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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする 〜なぜか体だけが強すぎる元会社員、目立たず働きたいだけなのに〜  作者: Yuki
第一章 普通の仕事ができるまで

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第3話 逃げ切れない

挿絵(By みてみん)

 (……二匹目)

 重い足音が二つ、少しずつずれて地面を打っている。さっき遠くで応(こた)えた声の主だ。

 瑠衣(るい)は岩のすき間へ、体を横にして滑りこんだ。肩を岩に擦らせながら、曲がった奥へ抜ける。スーツの肩が、ざらりと鳴った。

 背後で、何かが岩にぶつかる鈍い音がした。

 出口から振り返ると、一匹が入口で体をよじり、もう一匹が岩の上へ回りこもうとしていた。

 止まらない。止まったら、終わる。

 すき間の先は、緩やかな下り斜面だった。濡(ぬ)れた落ち葉が、足首まで積もっている。

 三歩目で、右足が流れた。

「わっ」

 沢の水を吸った革底が、落ち葉の上を、氷の上みたいに滑る。とっさに左手をつき、膝で踏みとどまった。手のひらが、冷たい泥でぬるりとする。

 (でも、滑るのは、私だけじゃないよね)

 下りきった所に、小さな窪(くぼ)みがあった。縁(ふち)から底まで、落ち葉が吹きだまって、ふかふかに盛り上がっている。

 落ち葉の薄い木の根を選んで下る。背後で枝が折れ、一匹が岩の上から跳び降りたのが分かった。

 窪(くぼ)みの縁に差しかかった。

 背後で、落ち葉を蹴(け)る音が、ふっと途切れた。上の斜面から、一匹が瑠衣の頭をめがけて、まっすぐ跳んだのだ。

 瑠衣は、わざと足を滑らせた。

 体が横へ倒れる。止まらずに、窪(くぼ)みの縁に沿って横へ転がった。

 すぐ上を、灰色の影が越えていった。

 下り坂の勢いを全部乗せた前足が着いたのは、瑠衣が転がって空けたあとの、窪(くぼ)みの内側の濡(ぬ)れた落ち葉の上だった。

 爪が、落ち葉ごと滑った。

 狼(おおかみ)はそのまま、窪(くぼ)みの底まで滑り落ちていった。落ち葉が舞い上がり、甲高(かんだか)い鳴き声がした。

 瑠衣は泥まみれで立ち上がった。右の踵(かかと)が、ぐらりと浮く。転がったときに、どこかへ打ちつけたらしい。

 窪(くぼ)みの底では、狼(おおかみ)が斜面を登ろうとしてもがいていた。前足をかけるたびに、落ち葉ごとずり落ちる。

 もう一匹の足音は、斜面の上から降りてくる。

 息が荒くなってきた。

 (一匹だけ、止める)

 少し下に、太い倒木が横たわっていた。瑠衣はその陰まで駆け下りて身を寄せ、息を細く吐ききって、止めた。

 足音が近づいてくる。止まる。また、ゆっくりと近づく。

 自分の心臓の音が、倒木の向こうまで聞こえてしまいそうだった。

 倒木の端から、鼻先が出た。地面に近づけて、瑠衣の匂いを追っている。全部の注意が、地面に向いていた。

 瑠衣は陰から出た。拳(こぶし)は使わない。相手の横をすり抜けざま、地面についた前足の内側を、足の甲ですくうように払う。

 狼(おおかみ)の体が、横へ傾いた。

 そして、思ったより遠くまで、転がった。

 一度、二度、三度と斜面を転げ落ち、木の幹に背中を打ちつけて、高く鳴く。ずっと下で幹が揺れ、少し遅れて、梢(こずえ)から鳥が二羽、飛び立った。

 狼(おおかみ)はよろめきながら起き上がり、片足をかばって、斜面の下の藪(やぶ)へもぐりこんでいった。

 瑠衣は一瞬だけ、自分の右足を見下ろした。革の靴の先に、灰色の毛が一本ついていた。

 (足場が悪かった、ね。下り坂だし)

 窪(くぼ)みのほうから、落ち葉を掻(か)く音が近づいてくる。底の一匹が、這(は)い上がってきたのだ。

 縁に、泥と落ち葉にまみれた灰色の頭がのぞいた。

 その目が、瑠衣から、斜面の下で鳴いている仲間のほうへ流れた。耳が後ろへ伏せられ、縁にかけていた前足が、一歩、内側へ下がる。

 (さっきまで、あんなに強気だったのに)

 一瞬、にらみ合いになった。向こうは泥だらけで、こちらも泥だらけだった。肩に貼(は)りついた濡(ぬ)れ葉が、一枚、ぽとりと落ちた。

 止めは刺さない。刺している時間もない。

 瑠衣は背を向けて走った。

 右の踵(かかと)が、一歩ごとにぐらりと浮く。速度が上がらない。

 背後で、落ち葉の弾(はじ)ける音がした。ためらったぶんを取り返すように、足音が一気に詰まってくる。

 背中に衝撃が来て、鋭い痛みが走った。

「……っ」

 噛(か)まれたのは、左の肩口だった。牙(きば)が布ごと食いこみ、後ろへ引っぱられる。止まったら、引き倒される。

 瑠衣は前へ、体ごと投げ出した。

 布の裂ける音がした。

 肩が、ふっと軽くなる。振り返ると、狼(おおかみ)の口に、灰色の布切れがぶら下がっていた。

 温かいものが、肩から背中へ、じわりと滲(にじ)んでいく。

 (スーツ、もう完全にだめだ)

 それでも走った。動ける。判断も、まだできる。

 一歩ごとに、肩が脈を打つ。どちらへ向かっているのかも分からないまま、足だけを前へ出す。

 どこか遠くで、甲高い音が一度鳴った。鳥の声にしては、まっすぐすぎる音だった。

 背後の足音がためらうように乱れ、それから、遠ざかっていった。

 足もとが、踏み固められた土に変わっていた。細い道だった。

 瑠衣は道の脇の太い木の根もとに、背中を預けて座りこんだ。肩口に触れると、破れた布の下で、指先が赤く濡(ぬ)れた。

 森は静かだった。鳥の声が、少しずつ戻ってくる。

 この森で、自分がここに座っていることを知っている人は、一人もいない。会社も、課長も、昼のメッセージの相手も。

 視界の端で、人影が三つ、動いた。

 道の向こうから、こちらへ近づいてくる。先頭の一人が口に指を当てて、短く鳴らした。さっき森に響いた、あのまっすぐな音だった。

 立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気づいた。

 (ここで終わるのは、困る)

 いちばん大きな影が、目の前で膝をついた。肩の傷のほうへ、太い指が伸びてくる。

 その後ろで、もう一つの影が、瑠衣の来た森の奥を振り返っていた。その目が、瑠衣の靴の先――灰色の毛が一本ついたままの所を見て、自分の足で、宙を払うまねをした。

 瑠衣は口を開いた。

「……すみません。この辺に、病院って――」

 最後まで言えたかどうかは、覚えていない。

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