第3話 逃げ切れない
足音が、ひとつ増えた。
櫻井瑠衣は走りながら、そう判断した。
正確には、音が増えたというより、重なった。
(……二匹目)
振り返らない。
振り返る必要がない距離と角度だった。
岩と倒木が重なった狭い場所へ滑り込む。
身体をひねり、肩を擦らせながら通り抜ける。
背後で、低い唸り声と、何かがぶつかる音がした。
(……引っかかった)
少しだけ、距離が開く。
だが、止まらない。
止まったら、終わる。
走り続ける。
呼吸はまだ乱れていないが、足に重さが出始めている。
(……長くは、もたない)
木々の間を抜けながら、地形を見る。
緩やかな下り。
その先に、小さな窪み。
(……あそこ)
瑠衣は進路を変えた。
速度を落としすぎないように、だが足を取られないように。
背後で、枝が折れる音。
追ってきている。
(……しつこい)
感情ではなく、事実としてそう思った。
窪みに差しかかった瞬間、瑠衣はわざと足を滑らせた。
地面に手をつき、転ぶ。
——追う側が、距離を詰める。
狙い通りだった。
すぐに立ち上がり、横へ転がる。
鋭い歯が、さっきまで頭があった場所をかすめた。
(……近い)
息が、少し荒くなる。
完全に包囲されているわけじゃない。
だが、逃げる余地は確実に減っている。
(……このまま走り続けるのは、悪手)
選択肢を整理する。
——逃げ続ける。
——どこかで、一匹を倒す。
——賭けに出る。
瑠衣は、二つ目を選んだ。
倒木の影に身を寄せ、呼吸を殺す。
一瞬だけ、完全に静止する。
狼の一匹が、視界に入る。
鼻を地面に近づけ、匂いを追っている。
(……集中してる)
その瞬間を、逃さなかった。
瑠衣は前に出る。
拳ではない。
力任せでもない。
相手の横をすり抜け、脚を払う。
重心が高い。
足場が悪い。
狼の身体が傾き、地面に叩きつけられる。
(……倒した)
だが、止めは刺さない。
もう一匹の気配が、すぐそこまで来ている。
瑠衣は迷わず、走った。
背中に、衝撃。
鋭い痛みが走る。
「……っ」
声は、出さない。
肩口を噛まれた。
布ごと持っていかれた感触。
温かいものが、じわりと滲む。
(……血、出てる)
それでも、走る。
致命傷じゃない。
動ける。
判断は、まだできる。
(……ここで止まったら、終わり)
やがて、足音が遠ざかった。
完全に諦めたわけじゃない。
ただ、追うのをやめただけだ。
瑠衣は、木の根元に背中を預けて座り込んだ。
呼吸を整える。
深く、ゆっくり。
肩口が、ひりつく。
指先で触れ、破れた布の感触を確かめる。
(……やっぱり、穴あいてるな)
その時、視界の端で、人影が動いた。
(……人?)
助けかどうかは、分からない。
この格好で、血が出ていて、
しかも森の中だ。
(……普通に考えて、安全とは限らないよね)
そこまで考えたところで、
意識が、ふっと遠のいた。
最後に浮かんだのは、
恐怖でも、安堵でもなかった。
(……とりあえず、ここで終わるのは、困る)
そのまま、瑠衣は意識を手放した。




