第22話 初めて選んだ仕事
そっと押した扉は、肩幅ほど開いたところで、おとなしく止まった。
蝶番が、きい、と小さく鳴っただけだった。
広間では、誰も振り向かなかった。掲示板の前の話し声も、奥の卓の笑い声も、そのまま続いている。扉のいちばん近くの長椅子では、顔に古い傷のある大柄な冒険者が、腕を組んで居眠りをしていた。起きなかった。
(……普通に、開いた)
ちょうど広間の奥から、三人連れが出てくるところだった。
先頭の男の左の手首で、腕時計が光った。時計の人だ。後ろに、しゃべる人と水の人もいる。
しゃべる人がルーシーに気づいて、目を輝かせた。いきなり身をかがめ、何かが坂をごろごろ転がっていくまねを始める。転がり終えると、ルーシーを指さした。
「あれは」
ルーシーは言った。
「坂で、転んだだけです」
しゃべる人の指が、ルーシーを指したまま、ぷるぷると震えだした。
「しゃべった!」
広間じゅうに響く声だった。時計の人が、しゃべる人の襟首をつかんで、扉のほうへ引っぱっていく。
いちばん後ろの水の人が、肩をすくめて、低く笑った。
お礼を言おうと息を吸ったときには、三人はもう扉の外だった。
(違う。言いたかったのは、そっちじゃなくて)
ルーシーは扉に手をかけた。そっと。今度も、そっと。
扉は、肩幅のところで、またおとなしく止まった。
横向きになって、肩から隙間に体を押しこんだ。上着の背中が扉の縁をこすり、長靴のつま先が敷居に引っかかる。抜けたときには、三人はもう石段を下りきって、通りの人波に入りかけていた。
言葉を選んでいる暇は、なかった。
「トゥア!」
通りの何人かが振り返った。三人も、振り返った。
しゃべる人が口を開けかけ、時計の人がその頭を、ぺしんとはたいた。
それで、思い出した。
ルーシーは石段の上で、見えないお玉を振りかぶって、ぽかりと振り下ろすまねをした。それから、深く頭を下げた。
しゃべる人が、反射のように両手で頭を押さえた。時計の人は森のほうへ顎を向け、一度だけ、大きくうなずいた。伝えておく、というふうに。
水の人が、いつものように、指で宙に大きな円を描いた。治療所の方を指そうとして――
ルーシーは石段の上から、同じように宙に大きな円を描いた。描き終えた円の真ん中を、指で、すっと横に切る。
水の人は、肩をすくめて、低く笑った。さっきより、少しだけ長く。
「……律儀だな」
水の人の言葉が、全部、聞き取れた。
しゃべる人が両手を口に当て、のけぞった。
「ウォォ……ォン」
時計の人が、その口を手のひらでふさいだ。ふさいだまま、空いた左の手首を、ルーシーに向けて高く上げてみせる。腕時計が、朝の光を一度、弾いた。
三人は、人波の中へ消えていった。
(一か月かけて覚えたのに、出てきたのは、倉庫で覚えた一語だった)
ルーシーは扉を肩幅だけ押して、横向きのまま、広間へ戻った。
受付には、ペンの人が立っていた。髪は、今日もきっちりまとめてある。
「おはよう、ございます」
「おはよう。ルーシー」
語尾まで、きちんと伸ばした呼び方だった。
「登録の、確認と、仕事の、相談を、したくて」
ペン先から、紙の上に、小さな黒い点が一つにじんだ。
「話せるようになったのね。一か月で」
「まだ、ところどころ、です」
「あの日は、『トーロク』にうなずくのが精いっぱいだったのに」
ペンの人は帳面を一枚めくり、余白の三本線をペン先で叩いた。三本線には、横線が一本通っている。
「三日で、ちゃんと来たものね。扉を壁まで開けた子は、約束も守る子だった」
「扉のことは、忘れてください」
「無理ね。あの音、奥の書庫まで聞こえたもの。……今朝のは、聞こえなかったけど」
隣の受付から、若い男の職員が顔を出した。袖口が、糊で白く固まっている。
「僕、あのとき書庫にいました。棚の本が一冊、落ちました」
「それは、あなたの積み方が悪いの」
男の職員は、首をすくめて引っこんだ。
ペンの人は書きかけの一行を書き終えると、ペンを耳に挟んだ。
「ちゃんと話すのは、初めてね。私はマレーナ。登録と昇格の担当よ。改めて、エルデンのギルドへ、ようこそ。一か月遅れだけど」
「よろしく、お願いします。マレーナ、さん」
「区切らなくていいのよ、そこは」
マレーナはその朝の依頼書の束を机に広げた。紙の角に、白い札、黄色い札、赤い札がついている。
赤い札の紙は三枚あって、三枚とも、狼の絵だった。ルーシーは思わず手を伸ばした。
マレーナが耳のペンを抜いた。抜いたペンの先が、そのままルーシーの手の甲を、ぴしりと叩いた。
「それは赤。あなたは白と黄まで」
「白が安全、黄色が注意、ですね」
「ええ。赤から上は、経験のある人向け」
マレーナの目が、ちらりと掲示板のほうへ動いた。
掲示板の赤い札の前に、赤い矢羽の矢筒を背負った女が立っていた。紙を一枚、指ではじく。隣では、丸い大盾を担いだ男が、盾の縁で長椅子の脚をこすって、居眠りから起きた傷の冒険者ににらまれていた。
「ああいう人たち」
ルーシーは手の甲をさすりながら、引っこめた。
「前の職場の、部長も、そうやって叩きました。りんぎしょ、の上から」
「りんぎ……何?」
「お金の、お願いの、紙です」
「その部長とは、話が合いそうね」
マレーナはペンの尻で、ルーシーの手の甲を軽くつついた。
「手で済むうちに、叩いておくの」
手の甲は、赤くもなっていなかった。
「仕事の中身は、そっちで。フィリス、お願い」
さっきの男の職員が、軽く手を上げた。
「フィリスです。依頼の説明と、組み合わせの担当。叩かれた回数は……三回」
マレーナのペン先が、こちらを向いた。
「……五回」
「私は、まだ一回です」
「今のところは、ね」
マレーナが、ペン尻で帳面を一つ叩いて言った。
フィリスはルーシーの足もとを見て、目を細めた。
「その靴、ちゃんとしたのを買ったんだね。外回りのあいつが連れてきた子でしょ。あいつが人を連れてくるの、珍しいんだよ」
(革の人のこと、かな)
名前を聞こうとしたときには、フィリスはもう、次の紙を手に取っていた。
「今日のは、これ。荷馬車の護送。黄色。組むのは、フォークテイルって三人組」
「フォークテイル」
聞いたことのない名前だった。
「向こうから、あなたと組みたいって言ってきたんだ。名指しで」
「私と、ですか?」
この町で名指しされる心当たりは、扉くらいしかない。
「受けます」
「助かるよ。最近、Eランクが足りなくてね。集合は門前広場」
出ていこうとすると、後ろから、マレーナの声がした。
「ルーシー」
振り返ると、マレーナは帳面から顔を上げずに言った。
「扉は、帰りもそっとね」
「はい」
扉に手をかけたところで、フィリスが、思い出したように声を張った。
「あ、そうだ。トムがね、『あいつには借りがある』って」
(トム? 知り合いに、トムなんて)
門前広場に入ると、荷馬車の横で、首に汗止めの布を巻いた大柄な男が、こちらに向かって腕を振り回していた。




