第二十九話 白昼堂々
翌日、宿の自室にて、起床したクリスの前に――壁抜けの使い手である老人が姿を現した。
「クリスティーナ・ブーケンシャーよ。
この宿の従業員を、我々は人質に取った。
安否を気遣う心があるなら……ッ!?」
老人は、最後まで言葉を告げることが出来なかった。
クリスは、強烈な殺気を放っていた。
本当に武器か何かで襲われたような、そんな錯覚を覚えるほどの殺気をぶつけられ、萎縮して身を硬くする老人。
全身の筋肉、関節、腱……ありとあらゆる可動部に、文字通り釘を刺されたような感覚が走る。
それが錯覚に過ぎないと悟るまでに、沈黙してから十秒近く。
「……ッハァ!」
呼吸すら忘れていた老人は、慌てて息を吸った。
それを見て、クリスは一言、不遜な態度で告げる。
「紅茶を用意なさい」
「……は?」
発言の意図が分からず、思わず聞き返す老人。
これに、クリスは察しが悪いな、と言わんばかりに眉を顰めて言う。
「わたくし、朝は温かい紅茶の一杯から始めますの。
いつもは宿の従業員さんにお願いしているんですけれど、貴方のせいで準備できていないんでしょう?
だったら、貴方が代わりにやるのが筋というものです」
「な、何故儂がそのようなことを――ヒィッ!!」
言い返そうとして、老人はしかし、言葉に詰まる。
クリスの殺気が高まり、防衛反応から、つい反射的に頭を抱えて守るような姿勢で、その場にしゃがみ込んでしまったのだ。
ダンゴムシのように蹲り、身を守ることだけを考え、みっともない格好を晒す。
「もたもたしない」
この言葉が……老人には、死刑宣告のようにも思えた。
暗殺者故に鈍っていた――自分の命が奪われるかもしれない、という事実に対する恐怖心が、クリスの殺気によって奥底から引きずり出され、かつて無いほど湧き上がる。
クリスの放った言葉が、これまでに老人が繰り返してきた残虐行為の記憶を呼び起こし――主体、客体を入れ替えて再生させる。
自分の内臓が引きずり出され、潰され、血を抜かれて寒くなる身体を、丁寧に刻んで眼の前に並べられ、見せつけられる。
そんな想像を、経験故によりリアルに脳内で描いてしまった老人は、全身から脂汗を流しながら平伏する。
「た……ただいま用意します!」
従う、それ以外の行動を選べない程に、心がズタズタに傷ついていた。
何もされていないというのに。
ただ殺されるかもしれない、という危機感を直接ぶつけられただけなのに――人質を取っている側のはずなのに。
行動の自由を奪われたのは、クリスではなく老人の方であった。
程なくして、厨房で紅茶を用意し、クリスの部屋へと運んでくる老人。
だが……クリスには、一切の容赦の心が無い。
「不味い」
言うと――次の瞬間、老人の手足に衝撃が走る。
何が起こったのか、と気づくよりも先に、自由落下が始まる。
どうやったのか検討もつかないが……しかし、クリスは確かに、目にも止まらぬ速さか技かでもって、老人の手足を潰し、もいだ。
自信の手足が潰れ、千切れて宙に舞い上がる様を、まるでスローモーションのようにまじまじと眺める老人。
「あ……あぁ……っ」
ドサッ、と床に倒れた時には、絶望から、恐怖から涙が溢れ、嗚咽を漏らしていた。
「……全く、無能がやる仕事というのは、これほど無い方がマシなものだとは」
呆れたように言いながら、クリスは立ち上がり、床に転がる老人の髪を掴み、引き上げる。
「わたくしは美味しい紅茶が飲みたい。
何をすれば良いか、分かるな?」
脅すような言葉を言われ――手足をもぎ落とされて、老人が感じたものは。
恐怖よりも、怒りよりも……遥かに大きい『安堵』であった。
まだ殺されなくてすむ。
この人にとって、生かす価値がまだ残っている。
たったそれだけで……刃物より鋭いクリスの殺気に当てられていた老人は、希望や奇跡でも見せられたかのように、喜んだのだ。
「わ、儂らの拠点に、案内させてください……」
事実上の、降伏宣言をする老人。
「よろしい、では向かいましょうか」
こうして、クリスは老人の髪を掴んだまま――無造作に引きずりながら、白昼堂々と暗殺チームの拠点に向かって歩き出した。
辺境都市の、とある場所、何の変哲もない一軒家。
その玄関先へとクリスは瀕死の老人を引きずりながら到着する。
そして、暗殺チームもまた、玄関前に勢揃いしており、ナイフジャグリングの男が、宿の従業員である女性を人質に取った状態で、ナイフを突きつけていた。
人の往来もある屋外で、クリスと暗殺チームは互いに、人質に該当する人間を抱え、対峙するのであった。
いよいよ暗殺チームとクリスの正面衝突か。
暗殺チームと正面衝突……?
いや、普通のことか。




