慣れたから
それから、三週間が過ぎた。
六月の終わりから続いていた蒸し暑さは少しずつ和らぎ、朝夕には涼しい風が吹くようになっていた。
蝉の声も日に日に大きくなり、街には本格的な夏の気配が漂い始めている。
あの夜から、少しずつ生活は落ち着きを取り戻していた。
彗の提案で、登校時間を三十分ほどずらしたことで、学校で凪と顔を合わせることはほとんどなくなった。
周囲に余計な詮索をされないように。
凪が肩身の狭い思いをしなくて済むように。
そんな配慮だった。
凪は最初こそ申し訳なさそうにしていたが、「今はこれでいい」と彗に言われ、その言葉に甘えることにした。
その間にも、母親の容体は少しずつ安定していった。
毎日のように病院へ通い、学校が終われば見舞いへ向かう。
そんな生活は変わらなかったが、医師から「急変の心配は今のところありません」と告げられたことで、凪の表情にも少しだけ余裕が戻っていた。
波も最初の頃の不安そうな顔は少なくなり、学校から帰れば自然と彗の家へ来るようになっていた。
最初は遠慮していた少女も、今では冷蔵庫を開けて「今日のおやつは?」と尋ねるほど打ち解けている。
その変化を見ていると、彗もどこか安心するのだった。
夕方。
玄関の鍵が静かに回る。
「ただいま。」
いつものように家へ入ると、リビングから小さな足音が聞こえてきた。
タタタッ、と軽快な音が廊下へ響く。
「お兄さん、おかえり!」
波が満面の笑みで駆け寄ってくる。
勢いよく飛びつきそうになるところで踏みとどまり、両手を広げて笑っていた。
三週間という時間は、子どもにとっては十分すぎるほど長かった。
最初は緊張していた波も、今では彗を「お兄さん」と呼ぶのが当たり前になっている。
彗もその呼び方を自然に受け入れていた。
「ただいま。」
そう返すと、そっと波の頭を撫でる。
柔らかな髪が指先をくすぐる。
波は嬉しそうに目を細めた。
「今日は学校どうだった?」
「算数で百点だった!」
「そう。」
「先生にも褒められたの!」
「頑張ったね。」
短い言葉だったが、その一言だけで波は満足そうに笑った。
以前なら、誰かに褒めてもらう機会はほとんどなかった。
姉は毎日必死だった。
母親は入院中。
だからこそ、彗の「頑張ったね」という何気ない言葉が嬉しかった。
「お姉さんは?」
靴を脱ぎながら彗が尋ねる。
「今日はお友達とお出かけ!」
波は元気よく答えた。
「映画見るんだって!」
「そう。」
彗は小さく頷く。
凪にも少しずつ笑顔が戻ってきていた。
友人から何度も誘われても断り続けていた彼女が、ようやく「行ってみようかな」と思えるようになった。
病院へ行く前に友達と昼食を食べる日もできた。
笑って帰ってくる日も増えた。
もちろん、不安が消えたわけではない。
家計の問題も、母親の病気も、何一つ解決してはいない。
それでも。
笑える時間が少しでも増えたことが、彗には何より嬉しかった。
「あのね。」
波が小さな声で言う。
「お姉さんね。」
「最近、前より笑うようになったよ。」
「そう。」
「前は、夜になると泣いてた。」
その言葉に、彗の動きが一瞬だけ止まる。
「でも今は。」
「寝る前に『今日は楽しかった』って言うの。」
波は嬉しそうに笑った。
子どもは、大人が思っている以上によく見ている。
姉の涙も、無理に作った笑顔も。
全部知っていたのだろう。
彗は静かに息を吐いた。
「よかった。」
その一言には、心からの安堵が滲んでいた。
リビングへ入ると、夕日が大きな窓から差し込んでいた。
部屋全体が橙色に染まり、穏やかな時間が流れている。
彗はソファへ腰掛ける。
波も当然のように隣へちょこんと座った。
小さな足をぶらぶらと揺らしながら、テレビもつけずに彗を見上げている。
しばらく沈黙が続く。
その静けさすら心地よかった。
そして波は、何気ない調子で口を開く。
「ねぇ、お兄さん。」
「ん?」
「友達いないの?」
あまりにも真っ直ぐな質問だった。
子どもだからこそ、遠慮がない。
悪気もない。
純粋な疑問だった。
彗は少しだけ考える。
「……いないかな。」
答えは短かった。
嘘ではない。
学校では必要最低限の会話しかしない。
昼休みも一人で本を読み、放課後はすぐ帰宅する。
誰かと遊ぶこともない。
休日に連絡を取り合う相手もいない。
それが当たり前になっていた。
波は不思議そうに首を傾げる。
「じゃあ。」
「寂しくないの?」
彗は窓の外を見る。
夕焼けが住宅街を赤く染め、電柱の影が長く伸びていた。
どこかの家から夕飯の支度をする音が聞こえる。
家族の笑い声も聞こえてくる。
そんな景色を眺めながら、小さく答えた。
「慣れたから。」
それだけだった。
本当は、慣れるしかなかった。
誰かを頼ることも。
誰かに甘えることも。
いつの間にか諦めてしまった。
だから一人でいることが普通になった。
寂しいという感情さえ、いつしか心の奥へ押し込めてしまっていた。
波には、その意味がよく分からない。
「慣れるって。」
「寂しくなくなるってこと?」
彗は少しだけ考えてから首を横に振った。
「違う。」
「寂しいままでも。」
「それが普通になるだけ。」
その言葉は静かだった。
けれど、どこか悲しそうでもあった。
波はしばらく黙って考える。
難しい話は分からない。
でも、一つだけ分かったことがある。
目の前のお兄さんは、ずっと一人だったのだ。
だから。
波は突然にこっと笑った。
「じゃあ!」
元気いっぱいに立ち上がる。
「私はお兄さんのお友達になる!」
「毎日遊ぶ!」
「いっぱいお話しする!」
「一緒にご飯食べる!」
「だからもう、一人じゃないよ!」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
打算も遠慮もない。
子どもだからこそ言える、純粋な気持ち。
その言葉に、彗は一瞬だけ目を見開く。
胸の奥で何かが小さく揺れた。
こんなふうに「友達になろう」と言われたのは、いつ以来だろう。
思い出せないほど昔のことだった。
自然と口元が緩む。
ほんの少しだけ。
けれど確かに笑っていた。
「……ありがとう。」
その笑顔は本当に小さかった。
ほんの一瞬で消えてしまいそうなほど控えめだった。
それでも波は、その笑顔を見逃さなかった。
「あっ!」
嬉しそうに指をさす。
「笑った!」
「お兄さん、笑った!」
「初めて見た!」
その無邪気な声に、彗は少しだけ照れたように目を逸らす。
「そうかな。」
「うん!」
波は何度も頷いた。
「お兄さんは笑った方がかっこいいよ!」
子どもの飾らない一言に、彗は困ったように苦笑する。
その時だった。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま。」
凪の声が聞こえる。
リビングへ入ってきた彼女は、そこにいる二人を見て足を止めた。
波は嬉しそうに叫ぶ。
「お姉さん!」
「見て!」
「お兄さんが笑ったの!」
凪は驚いたように彗を見る。
夕日に照らされた横顔には、確かに穏やかな笑みの名残が残っていた。
その表情を見た凪は、誰にも気付かれないほど小さく微笑む。
――この人も、少しずつ変わってきている。
そう思えたことが、なぜだか自分のことのように嬉しかった。




