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お礼①

深夜一時。


家の中は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。


リビングの時計だけが、規則正しく秒針を刻む音を響かせている。


窓の外では街灯が淡く住宅街を照らし、遠くを走る車の音が時折風に乗って聞こえてくるだけだった。


客室では、波が穏やかな寝息を立てて眠っていた。


昼間は不安そうに何度も姉の姿を探していた少女も、久しぶりに安心できる場所を見つけたのだろう。


柔らかな毛布を胸元まで掛け、小さな身体を丸めるようにして眠っている。


寝顔は年相応に幼く、無邪気だった。


その様子を見届けた彗は、静かに部屋の明かりを落とし、自室へ戻った。


本を開いていたものの、一文字も頭には入らない。


今日一日の出来事が、何度も頭の中を巡っていた。


母親の突然の入院。


途方に暮れていた姉妹。


そして、泣きながら何度も「ごめんなさい」と繰り返していた凪の姿。


――少しでも眠れればいい。


そんなことを考えながら本を閉じた、その時だった。


コンコン。


静かな廊下に、小さなノックの音が響く。


「水平君……ちょっといいかな。」


扉越しの声は、遠慮がちだった。


彗は椅子から立ち上がり、静かにドアを開ける。


「あぁ。」


そこには部屋着に着替えた凪が立っていた。


髪は軽く結び直されているが、どこか落ち着かない様子で指先を握りしめている。


「こんな夜遅くに、ごめんね。」


申し訳なさそうに頭を下げる。


彗は小さく首を横に振った。


「眠れないの?」


その一言に、凪は少し目を丸くする。


「……え?」


「どうして分かったの?」


彗は少しだけ考えてから答えた。


「夕食の時から、ずっと肩に力が入ってた。」


「波ちゃんを寝かせたあとも、部屋を何度も出たり入ったりしてた。」


「眠れない人の動きだったから。」


凪は苦笑する。


「見られてたんだ。」


「見ようとしてたわけじゃない。」


「音が聞こえたから。」


本当にそれだけなのだろう。


彗は特別なことを言っているつもりはない。


その自然さが、凪には少し不思議だった。


「……少しね。」


凪は小さく頷く。


「眠れなくて。」


「考え事?」


「うん。」


短く答える。


彗は部屋へ入るよう促した。


「立ったままだと寒い。」


「入って。」


「……ありがとう。」


凪は遠慮がちに部屋へ入る。


本棚には数学書や専門書が整然と並び、机の上にはノートと万年筆が置かれていた。


余計なものは何一つない。


生活感はあるのに、不思議なほど静かな部屋だった。


彗は電気ケトルに水を入れる。


「温かいお茶でいい?」


「うん。」


やがて湯気の立つ湯飲みが二つ並ぶ。


湯気がゆっくりと立ち上り、少しだけ部屋の空気を柔らかくした。


凪は湯飲みを両手で包み込む。


その温もりが、冷え切っていた指先へ少しずつ伝わっていく。


しばらく沈黙が続いた。


けれど、不思議と気まずくはなかった。


やがて凪は意を決したように口を開く。


「私の家ね。」


その声は静かだった。


「もうガス、止まってるんだ。」


言葉を選ぶように、一つずつ話していく。


「水道も……あと少しで止められちゃう。」


「家賃もギリギリ。」


「お母さんの入院費もあるし……。」


そこで一度言葉が途切れる。


けれど、一度口にしてしまうと、胸の奥に押し込めていたものが堰を切ったように溢れ出した。


「波には『大丈夫』って言ってる。」


「笑って、大丈夫だからって。」


「でも、本当は全然大丈夫じゃない。」


「毎日、お金のことばっかり考えて。」


「学校にいても、授業なんて頭に入らなくて。」


「帰ったら何を食べさせようとか。」


「今月はどうやって払おうとか。」


「病院から電話が来たらどうしようとか。」


「そんなことばっかり。」


凪は俯いた。


「夜になると考えちゃうの。」


「もし、お母さんに何かあったら。」


「もし私が働かなきゃいけなくなったら。」


「もし波が学校へ行けなくなったら。」


「そんな”もし”ばっかり浮かんできて。」


「怖くて。」


「眠れないの。」


