えた」
奥の部屋の前まで来たとき、ちょうど扉が開いた。出てきたローデリックの指の背で、銅貨が転がっている。
「巡回完了。未接触。それと、北の縁で踏み跡。見つけたのは、こいつだ。こいつが言う」
ノックが、ルーシーを顎で示した。
(結論から。数字で。朝会の三分)
「北の縁の巡回中に、森から出て、また森へ戻る踏み跡が、三つ。深さは、ここまでです」
ルーシーは、自分の足首の高さに、手のひらを水平にかざした。
「間隔は、ノックの歩幅で四歩。枝が一本、人の背より上で折れていました。そのあと、奥で木が一本倒れました。風は、ありませんでした。これで、全部です」
ローデリックの指の上で、銅貨が止まった。
「……三行か。マレーナが一枚書いた新人が、自分の口だと三行か」
「あと、こいつの靴が、跡にまるごと入った」
ノックが、横から付け足した。
(それは、報告しなくていいのに)
ローデリックは、開いたままの扉の奥を一度振り返った。机の上に地図が広げたままになっていて、北の森の縁に、炭の丸がいくつも打ってあった。
「書いて出せ。今日のうちに」
扉が閉まった。
廊下を戻ると、書類の束を抱えたマレーナとすれ違った。マレーナは足を止めず、目だけをルーシーに向けた。
「ルーシー。知らない跡に、靴は入れないこと」
「はい」
(どこから聞こえてたんだろう)
「言ったんだがな」
ノックが、口の中で言った。
広間に出て、掲示板の前を通り過ぎたとき、背後で小さな声がした。
「……あの人か」
女の声だった。続けて、低い男の声が、半分笑うように言う。
「思ってたより、細えな」
振り返ると、赤い紙の前に、冒険者が四人立っていた。
赤い矢羽の矢筒を背負った女と、丸い大盾を担いだ男。初めて受付で話した朝、掲示板の赤い札の前にいた二人だ。その後ろで、右肩だけ革の色が新しい鎧の男が、赤い紙の字を指でなぞっている。いちばん端では、細身の男が、腰に下げた小さな鞄の口を締め直していた。ギルド長の部屋の前で、すれ違った二人だった。
四人はもう、こちらを見ていなかった。




