第2話 森、距離、確認
最初に感じたのは、匂いだった。
湿った土と草のにおい。
それから、少し冷たい空気。
櫻井瑠衣は、ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がるのは、空ではなく葉の隙間だった。
重なり合う枝、その向こうの淡い光。
見慣れない緑が、やけに近い。
(……森だ)
起き上がろうとして、動きを止める。
反射的に、まず確認する。
首。動く。
肩。違和感なし。
肘、手首、指。問題ない。
脚も、ちゃんとある。
(体は……そのまま、か)
地面に手をつき、ゆっくりと上半身を起こす。
土は湿っているが、ぬかるんではいない。
バランスを崩さない位置を選んで、立ち上がる。
服装も変わっていない。
会社帰りのままの格好。
スーツは少し汚れているが、破れてはいなかった。
(……クリーニング代、かかりそう)
どうでもいいことが先に浮かび、
そのあとで、ようやく状況を整理する。
見える範囲に、人工物はない。
道も、建物も、音もない。
風が葉を揺らし、どこかで鳥の声がする。
それ以外は、静かだった。
(日本じゃ、ないよね)
断定はしない。
だが、知っている場所ではない。
ポケットに手を入れる。
スマートフォン。ある。
画面は真っ暗で、反応しない。
(……圏外、どころじゃないか)
電源を長押ししてみて、反応がないのを確認してから、しまう。
無駄な操作は、これ以上しない。
次は、音。
耳を澄ます。
風。鳥。葉が擦れる音。
——重い。
一拍遅れて、もう一度。
(……足音?)
反射的に身構えることはしない。
代わりに、距離を見る。
音の方向。
地形。
逃げるなら、どこか。
少し離れた草むらが、わずかに揺れた。
(……来る)
そう判断した瞬間、瑠衣は一歩、後ろへ下がった。
視線は外さず、足だけを動かす。
姿を現したのは、狼に似た生き物だった。
大きさは知っている狼より、ひと回り大きい。
毛並みは荒く、目が妙に鋭い。
(……勝てないな)
感想に近い判断だった。
距離は縮まっていない。
まだ、様子を見ている。
(向こうも、慎重)
それなら、やることは決まっている。
瑠衣は、走った。
全力ではない。
長く保てる速度。
木の根を避け、石を踏まない位置を選ぶ。
後ろを見なくても、距離はだいたい分かる。
速い。
だが、差は詰まりすぎていない。
(……いける、たぶん)
その「たぶん」に、根拠がないわけじゃない。
視界の先に、岩と倒木が重なった場所が見えた。
狭い。
曲がる。
高さがある。
(……あそこ)
進路を切り替え、瑠衣は速度を少しだけ落とす。
勢いを殺しすぎないように。
背後で、低い唸り声がした。
(……怒ってるなあ)
妙に冷静な自分を、どこかで他人事のように思いながら、
瑠衣は走り続けた。
選択肢は、まだ残っている。




