第21話 生活の基盤
初めてにも関わらずたくさんの方に読んでいただき感謝です!
物語が多少地味ではありますが、最初のうちは現実世界の感覚を大事に進めているので、多少小説としてはペースが悪いですが、今後少しづづペースアップしてくると思いますので、楽しみにしていただければ幸いでございます。
言葉の部屋の先生は、間違えると、白墨で黒い板を二度叩く。
こん、こん。
「――、ルーシー。――、今日、――?」
最初の一週間、先生の言葉は、ほとんどが「――」だった。その中に、ときどき分かる音が混じる。
先生が窓を指して、区切りながら言う。ルーシーがまねをする。違う。
こん、こん。
もう一度。違う。
こん、こん。
(ノック、多くない?)
五回目で、やっと叩かれなかった。
(主語が先で、結論が最後。議事録の書き方と、逆だ)
ある朝、ルーシーは自分から先に挨拶をしてみた。倉庫で男たちが朝いちばんに交わしていた、短くて勢いのいい一言だ。音には自信があった。
部屋の後ろの子どもたちが、そろって息をのんだ。
先生はゆっくり振り返り、白墨で、こん、こん、と板を二度叩いた。いつもより、ずっと弱い音だった。
(今の、たぶん、先生に言っていい挨拶じゃなかった)
髭と赤鼻が、毎朝、御者台の上から怒鳴り合っていた音だ。
「――、それ、何?」
次の週、先生の白墨が、ルーシーの腰の板を指していた。木箱の蓋を削った、手のひらほどの板だ。紐には、乾いた草の茎が一本、結んである。
「単語帳、です。自分で、作りました」
この世界の言葉で、ゆっくり言えた。先生は板を受け取ると、見たことのない文字の列を白墨の先でたどり、端の、黒く塗って横線を引いた円を、ふしぎそうに眺めた。それから板をルーシーの前に戻して、指で示す。
「読んで」
ルーシーは一行ずつ、指でなぞりながら読んだ。
「コレ」
先生の口の端が、ぴくりと跳ねた。両腕で箱を抱えるまねをして、自分の手のひらを、ぱん、と打ち合わせる。
「コレ。――倉庫の、言葉。荷物の、人の。決まり、の時」
(寝台を指して、『コレ?』。……そりゃ、雇われる)
「シュク。ネム。ネムは、寝ろ、じゃなくて」
「――?」
「なんでもないです」
先生は白墨の先で、次の行を指した。
「トーロク」
「トーロク。名前、帳面に、書く。ギルドの」
(本当に、登録だった)
「ロフ」
「ロフ。食べる、――丸い」
「はい。パン、です」
口に出した瞬間、先生が白墨を取り落としかけた。
先生は部屋の後ろの子どもたちをちらりと見てから、ルーシーの方へ身を乗り出し、声を落とした。自分の腰の後ろを、手のひらで軽く、ぽん、と叩いてみせる。
「パン。――子どもの、言葉。ここ」
(私、パンを指さして、真顔で、お尻って言ってた)
顔が、耳まで熱くなった。
部屋の後ろで、子どもたちがくすくす笑いだした。先生が白墨で板を、こん、こん、と叩く。笑い声が引っこむ。
先生は白墨を持ち直して、残りの二行を指した。
「トゥア」
「トゥア。合ってる」
「ドゥア」
先生が、首を横に振った。
「ドゥア、違う。――」
先生は空の杯を持ち上げ、ルーシーの前に差し出して、もう一杯、というように軽く揺らしてみせた。
「ドゥア。もっと。もう一つ」
倉庫を出る日の、おかみのくしゃくしゃの顔が浮かんだ。
(……別れ際に、パンのおかわりを要求した新人)
先生は杯を置くと、ルーシーの単語帳を、両手でていねいに返してくれた。
「いい、単語帳。――倉庫の、においがする」
その夜、寮の扉に椅子を立てかけてから、ルーシーは板の寝台で、単語帳の行の横に本当の意味を書き足した。壁ごしに、隣の部屋のいびきが聞こえていた。
コレ(決まり。手を打つ)。ドゥア(おかわり)。パン(言わない)。
三週目には、先生の言葉の「――」が、半分に減った。
ルーシーは屋台で、自分の言葉で串焼きを注文してみた。
「これを、二本、ください」
屋台の主人は、ルーシーの顔と、区切り区切りの口ぶりを見比べた。にやりと笑って、早口で何か言い、釣りの銅貨を手のひらに落とす。
指を折って数え直すと、一枚、足りなかった。
ルーシーは手のひらを差し出したまま、ゆっくり言った。
「一枚、足りない、です」
主人は、ルーシーの手のひらと顔を見比べた。それから、鼻の頭をかいて笑った。
「――、言えるじゃねえか」
