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月蝕の花嫁  作者: 紫苑ユリ
月の女神
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夜明けを知らない獣

今日は妃教育もなく、

魔法の特訓の予定もなかったため、

私は私室のテラスで風に当たりながら城下町を眺めていた。


「……紅茶でも飲もうかしら」


そんなことを呟きながら、

ぼんやり景色を見つめていると――


不意に風が止んだ。


……静かすぎる。


先程まで聞こえていた街の喧騒も、

鳥の羽音も、

何もかもが消えている。


嫌な予感がした。


私はゆっくり空を見上げる。


「……え……?」


空が、

割れていた。


まるで夜そのものが裂けたように、

黒紫の闇が空を侵食していく。


昼間だというのに陽光は消え、

王都が急速に闇へ呑まれていった。


城下から悲鳴が聞こえる。


騎士達の怒号。


鐘の音。


ただならぬ事態だと理解するより早く、

胸の奥がざわついた。


――知っている。


そんなはずないのに。


私は、

この気配を知っている。


次の瞬間。


黒い霧の中から、

巨大な影が現れた。


白銀の体躯。


闇を纏う翼。


紫紺の瞳。


空を覆うほど巨大なその存在は、

まるで世界そのものを見下ろしているようだった。


兵士達の顔から血の気が引いていく。


「夜滅の幻獣……

ノクタルギア……!」


誰かが震える声で呟いた。


その名を聞いた瞬間、

胸が強く痛む。


何百年も前、

白夜王国を滅亡寸前まで追い込んだ伝説の災厄。


絵本や古い文献の中でしか知らなかった存在。


それが今、

目の前にいる。


ノクタルギアが翼を広げた。


瞬間。


黒い炎が王都へ降り注ぐ。


「きゃああああっ!!」


爆音。


崩れ落ちる建物。


逃げ惑う人々。


私は咄嗟に魔法陣を展開した。


半透明の結界が王都を覆い、

黒炎を受け止める。


だが、

衝撃が凄まじい。


足元が軋み、

精霊王達との媒介器にひびが入った。


結界越しでも伝わってくる、

圧倒的な魔力。


これが――

伝説の幻獣。


「ミスティリア!!」


振り返ると、

レオニス様が騎士達を連れて駆けてきていた。


「下がれ!

危険だ!」


「でも……!」


その時、

ノクタルギアが再び咆哮する。


空気が震え、

街中の窓硝子が一斉に砕け散った。


人々の恐怖が、

直接流れ込んでくる。


怖い。


けれど。


それ以上に――


……苦しそう。


何故か、

そう思った。


ノクタルギアの瞳は、

怒りよりも深い“何か”を抱えているように見えた。


私は無意識に叫ぶ。


「……もう、やめて!」


「ミスティリア!?」


レオニス様の制止も聞かず、

私は幻獣を見つめる。


巨大な幻獣と、

視線が合った。


その瞬間。


胸が締め付けられる。


孤独。


絶望。


暗闇。


何百年もの間、

誰にも届かなかった悲鳴。


それが、

直接流れ込んできた。


ノクタルギアがこちらへ近付いてくる。


騎士達が武器を構えた。


けれど私は首を振る。


「……攻撃しないで」


誰も動けなかった。


ノクタルギアは、

私の目の前で止まる。


そして。


巨大な頭部が、

ゆっくりと下がった。


その瞳を見た瞬間、

涙が零れる。


この子は。


ずっと独りだったんだ。


私は震える手を伸ばした。


怖くないと言えば嘘になる。


でも、

逃げたくなかった。


そっと額へ触れる。


瞬間。


凄まじい闇が溢れ出した。


頭の中へ、

大量の感情が流れ込んでくる。


滅び。


憎しみ。


封印。


裏切り。


そして――孤独。


あまりの痛みに、

息が詰まりそうになる。


それでも私は、

手を離さなかった。


「……もう、いいの」


ノクタルギアの瞳が揺れる。


「もう誰も、

あなたを独りにしない」


その瞬間だった。


暴走していた闇が、

静かに弱まっていく。


黒雲が裂け、

光が差し込む。


何百年ぶりかの陽光を浴びたノクタルギアは、

小さく震えていた。


まるで、

泣いているみたいだった。


やがて。


巨大な幻獣は、

ゆっくりと膝をつく。


王都を滅ぼしかけた災厄が、

私の前で頭を垂れた。


誰も言葉を失っていた。


静寂の中、

私はそっとその額を撫でる。


「……おかえりなさい」


するとノクタルギアは、

静かに目を閉じた。


その身体から、

禍々しい黒霧が少しずつ消えていく。


けれど周囲を見れば、

街には傷跡が残っていた。


崩れた建物。


焼けた道。


倒れている人々。


私は深く息を吸い、

両手を胸の前で重ねる。


魔力を解放した。


王都を覆うほど巨大な結界が空へ現れ、

世界を眩い光が包み込む。


「――《月蝕の力》」


光が降り注いだ。


砕けた建物が元へ戻っていく。


崩れた壁が再生し、

焼けた大地には花が咲く。


怪我人達も、

優しい光に包まれて癒えていった。


泣いていた子供が、

目を丸くする。


倒れていた騎士が、

ゆっくりと立ち上がる。


まるで時間そのものを巻き戻すように、

王都は再生していく。


魔法が終わる頃には、

街は襲撃前と変わらぬ姿へ戻っていた。


静まり返る王都。


やがて。


一人の子供が、

恐る恐る私を見上げる。


「……女神さまが、

助けてくれたの?」


その声をきっかけに、

人々が次々と跪いていく。


「やはり月の女神だ……」


「奇跡だ……」


「災厄を鎮めた……」


違う。


私はそんな立派なものじゃない。


ただ、

独りぼっちを放っておけなかっただけ。


そう言おうとした時。


レオニス様が私の隣へ来て、

静かに微笑んだ。


「皆、

ちゃんと見ていた」


「君が誰よりも、

この国を守ろうとしていたことを」


夕陽が王都を照らしている。


温かな光の中、

人々の歓声が響いた。


私はそっとノクタルギアを見上げる。


すると幻獣は静かに目を細め、

安心したように夜空へ溶けていった。

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