第32話 階段の踊り場
午後のギルドの扉を押すと、すぐ脇で、若い冒険者が二人、拳と拳を、こつんと合わせていた。
「で、これ、何になるんだ」
「知らねえ。ぐーたっち、っていうんだと。素手でヴァル転がした女が、始めたらしい」
「どんな女だよ」
「背がでかくて、頭が金色の――」
ルーシーは、できるだけ背中を丸めて、二人の脇を通り抜けた。背中は丸められる。頭の色は、どうにもならない。
(倉庫の親指と、同じ広がり方だ)
広間の向こう端で、ノックがこちらに気づいた。いつもの癖で指を一本立てかけて、やめて、代わりに親指を立てた。隣でバロウが槍を抱えてあくびをし、エルナは矢羽から顔も上げなかった。
「おい、ルーシー! 俺たち、Dになったぞ。先輩だぞ」
広間の奥で、首に汗止めの布を巻いたトムが胸を張っていた。その脇腹を、リナが肘でつつく。
「一足先にな」
カイが付け足した。
「おめでとうございます。……先輩」
「おう。いや、言われると照れるな、これ」
トムは耳を赤くして、腰の紐に下げた銅色の札を、ルーシーの目の前で揺らしてみせた。リナがその手首をつかんで、そっと下ろさせた。
壁際で、革の人が片手を上げた。
そちらへ一歩踏み出しかけたとき、受付から声がした。
「来たわね」
マレーナだった。仕事用の顔だが、目元だけが柔らかい。ルーシーの腫れたまぶたを一度見て、ペンを耳に挟んだ。
「マスターが待ってる。奥へどうぞ」
振り返ると、壁際には、もう誰もいなかった。
奥の部屋で、ローデリックは窓際に立っていた。指の間で、硬貨が一枚、転がっている。
「座れ」
ルーシーが腰を下ろすと、ローデリックは自分の席には座らず、右の膝を手のひらで一度さすってから、机に軽く腰を預けた。
「体調は」
「問題ありません」
「昨日の報告は、レッドスティールからも聞いている。Eランクの動きではなかった。それは自覚しているな」
「はい」
ローデリックは硬貨を手の中に握りこむと、もう片方の手で、机の上の何かをルーシーの前に置いた。
小さな、銅色の金属の札だった。角ばった文字が一つ、刻まれている。言葉の部屋で、最初に覚えた文字の一つだ。
「D」
「受け取れ。今日付で、お前をDランクとする」
「審査は?」
「終わった」
ローデリックは、窓の外の、森の方角へ目をやった。
「昨日のあれが、試験だ。待つところで待った。待てないところで、動いた。どっちも、間違えなかった。取り乱しもしなかった」
ローデリックの目が、ルーシーの腫れたまぶたに行き、それから扉のほう――受付のある広間のほうへ動いた。
「現場では、な」
ルーシーの耳が、熱くなった。
「条件がある」
ローデリックは、硬貨を机に置いた。
「仕事は、俺が選ぶ。掲示板には触るな」
(掲示板の前で、もう迷わなくていい?)
