第四話:『深夜の掲示板(スレッド)と、校正されない私だけの夜』
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ミナミの喧騒を離れ、たどり着いたアパートの一室。
六畳一間の空間は、読み終えた文庫本と、レポート用の資料、それに脱ぎ捨てたストッキングが地層のように積み重なっている。
私はパソコンの電源を入れ、いつもの「文学部雑談掲示板」を開いた。
青白い光が、少しだけ火照った私の顔を無機質に照らし出す。
『今日、三本立てのオムニバス映画を観たんだけど、どれも脚本が甘すぎてお腹いっぱい』
私は「シィカ」というハンドルネームで、適当な一行を投げ込んだ。
もちろん、三本立ての映画とは、今日関わった三人の男たちのことだ。
すぐにレスポンスがつく。
『三本立ては胃もたれするだろ』
『脚本が甘いのは、主役の演技が良すぎるからじゃない?w』
『シィカさん、また「乱読」したんですか?』
顔も知らない匿名の人々とのやり取り。
彼らは私が現役の女子大生であることも、今日実際に三人の男を「読破」してきたことも知らない。
その情報の非対称性が、なんだか妙に心地よかった。
「ふふっ……。乱読、か。確かにそうかも」
私は標準語で独り言を漏らす。
パソコンの熱が膝に伝わり、昼間の「ホットドッグ」や、放課後の「機材置き場」の記憶が、熱を帯びて蘇ってきた。
(……まだ、身体が落ち着かないな)
三人と重なり合ったはずなのに、私の内側にはまだ、埋まりきらない余白が残っていた。
あるいは、他人の言葉(愛)を浴びすぎて、自分自身の言葉を確認したくなったのかもしれない。
私はマウスを握る手を止め、もう片方の手を、ゆっくりとスカートの奥へと滑り込ませた。
『次の一本は、どんなジャンルがいい?』
掲示板に打ち込みながら、指先が自分の柔らかい場所に触れる。
三人の男たちの感触が混ざり合い、それが私自身の指の動きによって、一つの新しい「文体」へと統合されていく。
「……あ」
画面の中では、見ず知らずの誰かが「叙述トリックの効いたミステリーがいい」なんて書き込んでいる。
私はそれに対して『ミステリーは、結末が分かると冷めちゃうから嫌い』と返信を打ち、同時に、指先の動きを速めた。
キーボードを叩くカチャカチャという音と、布が擦れるわずかな音。
掲示板のレスポンスが更新されるたびに、私の呼吸も少しずつ浅くなっていく。
(……これは、自分による、自分のための校正作業。知らんけど)
他人の体温に頼らず、自分だけで完結させる快楽。
それは、誰にも貸し出さない秘密の私蔵本を読んでいるような、贅沢で背徳的な時間だった。
画面の向こうの住人たちは、今この瞬間に私が何をしているかなんて想像もしていないだろう。
彼らが熱心に文学論を戦わせている間に、私は私自身の「核心」に触れ、物語をクライマックスへと導いていく。
「……んっ」
最後の一押しは、掲示板についた『結局、シィカさんは自分勝手な読者がお似合いだよ』という皮肉なレスだった。
その言葉が妙に腑に落ちて、私は一気に頂点へと駆け上がった。
……。
しばらくして、私はキーボードに突っ伏したまま、静かになった部屋の音を聞いていた。
パソコンのファンが回る音だけが、やけに大きく聞こえる。
掲示板には、さらにいくつかのレスがついていた。
『落ちたか?』
『シィカさん、寝落ち乙』
私は最後の一行を打ち込んだ。
『完読。おやすみなさい』
電源を落とすと、部屋は一瞬で深い闇に包まれた。
私は這うようにしてベッドに潜り込み、冷たいシーツに身を投じる。
「……あーあ。明日の二限、何だったっけ」
暗闇の中で呟いた言葉は、誰にも届かない。
でも、これでいい。
今日という一日を、私は自分の手で書き終えることができたのだから。
「……しゃあないな。明日も、面白い本に出会えますように」
私は小さく丸まると、心地よい疲労感の中に沈んでいった。
大阪の夜は、ページを閉じる私を優しく無視して、静かに更けていった。




