覚悟
第三条
二、性的な行為を強要しないこと。また、恋愛感情による独占はしない。
何度見ても変わらない文言に、花乃はため息をついた。束縛しない、無理しない、干渉しないがモットーの契約。
花乃はそれを恨めしく思ってしまう。
あの日、相川と別れてもから十数日が経った。
それから、花乃が夜遅くに帰っても那津がまだ帰って来ていない日が増えた。日付が変わってから帰宅する日もあったが、帰って来ない日もあった。
最初の数日は仕事が忙しいのだろう、と思っていたが、那津の服からふわりと香水の香りがしてから、花乃は那津が相川と会っているのだと感じていた。
が、それを確かめる訳にも行かない。
ーーねえ、どこからが恋愛感情による独占なの?
「仕事忙しい?」と聞くのは独占ではないだろう。
けれど、「相川さんといるの?」と聞いてしまうと嫉妬しているようにも聞こえる。
花乃は境界線が分からず、那津にメッセージを送れずにいたのだ。
ーーまあ……。その時がきたら嫌でも聞けるか。
落ち着いたら聞こう。そう思った。
那津が忙しいのが、本当に相川絡みなら、そのうち2人から報告があるはずだ。
その日を想像すると、胃がキリキリと痛む。
花乃はそんかジレンマに唸るしかできなかった。
「うああぁあ……。」
「何唸ってるんだ?」
「ん!?那津?」
今日は金曜日。
だいたい那津は金曜の夜は遅い。休日を確保するために仕事を片付けるんだ、と聞いたことがある。
しかし、那津は今日の金曜日に限ってはかなり早く帰宅していた。
「はやいね……。」
「何だよ、はやかったら悪いのか?あ。誰か呼ぶ予定だったとか?」
「いや。誰も来ないけど……。」
「ならいいじゃねえか。俺だって疲れたんだよ。」
そう言いながら、ネクタイを緩めていく。整えられた髪をくしゃくしゃとかき上げて、長いため息をつく。
「仕事、おつかれ。」
「ああ……。」
那津は花乃の隣にどかっと座った。
本当に疲れ切った表情をしている。
ーー相川さん絡みじゃ、なかったのかも。
そういう希望が見えて来て、花乃は少し嬉しくなった。
那津はまだ失恋から立ち直れていないのかもしれない。
だから、相川さんのアプローチも効いていないのかも。
そしたら、花乃はもう少し那津と一緒にいれるのだ。
花乃はじっと那津を見守った。
「花乃。」
那津は少し俯いて、言いにくそうに花乃の名前を呼んだ。
「ちょっと、大事な話をしたいんだけど、今度の日曜、空いてるか。」
ーーああ、ついにきたのか。
ほんの少しだけ。
那津が相川のことなんて気にしていないと思ったのに、その考えはすぐに崩されてしまった。
花乃はだんだん気分が沈んでいく。
ーー相川さんと那津に、笑っておめでとうと言おう、て決めたじゃない。
相川と話した日から、花乃はずっと考えてきた。
那津に次の恋を応援する、と言ったのだから、せめて邪魔にならないようにしなければ、と思っていた。
心の底からは言えないけれど、それでも表面上はおめでとうと言おうと覚悟してきた。
今日かもしれない、と何度も思った。
だから心の準備は出来ているつもりだったが、やはりそう簡単にはいかないようである。
花乃は拳をぎゅっと握りしめ、精一杯の笑顔を作った。
「うん。大丈夫。」
「……じゃあ、日曜の昼間に。」
「了解!」
那津の視線が痛い。
けれど、花乃は那津が見ている間は笑顔を崩さなかった。
那津は俯いて、またため息をついた。
「着替えてくる。」
そう言って、那津は部屋へと向かっていった。
ぱたん、と扉が閉まる音を聞き、花乃はようやく笑顔を崩した。
その時。
タイミングよく相川さんからもメッセージが届いた。
『日曜の昼におじゃまします。』
ーーなんで。
なんでなんで。
ーー何でこんなに胸が苦しいの。
ポロポロと溢れる涙がスマホの画面に落ちていく。
滲む視界で、メッセージが歪んでいく。
そして、スマホを持つ左手の薬指に、きらりと光るものが見えて、さらに涙が溢れ出していく。
契約指輪。
これとも、もうすぐさよならなのだ。
ーーああ。この契約書がなくなれば、この胸の苦しみもなくなるのかな。
誰か教えてほしい。
けれど、それでも、自分で模索して、悩んで、そして道を見つけていくしかないのだ。
だから今は。
今だけは、涙をたくさん流そう。
日曜に笑って祝福するために。