「面談は、マレーナだ。崩れていると見たら、止める」
「止めて、もらえるんですか」
「止める。窮屈な首輪付きだ。不服か」
ルーシーは、ほっと息を吐いた。
「お願いします。それがいいです」
「変わった奴だ。普通は、ここで嫌な顔をする」
「私は、英雄になりたいわけじゃありませんから。鍵のかかる部屋で、普通に眠れれば、それで」
「……鍵、か」
ローデリックの口もとが、ほんのわずかに緩んだ。
「首輪付きでも、鍵くらいは買える。それくらいは、稼がせてやる。下がっていい」
札を上着のポケットにしまおうとして、中にあった社員証の角に、指が触れた。
(首から下げる札が、また一枚)
一礼して扉に手をかけたとき、背中でローデリックの声がした。
「あれが、なぜ森の外に出てきたのかは、まだ分からん」
振り返ると、ローデリックは窓の外を見ていた。指の間で、硬貨がまた転がりはじめていた。
廊下の出口で、マレーナが待っていた。
「おめでとう。首輪付きのDランクさん」
広間まで、よく通る大きさだった。
(『首輪付き』は、できれば小声で)
「望むところです。これで、路頭に迷わずに済みます」
「面談は、私の担当よ。さぼったら、首輪、引っぱりに行くから」
「はい。引っぱってください」
「そこは、少しは嫌がりなさいよ」
「嫌じゃないので」
マレーナは耳からペンを抜いて、先に立って歩き出した。
「受付まで来て。渡すものがあるから」
広間に出たところで、どこかで、カツ、カツ、と杖が床を鳴らした。
ルーシーの足が、その場で止まった。
掲示板の前で、ユリオが笑っていた。隣でマルサが吹き出し、ディンが、ぼそりと言った。
「止まった」
「ディンが、四文字しゃべりました」
「突っ立ってる係、首輪がついたんだって?」
マルサが、斧の柄の先で、自分の首をなでてみせた。
「はい。突っ立ってる係、昇格しました」
ディンが、石突きで床を一度だけ鳴らした。
柱の前の卓では、羽根の人が連れと杯を傾けていた。ルーシーの顔を見ると、杯を置いて立ち上がり、足を開いて肘を張ってから、拳を出した。
「D祝いだ。半分な」
「今日は、四分の一にします」
こつん。羽根の人の拳は、少しも動かなかった。
「物足りねえ」
「お前、押されたいのかよ」
連れが言った。
近くの卓で見ていた冒険者が二人、何となく拳を合わせた。こつん、と、もう一つ向こうの卓でも鳴った。
羽根の人の卓の脇の柱には、釘が一本打ってあった。釘に、草の茎が一本、結んで掛けてある。さっき入ってきたときには、なかったものだ。
柱の陰に、革の胸当てが見えた。
ルーシーは、マレーナの背中に「すぐ行きます」と声をかけて、柱を回りこんだ。広間のざわめきが、柱一本ぶん、向こうになった。
革の人は、柱に背を預けていた。今度は、消えなかった。
「あの、ギルドさん」
言ってから、しまった、と思った。
口の茎が、ぴたりと止まった。
「……それは、やめろ」
低い声だった。この人の言葉を、意味ごと聞き取れたのは、初めてだった。
「じゃあ、何とお呼びすれば」
革の人は、自分の胸当てを、拳の背で一度叩いた。倉庫で『ギルド』と言ったときと、同じ叩き方だった。
「……革でいい」
心の中では、とっくにそう呼んでいた。
ルーシーは背筋を伸ばした。言うことは、ずっと前から決めてあった。
「あの日、倉庫から連れ出してくださって、ありがとうござい――」
「それも、やめろ」
下げかけた頭の前に、革の人の手のひらが差し出されていた。
ルーシーは、その手のひらを、そっと打った。
ぱち、と小さな音がした。
倉庫で初めて打ち合わせたときは、梁まで響いた。
革の人は、自分の手のひらを見下ろした。それから、もう一度、同じ高さに差し出した。
ルーシーも、もう一度打った。
ぱち。
手のひらに残ったのは、しびれではなく、相手の手の乾いた温かさだけだった。
口の端の茎が、ゆっくり一度、上下した。目尻に、皺が一本だけ寄った。
柱の釘を顎で示すと、革の人は広間の人の流れに紛れていった。
ルーシーは結び目をほどいて、茎をくわえてみた。最初は苦い。噛みつづけると、あとから、ほのかに甘くなった。
(おやつ。たぶん、おめでとう)
受付の向こうで、マレーナが振り返った。ルーシーの口もとに一度だけ目をやって、カウンターの下へ手を入れる。
「で、Dランクさん」
ずしり、と重い音がして、カウンターの上に革袋が並んだ。大きいのが二つと、小ぶりなのが一つ。
「これ、一人で持てる?」
長くなってしまいましたがようやくDランクに昇格できました。
ルーシーの過去も少しだけ出してみました。




