第1話 普通の選択
初投稿です。楽しんでいただければ幸いです。
「櫻井さんって、青になってから一拍、置きますよね」
帰り支度をしていると、隣の席の後輩が、画面をこちらへ向けたまま言った。
「置くよ」
「みんな言ってます。二十五歳の落ち着き方じゃないって」
「あ、それで、先方への返信なんですけど。これで大丈夫ですか」
三行だけ読んで、日付を一つ直した。
「金曜じゃなくて、木曜。あとは大丈夫」
「助かりました!」
定時を四十分過ぎていた。後輩の机の電話が鳴り、後輩は受話器を取る前に、こちらへ両手を合わせた。
「すみません、駅までご一緒したかったんですけど。先に行っててください」
フロアを出るとき、窓際の課長が顔を上げた。
「櫻井、お疲れさま。明日の会議の資料は」
「机の右の箱に、人数分入れてあります」
「さすが。気をつけて帰れよ」
課長の声はよく通る。島の向こうで、二人ほど顔を上げた。
(『さすが』は、できれば小声で)
「はい。お疲れさまです」
昼に届いた短いメッセージには、まだ返事をしていない。帰りの電車で返せばいい。特別なことは何もない一日だった。
駅へ向かう人の流れが、交差点の手前で止まっていた。
気がつくと、右手で左の肘をさすっていた。
(夕方になると、まだ重い)
横断歩道の白線が、やけにくっきりと見えた。
信号が、青に変わった。
櫻井瑠衣はすぐには歩き出さなかった。一拍置く。右を見て、左を見て、もう一度、右を見る。
右から来た車が、停止線の手前で止まった。暗い窓ガラスに、自分が映る。灰色のスーツに、重そうな肩の鞄。金色に染めた髪を後ろで一つに結んだ、背の高い女。少し眠たげなこげ茶の目と、目が合った。
その車の向こうの車線に、ヘッドライトは一つもない。
(問題ない。普通に歩けば、成立する)
スマートフォンはズボンのポケットの中で、イヤホンもしていない。エンジンの音も、遠くのクラクションも、そのまま耳に入ってくる。
横断歩道の中ほどまで来たときだった。
止まった車の鼻先を回りこんで、ヘッドライトの白が一つ、滑りこんできた。ブレーキの音は、しなかった。
来る、と思うより先に、体が動いた。半歩、踏み替える。肩を切り、重心を前へ流す。革の靴底が、白線の上で滑らずに止まる。白い光が、鼻先をかすめて抜けていった。
これで足りる、と思った。
――足りなかった。
一台目はかわしたが、その陰にぴたりとついてきた二台目は、最後まで見えていなかった。
衝撃が来て、視界が横に引き伸ばされた。肩から、鞄の紐が抜けていく。体が浮いた感じはなかった。ただ、地面が遠ざかっていく。
(あ。間に合わなかったか)
地面が近づき、音が遠のいていく。
(……連絡、必要だったな)
体は、もう動かなかった。
◇
気がつくと、白い中に立っていた。上も下も曖昧なのに、足の裏にだけ、何かを踏んでいる感じがある。
見下ろすと、横断歩道の白線が一本だけ、どこまでも伸びていた。前にも後ろにも、続きはない。それでも、不思議と怖くはなかった。
「……死んだ、のかな」
声は出た。
『その理解で、大きくは違わない』
返事は、頭の中に直接響いた。見回しても、どちらを向いても白いだけだった。
「あなたは?」
『説明の仕方が難しい存在だ』
「神、みたいな?」
『そう呼ばれることもある』
「さっきの判断、間違いでしたか」
『どう思う』
瑠衣は足もとの白線の上で、さっきの半歩を小さくなぞった。右足を引き、肩を切る。
「いいえ。成立していました。私の選択も、動きも。ただ、想定外が入っただけです」
『ほう』
声に、わずかな興味が混じった。
『後悔は?』
「ありません」
『多くの者は、それを「失敗」と呼ぶ』
「失敗は、次に繋げられる時に使う言葉です。今回は、終わった。それだけです」
短い沈黙があった。
『……ならば、選択肢を示そう』
『このまま、ここで終わる』
『あるいは、別の場所で生きる』
「条件は?」
『元の世界には戻れない』
「それだけ?」
『それだけだ』
瑠衣は、白線の先を一度だけ見た。
(やり直しじゃない。夢を追う話でもない。生きるか、終わるか)
「……行きます」
『理由は』
「生きていた方が、判断できます」
『向こうで、何をする』
「普通に。働いて、食べて、寝ます」
『……それだけか』
「それが、いちばん難しいので」
『よろしい』
声が遠ざかりはじめた。瑠衣は急いで付け足した。
「あの、持っていけるものは? 鞄と、できれば充電器を」
遠ざかりかけた声が、止まった。足もとの白線が、かすかにふるえた。
この間には、覚えがある。会議の終わりに、誰も想定していなかった質問が出たときの間だ。
『……その身ひとつだ』
さっきより少しだけ、投げやりな声だった。
「承知しました」
(向こうでも、定時で帰れる仕事があるといい。できれば、『さすが』と言われない所で)
白線から、何もかもが白く溶けていった。白くなりきる直前、遠くで、小さな咳払いのような音がした気がした。
足を一歩引こうとして、体の重さが、一瞬だけ分からなくなった。
(軽い? ……夢の中だから、か)
◇
背中が、冷たかった。
指の先に、湿った土と、細い根の手ざわりがある。頭の上で、葉の擦れる音がした。
目を開けるだけの力が、まだ戻っていない。意識がまた沈みかけたとき、頬に、湿った温かいものが押しつけられた。生臭い息が、ふんふんと耳もとで鳴る。
(……犬? この辺に、犬なんて――)
目は、開かなかった。




