第29話 赤の重み
朝のギルドは、いつも通りのざわめきに包まれていた。
掲示板の前では、依頼書を剥がす音が続いている。
護送、修繕、巡回。
白と黄が並び、端に赤が一枚貼られている。
ルーシーは、視線を向けただけで通り過ぎた。
受付に立つと、マレーナが顔を上げる。
「おはよう」
「おはようございます」
帳簿に目を落としたまま、マレーナが続けた。
「今日の仕事のことで、マスターが少し話をしたいみたいなんだけど。
時間、あるかな?」
「あります」
「じゃあ、奥へ行って」
それだけだった。
通路を進むと、壁際に人影がある。
装備の整った四人組。
鎧も武器も、手入れは行き届いているが派手さはない。
通り過ぎる瞬間、視線が一度だけ合った。
昨日、掲示板の前にいた人たちだ。
そう気づいたのは、もう背中を向けてからだった。
扉の前で足を止める。
「入れ」
中では、ローデリックが机の前に立っていた。
「来たな」
「はい」
前置きはない。
「今日、赤相当の討伐が動いている」
一拍置いて、続ける。
「討伐そのものは、Bランクパーティが受ける。
お前は補助役として同行だ」
視線が向けられる。
「まだ単独で戦わせるつもりはない。
それは許可していない」
「はい」
ローデリックは机の書類に視線を戻し、言った。
「この仕事には装備が必要だな。
エリーから受け取ってくれ」
それだけだった。
「仕事が終わったら、ギルドに返しておいてくれ」
「分かりました」
部屋を出ると、通路で若い職員が待っていた。
「装備の受け渡しをします。
エリーと申します」
口調は丁寧で、硬い。
簡易な皮の胸当て、小手などの防具一式。
短剣と、最低限の医療品。
「こちらをお使いください」
サイズ確認と手続きを終え、装備を身につける。
余計な会話はない。
「集合は、門前広場です」
「ありがとうございます」
門前広場には、先ほどの四人が揃っていた。
革鎧の男が一歩前に出る。
「レッドスティールのリーダー、グレンだ」
短く名乗る。
その横で、弓を背負った女が顎で会釈した。
「ミラ。後衛は任せて。危ないから飛び出さないでね」
言い方はきついが、目は冷静だった。
盾役の男が肩を鳴らす。
「ハウル。前は俺が受ける。盾役はまかせろ」
最後に、細身の男が小さな鞄を掲げた。
「セイン。治療と応急処置担当だ。……できる範囲でサポートする」
“できる範囲で”という言い方が、場の空気にだけ重く残った。
グレンが視線を戻す。
「今日は俺の後ろをついてきてくれ」
「分かりました」
それ以上の説明はなかった。
装備の最終確認を終え、門が開く。
町の音が背中で途切れ、
一行は外へ出た。
仕事としての一日が、静かに動き出す。
しばらく進んだところで、グレンが口を開いた。
「今日の目標は一体だ。グラヴィス」
ルーシーが聞き返す。
「どんな魔獣ですか」
グレンは歩調を変えずに答えた。
「突進は早いが、方向転換は苦手だ。
皮が厚いから討伐に時間がかかる。
正面から受けると厳しい。
誘導して横と後ろから削る」
ハウルが低く付け足した。
「止めようとするな。受けたら潰れる」
セインはルーシーの装備を一度だけ見て、すぐ視線を前に戻した。
「あまり近づくな。不用意に近づくと弾かれる」
踏み固められた道が途切れ、草が足元に絡みつく。
町を離れてしばらくすると、足元の感触が変わった。
視界の先で、木々が密になり、影が濃くなる。
風向きが変わり、湿った匂いが混じった。
レッドスティールの間隔が、自然に広がった。
地面には、深く抉れた跡が続いている。
草は根元から倒され、同じ向きに押し流されていた。
ハウルが、視線だけで前を示す。
グレンが手を上げた。
全員が止まる。
低い音が、草の向こうから伝わってくる。
息遣いのような、地面を叩く振動。
次の瞬間、草が爆ぜた。
黒く厚い体が、一直線に突っ込んでくる。
「散れ!」
グレンの声で、ハウルとミラが左右に跳ぶ。
ルーシーは言われた通り、半歩遅れて後ろへ。
突進が地面を抉り、土と草が跳ねる。
重い体がすぐ横を通過する。
すぐに止まれない。向きを変えるまでに隙がある。
「今だ!」
ハウルが踏み込み、横から切りつける。
――浅い。
刃が滑るように弾かれる。
皮が厚い。骨に届かない。
