第五話:『日曜日のスクラップブック、夕焼けと余韻の栞(しおり)』
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日曜日のミナミは、人間という名の文字が氾濫している。
バイトも講義もない、真っ白な頁のような休日。私はお気に入りのサマードレスを揺らしながら、心斎橋の喧騒の中をあてもなく歩いていた。
「……暑いな。これじゃ文学的思索に耽る前に、脳みそが茹で上がっちゃう」
標準語の独り言も、人混みの熱気に飲み込まれていく。
戎橋の上、グリコの看板を背景に自撮りをする観光客を避けていた時、不意に腕を引かれた。
「お姉さん、一人? 暇なら、俺と面白いこと探さへん?」
声をかけてきたのは、少し焼けた肌に派手なシャツを着た男だった。
言葉はコテコテの大阪弁。いわゆる「ミナミの兄ちゃん」という風体だが、その瞳には退屈を埋めたがっている肉食動物のような、切実な光が宿っている。
(……今日のジャンルは、ハードボイルドっていうより、B級のロードムービーかな。知らんけど)
私は立ち止まり、彼の顔をじっと見つめた。
いつもなら「あ、予定あるんで」と標準語の壁を作る私だけれど、今日という真っ白な頁には、これくらい乱暴な書き込みが丁度いい気がした。
「面白いこと、って? 期待に応えてくれるなら、いいですよ」
「……お、ノリええやん。行こうや」
男に連れられて、華やかな御堂筋から一歩、裏路地へと足を踏み入れる。
そこは、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った、雑居ビルが立ち並ぶ灰色の隙間だった。
ビルの陰、ゴミ収集のコンテナが並ぶ一角。
遠くで街頭ビジョンの微かな音が聞こえる。
男は私を壁に押し付けると、言葉よりも先に、熱を孕んだ衝動をぶつけてきた。
「……こんなところで、いいんですか?」
「誰も来ん。ここは、俺だけの『秘密の書庫』やからな」
男が私の首筋に顔を埋め、低い声で囁く。
私は彼の背中に手を回し、ザラついた壁の感触を背中に感じながら、その無造作な愛を受け入れた。
それは、大学の先輩や後輩たちがくれる「洗練された言葉」とは違う、剥き出しの、本能だけの段落だった。
アスファルトの匂い、錆びた鉄の香り。
そして、都会の肺から漏れ出すような、重苦しくて熱い空気。
私はその中で、自分という存在がミナミの街の一部に溶けていくような、奇妙な全能感に包まれていた。
「……んっ、あ……」
街の雑音が、私たちの吐息をかき消してくれる。
終わりは唐突に、そして激しく訪れた。
男は満足げな溜息をつくと、私の髪を一度だけ乱暴に撫で、ポケットから出したタバコに火をつけた。
「……お姉さん、またな」
彼は煙を吐き出しながら、それだけ言って路地の向こうへと消えていった。
名前も、大学も、連絡先も知らない。
それでいい。これは、読み終わったら捨ててしまうペーパーバックのような関係なのだから。
私は乱れたドレスを整え、何事もなかったかのような顔で路地を出た。
難波駅へと向かう道すがら、街のネオンが少しずつ灯り始めている。
御堂筋線のホームに滑り込んできた電車に乗り込み、窓際の席に深く腰を下ろす。
電車が地上へと這い上がり、淀川を越えるあたりで、窓の外には燃えるような夕焼けが広がっていた。
「……あ」
その時、太ももの内側に、どろりとした、生温かい感触が伝わってきた。
ストッキングを伝い、膝の裏へとゆっくりと滴り落ちていく、あの男が残していった「物語の残渣」。
窓に映る自分の顔は、夕焼けのオレンジ色に染まって、少しだけ火照っている。
自分の体内に、まだ見知らぬ誰かの熱が残っているという確かな感覚。
それは、教科書に載っているような綺麗な言葉ではないけれど、今の私にとっては、何よりも雄弁な真実だった。
「……これ、なんか……すごく、青春やな」
私は標準語の中に、ぽつりと大阪弁を混ぜて呟いた。
乱雑に遊んで、汚れて、でも心の中はなぜか凪のように静かで。
太ももを伝うその粘り気のある感触が、今という一瞬を私の記憶に刻みつける栞のように感じられた。
(……この不快感も、このベタつきも、全部ひっくるめて、私が今生きてるっていう校閲。知らんけど)
夕焼けが地平線の彼方へと沈んでいき、窓の外は夜の色に塗り替えられていく。
私は太ももの感触をそのままに、目を閉じて、今日という一日の「あとがき」を心の中で書き上げた。
電車は揺れる。
私の内側にある「読みかけの物語」を、明日の現実へと運んでいくために。
シィカの大学生活は、まだ終わらない。
明日は、どんな一文から始めようか。
私は微かに微笑むと、深く、深く、電車の座席に身を預けた。




