第24話 ローデリックの視線
翌朝、受付の前に立つと、マレーナはルーシーの顔より先に、右手を見た。
「手、見せて」
差し出すと、マレーナはその手を裏に返した。手の甲と、指の付け根を、ペンを持っていないほうの指でなぞる。赤くもなっていない。擦りむけてもいない。
「昨日、ヴァルを殴った手には見えないわね」
「殴るつもりは、なかったんです」
「そうみたいね」
マレーナは手を離すと、声を落とした。
「昨日の件、もう上まで行ってるの。叱られる話じゃないわ。ギルド長が、直接聞きたいって。奥の部屋で待ってて」
通された小さな部屋は、石壁に囲まれていた。
机の端に、町のまわりの地図が一枚、広げたままになっていた。北の森の縁に、炭で小さな丸がいくつも打ってある。端のほうの丸ほど、炭の色が新しい。
ほどなくして扉が開いた。
入ってきた男は、指の背で銅貨を一枚、くるくると転がしていた。人差し指から中指へ、中指から薬指へ。目はルーシーを見たまま、指だけが別の生き物のように動いている。
白いものの混じった短い髪。背はそれほど高くないが、肩と胸に厚みがあって、男が入ってくると、小さな部屋がもう一回り狭くなった。
「ルーシーだな。座ってくれ。立っていられると、こっちの首が疲れる」
男は向かいの椅子を引いた。腰を下ろすとき、空いた手が右の膝に置かれ、そこで体の重さを一度受けた。持ってきた帳面を、地図の上に重ねて置く。
「ローデリック。ここのギルド長だ」
「ルーシーです」
ルーシーは、膝の上で手をそろえ、背筋を伸ばした。
ローデリックは帳面を開いた。
「昨日はフォークテイルと組んだな」
帳面の一枚を、指で弾く。端から端まで、細い字がびっしりと詰まっている。
「マレーナの報告は、いつもなら三行で終わる。昨日のは、一枚あった。『素手で』が、三回出てくる」
ローデリックは、その一枚を指で押さえたまま、顔を上げた。
「で、どう動いた。本人の口から聞くほうが早い」
「ヴァルが、馬の方へ、まっすぐ、でした。間に入って、向きを変えたかっただけです」
「剣は」
「ないです。持ってません」
「だろうな」
ローデリックの口の端が、わずかに動いた。
「力を入れた自覚は?」
「ないです。いつもの動きの、はずでした」
口にしてから、その「いつも」が、最近いちばん当てにならないことに気づいた。
ローデリックの親指の腹に、銅貨が載った。
次の瞬間、その銅貨が、ルーシーの顔に向かって弾かれていた。
気づくと、ルーシーの右手が、顔の前で閉じていた。
指を開く。手のひらに、銅貨が一枚のっている。鼻の先で止めていたらしい。瞬きをしたのは、そのあとだった。
「今、取ろうと思ったか」
「……いいえ」
「そこだ」
ローデリックは椅子の背にもたれた。
「取ろうと思わずに取れる手は、壊そうと思わずに壊す」
銅貨のなくなった指が、右の膝を一度だけ叩いた。
「便利なものは、たいてい、いちばん慣れた頃に持ち主を噛む。人に触るときは、思った力の半分にしておけ」
「半分、ですか」
「足りなけりゃ、あとで足せ。引くほうは、あとからじゃできん」
ローデリックは帳面を引き寄せた。
「当面はEのままだ。合同の仕事を回す。一人にはしない」
ローデリックは、マレーナの一枚を帳面に挟みこんだ。
「一人にすると、こっちの帳面が厚くなるんでな。マレーナの報告が一枚になるのは、月に一度で十分だ」
「ありがとうございます」
「ギルドが決めたことだ。礼を言う相手は、ここにはいない。仕事を取ってこい」
ルーシーは立ち上がりかけて、まだ銅貨を握っていることに気づいた。
「これ、いただけるんですか」
「返せ」
ルーシーは、両手で銅貨を机に戻した。かちん、と、思ったより高い音がした。
ローデリックはそれを拾い上げ、また指の背で転がしはじめた。転がしながら、帳面の端をめくって、下の地図に目を落とした。
部屋を出たところで、二人連れと入れ違いになった。
右の肩だけ、革の色が新しい鎧の男。腰に小さな鞄を下げた、細身の男。
細身の男が、すれ違いざまに、ルーシーの右の拳をちらりと見た。二人は奥の部屋へ入っていき、扉が閉まった。
受付に戻ると、マレーナが申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、時間取らせて」
「社長面談、緊張しました」
口から出たのは、日本語だった。
マレーナが、ペンを持ったまま顔を上げた。
「今の、どこの言葉?」
「あ。私の、国の言葉です。『緊張しました』って」
マレーナは、ルーシーの顔を見たまま、ペンを耳に挟んだ。
「そっちのほうが、顔に合ってたわよ」
ルーシーが返事に困っているうちに、マレーナは、もういつもの顔に戻っていた。
「じゃあ、仕事探そっか」
掲示板の前で、白と黄色の札の紙を目で追っていると、横から声がかかった。
「素手でヴァルを転がしたの、あんたか」
帽子に赤い羽根を挿した男が立っていた。後ろで、石段の連れが腕を組んで、にやにやしている。
「扉の次は藁で、藁の次はヴァルかよ」
羽根の人は、なぜか少し悔しそうに言った。悔しそうなのに、目は妙に光っている。
「転がした、というか。向きを変えたかっただけで」
「どっちでもいい。本当かどうか、確かめさせろ」
羽根の人は、自分の拳を、ルーシーの顔の前に突き出した。
「ほら。押してみろ。一発でいい」
「また尻もちつくなよ」
「つくかよ」
羽根の人は振り返って連れに言い返し、一緒に笑った。突き出した拳はそのまま、肘はゆるく曲がって、肩にも力が入っていない。
(グータッチ? こっちにもあるんだ)
ルーシーは、思った力の半分だけ、自分の拳を合わせた。
こつん。
羽根の人の拳は、動かなかった。肘も、肩も、そのままだった。
羽根の人は、自分の拳を、目の前に持ち上げた。開いて、握って、また開く。
それから、笑いだした。
「はは。何だ今の。触っただけだろ」
「半分に、しました。……グータッチ、ですよね?」
「半分?」
羽根の人は、自分の拳とルーシーの拳を見比べた。それから、口の端を得意そうに持ち上げた。
「なら、止めたぞ。半分なら、俺が止めた」
「はい。止まりました」
羽根の人は帽子の羽根を指で弾き、肩で風を切るようにして連れのほうへ戻っていった。戻りながら、自分の拳を何度も眺めている。
少し離れた所で、連れが聞く声がした。
「おい。ぐーたっち、って何だ」
「知らねえ。こうやるんだよ」
こつん、と、二人の拳が鳴った。二人とも、合わせた拳を見下ろして、首をかしげていた。
ルーシーは自分の右の拳を、開いて、握った。
目の端で、広間の柱の陰の草の茎が一本、上下に揺れた。
振り向いたときには、もう誰もいなかった。




