第26話 仕事の優先順位
「卵の箱だけは、揺らさんでくれよ」
依頼主の商人は、丸い腹をした小柄な男だった。荷台の奥を指して、護衛の三人よりも先に、ルーシーに念を押してくる。
「布と塩と、卵だ。黄の便だが、卵は割れたらおしまいだ。藁は詰めてあるがな」
「はい。気をつけます」
荷車の前で、腰に剣を提げ、鍋の蓋ほどの小さな盾を左腕に括りつけた男が振り返った。
「ノックだ。今日は俺が指示を出す。受付から聞いてる。前に出る新人だってな」
「出ません」
「出るやつは、みんなそう言う」
ノックは親指で、後ろの二人を順番に示した。
「槍のがバロウ。弓のがエルナ。エルナは、返事をしない」
槍を担いだ大柄な男が、あくび混じりに言った。
「あと、その指示が長い」
「短くしたら、お前が聞かないだろ」
短い弓を背負った女は、二人のほうを見もしないで、矢の先を爪で一本ずつ確かめていた。前髪が長く、目が半分隠れている。
「ルーシーです。よろしくお願いします」
ノックが、ルーシーの腰回りに目を走らせた。
「武器なしか。なら、位置は荷車の横。合図があるまで動かないでくれ」
「はい」
「返事が早いのは助かる。黄は、それだけでけが人が減る」
バロウが、口元を緩めた。
街道は穏やかだった。森の脇にさしかかると、ノックが指を一本立てた。
「森の脇を抜ける。何か出たら、一つ。荷車は止めない」
指が、二本になった。
「二つ。ルーシーは卵の箱の横。三つ。追い払うときは、俺が右から回って――」
ガン、と荷車の側面が鳴った。拳ほどの石が板に当たって跳ね、道に転がる。
「ほらな。長えんだよ」
ぼやきながら、バロウはもう馬の前へ出ていた。
「エルナ!」
ノックが呼んだときには、エルナは矢をつがえていた。返事の代わりに、矢が一本、頭上の枝へ飛んだ。
(返事が、矢の人)
枝が揺れて、影が四つ跳ねた。人より少し小さい。膝の下まで垂れた腕で枝をつかみ、荷車の上をぐるぐる回っている。
「スクリットだ。荷を狙う。一つ、倒さなくていい。二つ、荷から離せ。三つ、森へ帰せ」
ノックが早口で言い、こちらを見た。
「ルーシー、位置はそのまま。声だけ出せ」
「声だけ、ですね。大きさは?」
「普通でいい」
ルーシーは卵の箱の横で、「こっちに、来ないでください」と普通の大きさで言った。スクリットは一匹も聞いていなかった。
一匹が枝から荷台へ飛び降りた。長い指が卵の箱の紐にかかり、箱が紐ごと浮く。スクリットは箱をぶら下げたまま、荷台の後ろへ跳ねた。
前に出るつもりはなかった。
気づくと、二歩、荷台の後ろへ出ていた。
蠅を払うように、手の甲を振った。毛のかたまりの重さが、手の甲に一瞬だけ乗って、消えた。
紐が長い指から抜けて、箱が荷台の板にどさりと落ちた。スクリットは鈍い音を立てて地面を転がり、白目をむいて伸びた。
残りのスクリットが、一斉に動き出した。荷を引っ張り、投げ、散らしながら、荷車の周りを回る。ルーシーが二歩出たぶん、荷車の反対側が、まるごと空いていた。
――後ろ。空いてたぞ。
この前のカイの声が、今になって聞こえた。布の箱が落ち、蓋が外れる。
「荷が!」
商人の声が上がった。
卵の箱の紐に、また長い指がかかった。今度の一匹は、箱を荷台の縁まで引きずって、そこで放した。
箱が、縁から滑り落ちる。
手は、出さなかった。
膝を深く曲げて、箱の落ちてくる下へ体を入れた。腕を伸ばさず、胸で受ける。藁ごと抱えこんで、膝でもう一段沈む。倉庫で何百回も箱を置いた、あの高さまで。
――そっと。
箱の中で、藁がかさりと鳴っただけだった。
ノックが盾で間に入り、エルナの矢が枝の皮を削り、バロウが槍の石突きで地面を鳴らす。スクリットたちは、伸びた一匹をちらりと見ると、ぱっと散った。
森へではなかった。街道を横切って、反対側の麦畑のほうへ。
エルナは弓を下ろさないまま、その背中を目で追っていた。
「一匹倒れた。それを見て、残りが動いた」
ノックが、息を吐いた。
ルーシーは、抱えた箱を、すぐには下ろせなかった。
布も塩も無事で、馬も落ち着いていた。最後に商人が、震える手で卵の箱の藁をかき分けた。
「……二つ」
割れていたのは、二つだけだった。藁の中で、黄身が細い筋になっている。
商人は手を伸ばして、ルーシーの胸についた藁くずを一本、つまみ取った。
「箱ごと落ちてたら、全部だった。二つで済んだ。……済んだが」
その先は、言わなかった。
帰り道、エルナが馬の向こうから、ぼそりと言った。
「さっきのあいつ。気絶してただけ。運がいいね」
「よかった、です」
「あいつにとってはね。卵にとっては、よくなかった」
手の甲は少し赤いが、痛みはなかった。
(荷が先。人が先。私の手は、いちばん最後)
バロウが、あくびを噛み殺した。
「ま、箱の受け方は悪くなかった。あとは順番だ。ノックの指示が長いのは、その順番を全部言ってるからだ」
「聞こえてるぞ」
「聞かせてんだよ」
ギルドに戻ると、ノックが完了の報告を出し、その横でルーシーはマレーナに頭を下げた。
「持ち場を離れて、一匹、手を出してしまいました。その間に荷を荒らされて、卵が二つ割れました」
マレーナは顔を上げずに聞いていた。
「仕事としては減点。でも、今のうちに分かってよかった」
「減点、ですか」
「一行だけね。消えないけど」
ペンが、帳面の上を短く走った。逆さまの字を、ルーシーは読めた。『卵、二』。
(人事評価に、一行。卵二個分)
ルーシーは腰の小袋から鉄貨を四枚出して、帳面の横に並べた。
「卵、二つ分です」
マレーナは四枚を一枚ずつ指で数えて、引き出しにしまった。
「商人さんに、渡しておくわ」
ペン先が、『卵、二』の字を、とん、と叩いた。
「でも、消えないのは、こっち」
ギルドを出たところで、先を歩いていたノックが振り返った。指を一本、立てている。
「一つ目な」
ノックは指をしまって、歩き出した。その横で、ずっと黙っていたエルナが、誰にともなく言った。
「あいつら、森に戻らなかった」
ノックの足が、止まった。