ミラの矢が刺さる。
だが、深くは入らない。矢羽が震えて止まるだけだ。
グラヴィスが吼え、再び前を向く。
突進の構え。
グレンが動きで指示する。
正面を空け、再度展開する。
誰も声を出さない。
動きだけで“次”が来ると分かっている。
突進。
避ける。
横から削る。
また突進。
その繰り返しが、確実に体力を削る。
だが、こちらも削られていく。
空気が重い。緊張感が走る。
一度でも攻撃を受けたら終わる。
ようやく、グラヴィスの突進が少しだけ鈍ってきた。
「今だ、一気に倒せ!」
グレンの合図で、ハウルが盾で体勢を崩し、ミラの矢が連続で刺さる。
グレンの刃が同じ傷を深く抉る。
何度目かの咆哮のあと、巨体が膝を折った。
土煙が上がり、地面が揺れる。
だが――
誰もすぐには動けなかった。
荒い息だけが残る。
空気が重い。
足が震えているのが分かる。
「……終わった、か」
誰かの声が、かすれていた。
そのとき、別の影が走った。
草むらが、グラヴィスが来た位置とは違う場所で割れる。
ミラが息を吸い込み、叫ぶ。
「茂みから、ヴァル三匹!」
灰色の影が低く走る。
迷いはない。
最初からこちらを見ている。
一直線に、人間側へ距離を詰めてきた。
「セイン、危ない!」
グレンの声とほぼ同時だった。
一匹が横から跳ぶ。
セインは避けようとした。だが遅い。
避けきれない。
「――っ!」
肩口を噛まれ、布が切れ、血が走る。
それでも倒れない。踏ん張って、位置を崩さない。
セインは歯を食いしばって、片手で布を押し当てた。
動きは鈍くなる。だが足は止めない。
「問題ない、動ける……!」
言葉は強がりに近い。
けれど、“治療役が消える”のはもっとまずい。
ミラの矢が飛び、一匹を弾く。
ハウルが盾で押し返し、グレンが刃を入れる。
それでも、残りは止まらない。
距離が、詰まりすぎていた。
考えるより前に、ルーシーは動いていた。
一気に距離を詰め、首元にナイフを突き刺す。
手応えは、ほとんどなかった。
――次の瞬間、ヴァルが崩れた。
倒れるというより、力が抜けたように。
ルーシーの腕が震える。
刺した感触が遅れて返ってくる。
「下がれ!」
グレンが叫ぶ。
ルーシーは引く。
引きながら、残り二匹が視界の端で跳ねるのが見えた。
ハウルが盾で受け、体勢を崩して膝をつく。
ミラの矢が一本、二本と刺さる。
グレンが間合いを詰め、最後の一匹を斬り伏せた。
残った音は、大きな呼吸音だけだった。
セインがふらつきながらも、肩口を押さえながらハウルに近づく。
「腕、見せろ」
ハウルが短く舌打ちした。
「後でいい」
「今。動かなくなる」
セインは自分のケガを無視して、ハウルの腕に布を巻いた。
固定し、止血の応急処置を重ねる。
手が震えている。
痛みと疲労で、精度が落ちる。
それでも続ける。
「……大丈夫だ。折れてない。……たぶん」
言い切れない。
それが逆に、状況の悪さを示していた。
その直後だった。
――ドン。
地面の奥で、はっきりとした振動が走る。
一歩。
もう一歩。
さっきとは、重さが違う。
木々が大きく揺れ、
太い幹が根元から折れた。
ミラが、凍りついたように呟く。
「……うそ」
視線の先で、
さらに大きな影が姿を現す。
「……なんで、ウル=ガルムが、ここに……」
誰も否定しない。
否定できる状況じゃなかった。
毛に覆われた巨体。
肩の位置が、人の背丈をはるかに超えている。
一歩踏み出すたびに、
地面が沈む。
グレンが、即座に声を張る。
「散開! 距離を取れ!」
動ける者が動く。
だが、消耗が抜けきらない。
ハウルは片腕が使えない。
セインは肩の裂傷で動きが遅い。
ミラの呼吸も浅い。
“全員無傷”ではない。
それでも、ここで崩れたら終わる。
ウル=ガルムが一気に踏み込んできた。
速い。重い。しかも迷いがない。
「ハウル!」
間に合わない。
――だから、ルーシーは動いた。
考える前に、身体が前に出ていた。
側面へ回り込み、
低く踏み込む。
短剣を振る。
脚の裏側。
刃が弾かれ、
腕に重い衝撃が返る。
硬い。厚い。
骨に届かない。
それでも、止まれない。
ルーシーは一歩引こうとして、足元の土で滑った。
一瞬、バランスを失う。
――死ぬ、と思った。