笑おうとした。


けれど、その笑顔は最後まで形にならなかった。


涙が滲みそうになるのを必死に堪えている。


「なのに、水平君は……。」


「こんな大きな家で、一人で暮らして。」


「料理もできて。」


「掃除も洗濯も。」


「全部ちゃんとしてて。」


「何でも一人でできちゃう。」


少し羨ましそうに笑う。


「……すごいよ。」


彗はすぐには答えなかった。


静かに窓の外を見つめる。


夜空には雲の切れ間から星がいくつか顔を覗かせていた。


「すごくないよ。」


ようやく口を開く。


「できるようになっただけ。」


それだけだった。


「一人でいる時間が長いと。」


「誰も代わりにやってくれない。」


「だから。」


「覚えるしかなかった。」


その横顔には、どこか諦めにも似た静けさがあった。


凪はその表情を見て、初めて理解する。


この人は恵まれて育ったわけではない。


誰かに守られ続けてきた人でもない。


守ってくれる人がいなかったから、自分で生きられるようになっただけなのだ。


その事実が、胸に痛いほど伝わってくる。


「だから……水平君。」


凪はゆっくり顔を上げた。


「ちゃんと、お礼をしないといけないと思って。」


「今日、ご飯を作ってくれて。」


「泊めてくれて。」


「波にも優しくしてくれて。」


「私にも、ずっと優しくしてくれて。」


「こんなに誰かに助けてもらったの。」


「初めてだから……。」


声が震える。


「でも私。」


「何も返せない。」


「返せるものなんて、何もない。」


「それが悔しくて。」


「情けなくて。」


「申し訳なくて……。」


とうとう涙が零れ落ちた。


彗は静かに凪を見つめる。


「北宮さん──。」


そう呼びかけて、一瞬だけ言葉を止める。


そして、小さく微笑んだ。


「……いや。」


「凪。」


初めて名前で呼ばれた。


その二文字だけで、凪の心臓が大きく鳴る。


「今は。」


「自分が幸せになることを考えて。」


「お礼は、そのあとでいい。」


穏やかな声だった。


押しつけでも励ましでもない。


ただ、静かに寄り添うような声。


「でも……。」


「私、本当に返せなくて……。」


「返さなくていい。」


彗は首を横に振る。


「誰かを助けた見返りなんて。」


「最初から求めてないから。」


「それより。」


「凪が笑えるようになる方が大事。」


その一言で、凪の胸に張りつめていた糸がぷつりと切れた。


涙が一筋。


そして二筋。


頬を静かに伝っていく。


「……なんで。」


嗚咽を堪えながら尋ねる。


「なんで、そこまで優しくできるの?」


彗は少しだけ考え、それから困ったように笑った。


「優しくしてるつもりはないよ。」


「困っている人がいたから。」


「手を差し伸べただけ。」


「もし逆だったら。」


「誰かが俺にもそうしてくれたら、嬉しいと思うから。」


その言葉には飾りがなかった。


だからこそ、真っ直ぐ胸へ届く。


凪は思う。


この人は、自分がどれほど寂しい思いをしてきたのかを語ろうとしない。


辛かったことも、苦しかったことも、誰にも押しつけない。


だから人を助けることも、ごく自然なこととして受け止めている。


きっと、この人は誰よりも孤独を知っている。


だからこそ、誰かを一人にしないのだ。


凪は涙を拭い、小さく笑った。


さっきまでの無理に作った笑顔ではない。


少しだけ力の抜けた、心からの笑顔だった。


「……ありがとう。」


今度の「ありがとう」は、借りを返すための言葉ではなかった。


誰かの優しさを、素直に受け取ることができた証だった。


彗もまた、小さく頷く。


「おやすみ。」


「うん。」


凪は部屋を出る直前、一度だけ振り返る。


「……おやすみ、彗君。」


初めて名前で呼んだその声は、少し照れくさそうで、それでもどこか嬉しそうだった。


彗はほんの少し目を丸くしたあと、穏やかに笑う。


「おやすみ、凪。」


扉が静かに閉まる。


廊下には再び静寂が戻った。


けれど、その静けさは先ほどまでとは違っていた。


二人の心に、確かな温もりが灯った夜だった。

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