半分だけ、聞き取れた。主人は銅貨を一枚、ルーシーの手のひらに置き、焼き台の串を一本つかんで、押しつけてきた。
串焼きは、塩辛かった。それでも、三本目を食べ終えるまで、ルーシーは少しも口元を引きしめられなかった。
四週目に入ると、先生の言葉は、ほとんど全部が聞き取れるようになっていた。
「言ってごらん。倉庫の人に、何て言うの」
「いつも、パンを、多く……」
こん、こん。
「『いつも』の場所が、違う。それと、『一つ』を入れなさい。あなたが言いたいのは、そこでしょう」
「パンを、いつも、一つ多くしてくれて」
先生は、今度は板を叩かなかった。
その週のある夕方、ルーシーは仕事の帰りに、倉庫へ寄った。
この一か月、前の通りは何度も歩いた。それでも、中には入らなかった。
戸口に立つと、木と埃の匂いがした。
「……ルーシー?」
最初に気づいたのは、そばかすだった。籠を放り出して駆けてくる。
「ルーシー! ねえ、もう全部分かるの?」
「全部じゃ、ないです。でも、だいたい」
そばかすが、ルーシーの腕に飛びついた。
ルーシーの空いた手は、そばかすの背中に触れる手前で、浮いたままだった。
三つ編みは、少し遅れて奥の棚の前から歩いてきた。抱えていた三角の印の箱を、見もせずに下から二段目へ滑りこませてから。
ルーシーは抱えてきた包みを、おかみに差し出した。畳んだ仕事着と、紐の切れたサンダル。
おかみは包みを受け取り、何も言わずにルーシーの顔を見上げた。
ルーシーは息を吸った。この一か月で、いちばん練習した文だった。
「パンを、いつも、一つ多くしてくれて……ありがとう、ございました」
それから、いちばん最初に覚えたいちばん短い言い方を、付け足した。
「トゥア」
今度は、ちゃんと『トゥア』だった。
おかみは、前掛けの裾を指でつまんで、離した。
「やっと言えるようになったんだね」
初めて、おかみの言葉が、そのまま耳に入ってきた。
「あんた背が高いからさ。二つでも足りないと思ってたんだよ」
おかみは背伸びをして、ルーシーの頭を、ぽん、と軽く叩いた。叩いた手が、そのまま頭の後ろへ回って、結んだ髪の根もとで止まる。
「ここだけ、色が違うね」
「伸びました。ここに来てから、ずっと」
「……そう。伸びたねえ」
おかみの指が、髪を結んだ布をつまんだ。
「この紐、うちの端切れだね」
「はい。お借りした布で」
「貸してないよ。あげたんだよ」
おかみは紐の結び目を、指できゅっと締め直した。かまどの脇の籠からパンを一つ取って、ルーシーの手に押しつける。
「ほら。おかわりだよ」
「それと、あの……出ていく日に、『おかわり』って言って、すみませんでした」
おかみは一瞬きょとんとして、それから、ふっと笑った。
「あれはいいんだよ。あたしは、あれで泣いたんだから」
おかみは包みの結び目をほどいて、中のサンダルをつまみ上げた。ぷつりと切れた紐の端を、目の前にぶら下げる。
「紐、二重に巻いてやったのにねえ。どこを歩いたら、こうなるのさ」
「溝を、跳びすぎました」
「溝?」
「はい。跳んで、泥に、落ちました」
おかみはサンダルを持ったまま、ルーシーの顔をまじまじと見て、前掛けで顔を覆って笑いだした。そばかすが、意味も分からないまま一緒に笑っている。
帳面を抱えた親方が、離れた所で、こちらを見ていた。目が合うと、帳面の表紙を指で二度叩く。
「……箱。まだ誰も、抜いてない」
それだけ言うと、親方は帳面を開いて、何かを数えるふりを始めた。
三つ編みが、ようやくルーシーの前に来た。口をとがらせたまま、ルーシーの新しい上着の袖を、指でつまんで眺める。
「剣の人に、なったの?」
「まだ、箱の人です」
三つ編みは、やっと笑った。
帰り道、ルーシーは単語帳の板を裏返して、三行目の『③ ありがとうを言う』の上に、炭で線を引いた。
線の引かれていない行は、残り一つになった。
板をしまいかけて、もう一度、その行を見る。
(『ありがとう』は、本当は、あと、森の三人と、草の茎の人)
指を折って数えると、登録した日から明日で、ちょうど一か月だった。
言葉の部屋へは、ずっと、建物の裏手の小さな戸から通っていた。表の重い扉は、あの日から一度も押していない。
翌朝、ルーシーは裏手の戸の前を通り過ぎて、表へ回った。
ルーシーは、ほんの少しだけわくわくしながら、ギルドの扉を押した。今度は、そっと押した。