だが、その“狂い”が、ウル=ガルムの踏み込みも狂わせた。
巨体がわずかによろめく。
完全には倒れない。
だが、体勢を立て直す一瞬が生まれる。
「今だ!」
グレンが踏み込み、盾を叩きつける。
狙いは倒すことじゃない。意識を自分に向けさせること。
ハウルが盾の端で支えに入り、片腕でも前を塞ぐ。
ミラが矢を番える。
矢は喉元に突き立ち、ウル=ガルムが反射的に首を引いた。
次の瞬間、怒りに任せたように頭を振り、
荒れ狂ったように暴れ出す。
盾が弾かれ、木が折れる。
地面が跳ね、空気が裂ける。
「下がれ!」
グレンの声が飛ぶ。
だが、ウル=ガルムは止まらない。
喉の矢を振り払うように首を振り、
一直線に踏み込む。
狙いは、前に出たハウルだった。
片腕の盾を押し潰しに来る角度。
このまま受ければ、腕ごと持っていかれる。
セインが叫ぶ。
「ハウル、退け! 今の腕じゃ受けるな!」
叫びながら、セインは薬包を投げた。
痛み止めと、反射を鈍らせないための刺激臭。
気休めに近い。それでも“数秒”を作る。
考える前に、ルーシーは走っていた。
恐怖で、視界が狭くなる。
呼吸が浅い。
それでも、止まれない。
側面へ回り込み、
低く踏み込む。
短剣を振る。
膝の裏側。
――重い。
刃が骨に当たる前に、
硬い筋に引っかかる感触があった。
押し切る。
ぶつっ、という嫌な感触。
次の瞬間、
ウル=ガルムの脚が崩れた。
踏み出した脚が、地面を掴めない。
巨体が、前のめりに大きく傾く。
完全には倒れない。
だが、踏ん張る力が消えた。
叫び声が、悲鳴に近い音へ変わる。
「今だ!」
グレンの声で、全員が動いた。
ハウルが盾で正面を押さえる。
腕は震えているが、退かない。
ミラの矢が、再び喉を狙う。
“弱点”を正確に撃つ。
セインが歯を食いしばって、ハウルの腕にもう一度布を締め直す。
出血を止め、回復薬をかける。
そしてグレンが、横から渾身の力で切りつける。
横と後ろから、剣と矢が集中する。
血飛沫が飛び散る。
地面が赤く濡れる。
ウル=ガルムは、それでも暴れる。
だが、脚が言うことを聞かない。
倒れない。
倒れないまま、暴れて、暴れて――
最後に、大きく息を吐くように力が抜けた。
何度か小さく痙攣し、
ついに巨体が崩れ落ちた。
土煙が舞い、視界が白くなる。
誰もすぐには動けなかった。
荒い息。
腕の震え。
耳鳴り。
「……終わった、か」
誰かが、ようやく言った。
グレンが周囲を確認する。
倒れたウル=ガルムを見て、喉を鳴らした。
「全員、生きてるな」
短い返事が返る。
セインが自分の肩を押さえたまま、息を整える。
「……俺は大丈夫だ。……動ける」
大丈夫、という言葉の中身が“無理ではない”に変わっている。
それでも、消えていない。
ハウルは笑って、息を吐いた。
「十分だ」
ミラが、ウル=ガルムの脚を見て低く言う。
「……あれ、完全に切れてる」
グレンの視線が、ルーシーに向く。
だが、何も言わず、すぐに周りを見た。
「……帰ろう」
グレンの声は、さっきまでより少しだけ低かった。
張っていたものを緩めた感じだ。
隊形を組み直す。
ハウルを中央に入れ、歩き出す。
ミラが振り返り、倒れた魔獣を見た。
「証だけは持って帰ろう」
喉に残った矢を引き抜き、血を払う。
牙を一本、切り落とす。
「これでいい」
グレンが頷く。
「肉と皮は置いていこう。
あとはギルドに任せる」
誰も異論を出さなかった。
来た道を戻り始める。
しばらくは、足音だけが続く。
呼吸が整うまで、誰も口を開かない。
少し進んだところで、ハウルが低く言った。
「……やばかったな」
誰も笑わない。
ミラが、前を向いたまま答える。
「ほんとに。
誰も欠けなかったのが、不思議なくらい」
それで会話は終わった。
森を抜けると、草地が広がる。
視界が開けた瞬間、背中の緊張が一段落ちた。
ルーシーは最後尾を歩いていた。
腕が重い。
手のひらに残った感触が、まだはっきり残っている。
振り返ると、森はもう何事もなかったように静まっていた。
「報酬は戻ってから話そう」
グレンが言う。
「今日は、報告だけでいい」
誰も反対しない。
門の影が見え始める。
町の輪郭が、少しずつ近づいてくる。
ようやく、帰ってきたという実感が湧いた。
