表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/11

慣れたから

それから、三週間が過ぎた。


六月の終わりから続いていた蒸し暑さは少しずつ和らぎ、朝夕には涼しい風が吹くようになっていた。


蝉の声も日に日に大きくなり、街には本格的な夏の気配が漂い始めている。


あの夜から、少しずつ生活は落ち着きを取り戻していた。


彗の提案で、登校時間を三十分ほどずらしたことで、学校で凪と顔を合わせることはほとんどなくなった。


周囲に余計な詮索をされないように。


凪が肩身の狭い思いをしなくて済むように。


そんな配慮だった。


凪は最初こそ申し訳なさそうにしていたが、「今はこれでいい」と彗に言われ、その言葉に甘えることにした。


その間にも、母親の容体は少しずつ安定していった。


毎日のように病院へ通い、学校が終われば見舞いへ向かう。


そんな生活は変わらなかったが、医師から「急変の心配は今のところありません」と告げられたことで、凪の表情にも少しだけ余裕が戻っていた。


波も最初の頃の不安そうな顔は少なくなり、学校から帰れば自然と彗の家へ来るようになっていた。


最初は遠慮していた少女も、今では冷蔵庫を開けて「今日のおやつは?」と尋ねるほど打ち解けている。


その変化を見ていると、彗もどこか安心するのだった。


夕方。


玄関の鍵が静かに回る。


「ただいま。」


いつものように家へ入ると、リビングから小さな足音が聞こえてきた。


タタタッ、と軽快な音が廊下へ響く。


「お兄さん、おかえり!」


波が満面の笑みで駆け寄ってくる。


勢いよく飛びつきそうになるところで踏みとどまり、両手を広げて笑っていた。


三週間という時間は、子どもにとっては十分すぎるほど長かった。


最初は緊張していた波も、今では彗を「お兄さん」と呼ぶのが当たり前になっている。


彗もその呼び方を自然に受け入れていた。


「ただいま。」


そう返すと、そっと波の頭を撫でる。


柔らかな髪が指先をくすぐる。


波は嬉しそうに目を細めた。


「今日は学校どうだった?」


「算数で百点だった!」


「そう。」


「先生にも褒められたの!」


「頑張ったね。」


短い言葉だったが、その一言だけで波は満足そうに笑った。


以前なら、誰かに褒めてもらう機会はほとんどなかった。


姉は毎日必死だった。


母親は入院中。


だからこそ、彗の「頑張ったね」という何気ない言葉が嬉しかった。


「お姉さんは?」


靴を脱ぎながら彗が尋ねる。


「今日はお友達とお出かけ!」


波は元気よく答えた。


「映画見るんだって!」


「そう。」


彗は小さく頷く。


凪にも少しずつ笑顔が戻ってきていた。


友人から何度も誘われても断り続けていた彼女が、ようやく「行ってみようかな」と思えるようになった。


病院へ行く前に友達と昼食を食べる日もできた。


笑って帰ってくる日も増えた。


もちろん、不安が消えたわけではない。


家計の問題も、母親の病気も、何一つ解決してはいない。


それでも。


笑える時間が少しでも増えたことが、彗には何より嬉しかった。


「あのね。」


波が小さな声で言う。


「お姉さんね。」


「最近、前より笑うようになったよ。」


「そう。」


「前は、夜になると泣いてた。」


その言葉に、彗の動きが一瞬だけ止まる。


「でも今は。」


「寝る前に『今日は楽しかった』って言うの。」


波は嬉しそうに笑った。


子どもは、大人が思っている以上によく見ている。


姉の涙も、無理に作った笑顔も。


全部知っていたのだろう。


彗は静かに息を吐いた。


「よかった。」


その一言には、心からの安堵が滲んでいた。


リビングへ入ると、夕日が大きな窓から差し込んでいた。


部屋全体が橙色に染まり、穏やかな時間が流れている。


彗はソファへ腰掛ける。


波も当然のように隣へちょこんと座った。


小さな足をぶらぶらと揺らしながら、テレビもつけずに彗を見上げている。


しばらく沈黙が続く。


その静けさすら心地よかった。


そして波は、何気ない調子で口を開く。


「ねぇ、お兄さん。」


「ん?」


「友達いないの?」


あまりにも真っ直ぐな質問だった。


子どもだからこそ、遠慮がない。


悪気もない。


純粋な疑問だった。


彗は少しだけ考える。


「……いないかな。」


答えは短かった。


嘘ではない。


学校では必要最低限の会話しかしない。


昼休みも一人で本を読み、放課後はすぐ帰宅する。


誰かと遊ぶこともない。


休日に連絡を取り合う相手もいない。


それが当たり前になっていた。


波は不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ。」


「寂しくないの?」


彗は窓の外を見る。


夕焼けが住宅街を赤く染め、電柱の影が長く伸びていた。


どこかの家から夕飯の支度をする音が聞こえる。


家族の笑い声も聞こえてくる。


そんな景色を眺めながら、小さく答えた。


「慣れたから。」


それだけだった。


本当は、慣れるしかなかった。


誰かを頼ることも。


誰かに甘えることも。


いつの間にか諦めてしまった。


だから一人でいることが普通になった。


寂しいという感情さえ、いつしか心の奥へ押し込めてしまっていた。


波には、その意味がよく分からない。


「慣れるって。」


「寂しくなくなるってこと?」


彗は少しだけ考えてから首を横に振った。


「違う。」


「寂しいままでも。」


「それが普通になるだけ。」


その言葉は静かだった。


けれど、どこか悲しそうでもあった。


波はしばらく黙って考える。


難しい話は分からない。


でも、一つだけ分かったことがある。


目の前のお兄さんは、ずっと一人だったのだ。


だから。


波は突然にこっと笑った。


「じゃあ!」


元気いっぱいに立ち上がる。


「私はお兄さんのお友達になる!」


「毎日遊ぶ!」


「いっぱいお話しする!」


「一緒にご飯食べる!」


「だからもう、一人じゃないよ!」


あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


打算も遠慮もない。


子どもだからこそ言える、純粋な気持ち。


その言葉に、彗は一瞬だけ目を見開く。


胸の奥で何かが小さく揺れた。


こんなふうに「友達になろう」と言われたのは、いつ以来だろう。


思い出せないほど昔のことだった。


自然と口元が緩む。


ほんの少しだけ。


けれど確かに笑っていた。


「……ありがとう。」


その笑顔は本当に小さかった。


ほんの一瞬で消えてしまいそうなほど控えめだった。


それでも波は、その笑顔を見逃さなかった。


「あっ!」


嬉しそうに指をさす。


「笑った!」


「お兄さん、笑った!」


「初めて見た!」


その無邪気な声に、彗は少しだけ照れたように目を逸らす。


「そうかな。」


「うん!」


波は何度も頷いた。


「お兄さんは笑った方がかっこいいよ!」


子どもの飾らない一言に、彗は困ったように苦笑する。


その時だった。


玄関のドアが開く音がした。


「ただいま。」


凪の声が聞こえる。


リビングへ入ってきた彼女は、そこにいる二人を見て足を止めた。


波は嬉しそうに叫ぶ。


「お姉さん!」


「見て!」


「お兄さんが笑ったの!」


凪は驚いたように彗を見る。


夕日に照らされた横顔には、確かに穏やかな笑みの名残が残っていた。


その表情を見た凪は、誰にも気付かれないほど小さく微笑む。


――この人も、少しずつ変わってきている。


そう思えたことが、なぜだか自分のことのように嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