選びとるもの17
クリスから聞かされた言葉に、私は唇を引き結んだ。
サイルーンで感じた悪寒のようなものが蘇ってきたように感じた。背筋に走った何かを振るい落とすように一度体を竦める。
正直、神樹が怖い。あの頃、気丈な養母が神樹によって弱っていくのを姉と一緒に見ていた。聖女として人としては最大規模に魔力を持っていたと言われる養母を、あれほどまでに弱らせた神樹。彼女があの時死なず、人としては短くとも天寿を全うできたのは、養父や周りの者が必死にそれを阻止したからだ。たった一人にその運命を背負わせまいと、足掻いたからだ。
今のこの国には、あの頃の養父やその仲間たちのような、戦乱期の生き残りはほぼいない。イリアスやウルガといった長寿種が僅かに残っているだけだ。あの頃のモーゲンの住人たちのように何年もかけて準備してきた者もいない。この場に神樹が降臨し、あの時と同じ規模の魔物が現れた時、今ある戦力だけで戦えるか……。
「リチェ」
クリスが名を呼んだ。いつの間にか俯いていた私は、静かに顔を上げる。彼はゆっくりと目元を緩め、私を安心させるように微笑む。
「おそらく今回はあの時程のことにはならないよ。もし本当に具現化したとしても、まだ育つ前の苗木かそれに近い神樹だ。それに……」
「それに……?」
彼は躊躇いがちに手を伸ばし、私の頭を撫でた。彼が日頃セティにしているような仕草に、そういえば子どもの頃私自身もこんな風にたくさんの人から撫でてもらったなんてことを思い出した。養父母からも、村の人たちからも、それに今目の前にいるクリスからも。
「……グレンダさんは、手記にこう書いている。神樹は敵ではない。ただ異質でやっかいな性質をもっているだけ。あれは、私にとってもう一人の我が子だ、と」
「我が子……」
「そう、リチェやエマと同じように、グレンダさんにとって神樹は自分の子だったんだ。育てるのがとんでもなく大変で、それこそ文字通り命懸けだったけれど、グレンダさんにとっては神樹も愛すべき対象だった。そして神樹も、グレンダさんの祈りを受けて、その願いを叶えるぐらいにはグレンダさんのことを特別視していた」
私の頭から手を離したクリスは、ん-、とまた空を振り仰ぐ。さっきまでのその称号を感じるような硬さは消えていた。代わりに、この村の人たちや私がよく知っているお人好しそうな優しい気配が戻ってきていた。
「そう考えると、神樹がグレンダさんを探していたのも、なんだか微笑ましいって僕は思うんだ。親元を離れた子どもが甘えたくなって帰ってきたけど、会いたかった親がそこにいないから、どこ?って探し回っているようでさ」
「神樹の、里帰り……?」
「うん。こっちからすると被害も出てるから、はた迷惑な話ではあるんだけどもね」
クリスが笑う。
「グレンダさんは、神樹を切り倒した時にその声を聞いたように感じたと手記に残している。切り倒されることで完全に消滅してしまったならそんなことは起こりえない。神樹は切り倒されることで、こちらの世界での実体を失う代わりに『神』たちのいる世界か、さらにその向こうかどこかへと帰ったんだ。グレンダさんに、いってきます、とか、ありがとう、とかそんな感じの言葉を残して」
私は今更のように、養母の手記をそこまで読み込んでいなかったことを後悔した。私にとって養母はあまりに身近で家族だったから読むのを躊躇ったのだ。その心を暴くようで。親しき仲にも礼儀あり。そこは私が踏み込んでいいところではないと思っていた。何より、あれだけ重いものを背負い続けて、それでも私たちには笑ってみせながら生きた養母の弱いところを見たくなかったのだ。
でも、クリスは違った。養母の残した手記を後世を守る手掛かりとして扱った。養母の葛藤も悲しみも苦しみも全て受け止めて読み解いた。亡き妻からのラブレターとして手記を読んでいた養父とは違う、後世に真実を伝える役目を自覚して、聖女としてのグレンダに向き合い続けた。
「だから、そうだねぇ。きっと神樹はリチェを殺したいわけじゃない。グレンダさんの面影を感じて会いに来たいだけなのかもしれない。サイルーンで感じた恐怖感も、初めは神樹の力を無意識にリチェが感じ取ったもので。……そして、神樹の方も突然何かを投げつけられたから、びっくりして癇癪を起したとか、そんな感じかもしれない」
だとしても、神樹は僕らに比べると力が強過ぎるから危険ではあるんだけどね、とクリスが苦笑する。
「……楽観視し過ぎってセシル辺りには怒られそうだけどさ。大丈夫、きっと乗り越えられる。だから、準備しよう。多分、そのためにトゥーレはここを指定したんだ。ここ、モーゲンは他のどこよりも戦うのに適したところだから。ここにはまだグレンダさんの残した結界が残っている。それに、彼女の聖杯も、今もここを清め続けてくれている」
「……クリス。ありがとう」
自分の声が揺れたことで、私は自分が泣いていたことに気が付いた。びっくりして手の甲で慌てて目元を拭う。頬を流れ落ちていた涙をぬぐい去る。その様子にクリスが破顔した。彼が若い頃私に見せてくれたのと同じような笑顔だった。なのに、養父や養母の笑みに似ていて、私も釣られて笑う。
「そうね。分かった。準備をしよう。……ねぇ、クリス、確かあなたは、おばちゃんが使った呪文を全て覚えていたわよね?」
「うん。さすがに丸暗記はしていないけれど、グレンダさんが残してくれた手記にほぼ全て残ってるから説明できるよ」
「……なら、さ」
私は思いついたことを口にする。すると、彼は一瞬目を丸くしてから、いいんじゃない?と背中を押してくれた。
やっと、前作のラストシーンを回収できました。