ギルドの扉をくぐると、空気が変わった。
人の声。紙の擦れる音。薬草の匂い。
それだけで、張りつめていたものが少し緩む――はずだった。
血の跡と装備の傷を見て、周囲が自然と道を空けた。
誰も声を荒げない。けれど、視線は一斉に集まる。
セインは肩口を押さえたまま、黙って歩いていた。
止血はされているが、布の端が赤く滲んでいる。足取りは乱れていない。ただ、呼吸が浅い。
ハウルも片腕をかばうようにしている。盾を持つ手が、微かに震えていた。
受付のマレーナが顔を上げる。
一瞬で状況を拾う目だった。
「……戻ったのね」
グレンが頷く。
「報告だ」
マレーナは短く息を吸って、奥を指した。
「奥でマスターが待ってるわ」
扉を叩く。
「どうだった?」
中から返ってきたのは、短い問いだった。
ローデリックは立ち上がらない。だが、視線が、場の温度を支配している。
グレンが前に出る。
その半歩後ろにハウル。ミラは壁際。セインは、血を押さえる手を離さないまま、沈黙で立った。
ルーシーは最後尾で、場の圧に背筋を固める。
「グラヴィスとやり合った。
簡単じゃなかった。時間を取られた」
一拍置いて続ける。
「……ヴァルが三匹入って。
後ろを取りに来た」
ローデリックは頷かない。
ただ、続きを待つ。
グレンが喉を鳴らす。
「……それで終わりじゃない。
ウル=ガルムが出た」
ローデリックの指が止まった。
言葉が出ない。
視線が一度、地図に落ち、
もう一度、グレンに戻る。
「……どこで?」
「草地の先、木が濃くなる手前だ。
風向きが変わった瞬間に来た」
ローデリックの口が、少しだけ開いたまま止まる。
次に出た声は低かった。
「……ウル=ガルムが、森の外に出るなんて初めてだな」
グレンが首を横に振る。
「分からん。だが、間違いない。
隊列が崩れかけた。ひとり持っていかれかけた」
ローデリックの目が鋭くなる。
「死人は」
「いない。
負傷が二名。腕と肩。折れてない。だが、重症だ」
その言葉に、セインがほんの僅かに息を吐いた。
自分の肩を押さえる指に、力が入り直す。痛みを誤魔化す仕草だった。
沈黙。
ローデリックが、ようやく息を吐いた。
「……よく帰ってきた」
それは評価というより、事実への言葉だった。
ローデリックは一拍置き、視線だけで促した。
「……それで?」
グレンが苦く笑うように口元を歪めた。
「なんとか勝てたって言い方しかできない。
運と、組み合わせと、――全員の協力だ」
少し間を置く。
「証は取ってきた。
仲間が負傷して、今日は、運び出す余裕がなかった」
ローデリックが頷く。
「それでいい。」
視線が、ルーシーに向いた。
止まったのはほんの一瞬。だが、鋭い。
「……お前は、無事か」
ルーシーは遅れて頷いた。
「はい。……大丈夫です」
ローデリックはそれ以上踏み込まない。
「今日は全員、上がれ。
報告はこれで十分だ」
部屋を出ると、廊下の空気が急に軽く感じた。
けれど、足の裏だけが、まだ戦場に残っている。
セインが壁に手をつき、呼吸を整える。
「大丈夫」と言える顔ではないのに、言い訳をしない。治療役としての癖が抜けていない。
受付に戻ると、マレーナがこちらを見た。
ハウルとセインの負傷、擦り切れた装備、それからルーシー。
言い方を選ぶみたいに、少しだけ間がある。
「……大変な目にあったわね」
ルーシーは、言葉が返せなかった。
口を開くことがとっさにできなかった。
頭に浮かぶのは、あの大きさと、威圧感。
近づいた瞬間、空気が変わった。
息をするのも忘れるような緊張感。
「……大丈夫?」
マレーナの声が、ほんの少し柔らかくなる。
ルーシーは、遅れて頷いた。
「……はい」
マレーナはそれ以上聞かない。
代わりに、言葉をひとつ置く。
「今日は、よく無事に帰ってきてくれたね。
怖かったでしょう。それ、当たり前よ」
少しだけ、ため息。
「無理に“平気な顔”しなくていいんだよ。
部屋に戻って、温かいもの食べて、今日は寝なさい」
ルーシーは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
マレーナは、いつもの淡い笑みに戻る。
「回復したらまた顔を見せてね。詳しい話は、その時に」




