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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする 〜なぜか体だけが強すぎる元会社員、目立たず働きたいだけなのに〜  作者: Yuki
第一章 普通の仕事ができるまで

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第2話 森、距離、確認

 頬(ほお)を、もう一度、温かいものがなぞった。

 目を開けると、黒く濡(ぬ)れた鼻先が、まつげに触れそうな所にあった。

 (大きい犬)

 鼻先が離れていった。

 灰色の荒い毛。耳の立った、大きな頭。半開きの口の奥に、黄色い歯が並んでいる。知っている狼(おおかみ)より、ひと回り大きい。

 頬の湿り気が、急に冷たくなった。

 瑠衣(るい)は大きな木の根と根のあいだのくぼみに、仰向(あおむ)けに寝ていた。狼(おおかみ)は三歩ほど下がった所で首を低くして、こちらを見ている。値踏みをする目だった。

 目を離さないまま、ゆっくり肘をついた。首、肩、肘、手首。どこも痛くない。車にはねられたはずなのに、すり傷ひとつない。

 上半身を起こすと、狼(おおかみ)の耳がぴくりと動いた。瑠衣はそこで止まった。狼(おおかみ)も動かない。

 根に手をかけ、時間をかけて立ち上がる。灰色のスーツは、背中から裾(すそ)まで湿った土でまだらになっていた。

 (クリーニング代、かかりそう)

 左の手首で、腕時計(うでどけい)が鈍く光った。針は夜の七時少し前。横断歩道を渡ったときと、ほとんど変わらない。けれど葉の隙間からこぼれる光は、どう見ても朝のものだった。

 肩に手をやった。鞄(かばん)の紐(ひも)がない。財布も、定期も、手帳も、全部あの鞄(かばん)の中だ。

 (明日の会議の資料は、机の右の箱。課長なら見つけてくれる)

 こんな時にまずそれか、と自分で呆(あき)れた。

 目の端で地形を拾う。道も、建物も、電線もない。木々のずっと向こうに、岩らしい灰色のかたまりが小さく見えた。逃げるなら、あそこだ。

 背中を見せれば、追ってくる。犬でもそうだ。瑠衣は相手から目を離さずに、一歩、ゆっくりと下がった。

 狼(おおかみ)も、一歩出た。

 また一歩下がる。狼(おおかみ)も一歩出る。間合(まあ)いは少しも変わらない。灰色の背中の毛が、じわじわと逆立(さかだ)っていく。

 瑠衣は上着の前を開き、裾を両手で大きく広げた。体を大きく見せて、目を逸らさず、低い声で。山道の看板で読んだやり方だ。

 (熊の場合、だったけど)

「……来ないで」

 狼(おおかみ)の足が止まった。首を傾けて、こちらを見ている。効いたのか、珍しがられているだけなのか。

 ここはたぶん、向こうの縄張(なわば)りだ。

「お邪魔してます」

 小さく付け足して、また一歩下がる。狼(おおかみ)は鼻に皺(しわ)を寄せ、歯をむいた。

 (ご挨拶は、受け取ってもらえなかった)

 森の遠くで、別の獣(けもの)の声が短く応(こた)えた。

 四歩目で、踵(かかと)の下の枯れ枝が、ぱきりと鳴った。

 狼(おおかみ)の耳が後ろへ伏せられ、前足に、ぐっと重さが乗った。

 瑠衣は走った。

 全力ではなく、長く保てる速さで。木の根を避け、石を踏まない所を選ぶ。足もとは会社用の革底の靴だ。ヒールが低いのだけが救いだった。

 背後で、落ち葉を蹴(け)る音が始まった。重い足音が、規則正しく、少しずつ近づいてくる。

 行く手を、浅い沢が横切っていた。石を選んで跳ぶ暇はない。そのまま水に踏みこんだ。

「つめたっ」

 水が靴の中まで入ってくる。向こう岸へ上がったとき、背後で、狼(おおかみ)が水を蹴立てる派手な音がした。

 一歩ごとに、靴の中で水が鳴る。踵(かかと)が、ぐしゅりと滑る。

 土手を駆け上がったとき、踵(かかと)のすぐ後ろで、カチッと乾いた音がした。歯の噛(か)み合う音だった。ふくらはぎに、獣の息が熱くかかる。

 振り向かない。振り向けば、その分だけ遅れる。

 前に、倒れた細い木が一本、膝の高さで行く手をふさいでいた。

 またいで越えるつもりで、踏み切った。

 膝より高く、跳んでいた。

 足もとの景色が長く流れる。倒木は、靴の底のずっと下を過ぎていった。濡(ぬ)れた革底が土をつかみ、着地した足から、次の一歩がそのまま前へ出た。

 後ろの狼(おおかみ)は、倒木の手前で足を止めた。倒木と、その先を走っていく瑠衣とを、首ごと一度見比べる。それから、横へ回りこんだ。

 足音が少し遠のいた。差が、開いた。

 瑠衣は走り続けた。斜面を一つ上り、低い枝をくぐる。遠いと思っていた岩場が、気がつくと目の前にあった。

 (あれ。息が、まだ上がらない)

 胸は大きく動いているのに、苦しくない。脚も重くならない。

 (火事場の何とか、ってやつかな)

 岩場は、大きな岩が二つ、斜めに寄りかかり合った場所だった。そのあいだに、人がやっと一人、横向きに通れるくらいのすき間がある。狭くて、途中で曲がっている。

 背後で、低い唸(うな)り声がした。回りこんだ分を取り返して、足音がまた近づいてくる。

 あと十歩。五歩。

 すぐ後ろで、荒い息が聞こえた。

 瑠衣は走りながら、足もとの小石を踵(かかと)で後ろへ跳ね上げた。ごつ、と鈍い音がして、甲高(かんだか)い悲鳴が上がった。足音が乱れ、一歩ぶん遠のく。

 その一歩で、指先が岩の冷たい角に届いた。

 背後の足音が、ふたつに重なった。

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