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手作りオムライス

しばらくすると、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってきた。


バターが溶ける甘い匂い。


炒められた玉ねぎの香ばしさ。


ケチャップが温まる、どこか懐かしい香り。


ぐぅ、と小さくお腹が鳴った。


「……あ。」


音を立てた本人――波が慌ててお腹を押さえる。


「ご、ごめんなさい……。」


恥ずかしそうに顔を赤くする波を見て、彗は少しだけ口元を緩めた。


「ちょうどできるから。」


その言葉に、波は照れ笑いを浮かべる。


「えへへ……。」


凪はそんな妹の様子を見ながら、小さく胸を撫で下ろしていた。


最近の波は、家ではあまりわがままを言わなくなっていた。


「お姉ちゃんが大変だから。」


そう言って、自分の気持ちを我慢することが増えた。


お腹が空いても「平気」。


欲しいものがあっても「いらない」。


まだ中学生なのに、大人のように振る舞おうとしている。


そのことが、凪にはずっと申し訳なかった。


キッチンでは、フライパンを火から下ろす音が響く。


卵をそっと包み込むようにご飯へ乗せる。


器がテーブルに並べられる音。


スプーンが静かに置かれる音。


そのどれもが、落ち着いたリズムだった。


「できたよ。」


彗は三人分の皿を運び、静かにテーブルへ置いた。


「簡単なものでごめん。」


そう言って並べられたのは、ふわりと卵が乗ったオムライスと、湯気の立つオニオンスープだった。


ケチャップで飾り気なく一本線が引かれたオムライス。


鮮やかな黄色の卵は艶やかで、包み方も綺麗だ。


添えられたパセリが彩りを加え、白い皿によく映えている。


スープには透き通った飴色の玉ねぎと、小さく刻まれたパセリが浮かび、湯気とともに優しい香りが立ち上っていた。


それは決して豪華な料理ではない。


けれど、丁寧に作られたことだけは、一目で分かった。


「……え。」


凪は思わず息を呑んだ。


「これ、水平君が全部作ったの?」


「うん。」


彗は当然のように頷く。


「一人暮らしみたいなものだから。」


その何気ない一言に、凪の胸が痛む。


一人暮らし”みたい”ではない。


ほとんど一人暮らしなのだ。


誰かに「今日は何が食べたい?」と聞かれることもない。


「おいしかった?」と尋ねられることもない。


毎日、自分のためだけに料理を作る。


その生活が当たり前になっている。


凪はそのことを想像し、言葉を失った。


一方、波は目を輝かせていた。


「すごい……!」


「お店みたい!」


彗は少しだけ困ったように笑う。


「そこまでじゃないよ。」


「冷める前に食べよう。」


椅子に座る三人。


自然と向かい合う形になる。


「いただきます。」


「「いただきます。」」


三人の声が重なった。


その瞬間だった。


彗は少しだけ目を伏せる。


――三人で。


誰かと一緒に。


「いただきます。」


そう言ったのは、いつ以来だろう。


思い出そうとしても思い出せない。


幼い頃は、父も母も家にいた。


賑やかな食卓があった。


笑い声もあった。


けれど仕事が忙しくなるにつれ、その時間は少しずつ減っていった。


やがて一人になった。


「いただきます」と口にしても返事はない。


だから最近は、言わなくなっていた。


今日は違う。


小さな「いただきます」が二つ返ってきた。


それだけで、どこか胸が温かくなった。


波は一口食べた瞬間、目を丸くした。


「お、おいしい……!」


思わず頬が緩む。


夢中でスプーンを動かし始めた。


「卵ふわふわ!」


「ご飯もおいしい!」


「スープ甘い!」


次々と感想が口からこぼれる。


その様子を見ているだけで、彗も少し嬉しそうだった。


凪もゆっくりオムライスを口へ運ぶ。


ふわり、と卵がほどける。


中のチキンライスは優しい味付けで、ケチャップの酸味も強すぎない。


鶏肉も固くならず、ちょうどいい火加減だった。


「……。」


次にスープを飲む。


玉ねぎの甘みがじんわりと広がる。


コンソメの優しい旨味。


冷え切った身体の奥まで、ゆっくりと温まっていく。


思わず目を閉じた。


「……本当に、おいしい。」


自然に漏れたその一言。


飾りではない。


心からの感想だった。


彗は少し照れくさそうに視線を逸らす。


「口に合ってよかった。」


その笑顔は控えめだった。


けれど凪には、その一瞬の笑顔が、学校で見せるどんな表情よりも自然に見えた。


波はスプーンを止め、じっと彗を見る。


「水平さん。」


「なに?」


「毎日こんなの食べてるの?」


「うん。」


「一人で?」


「うん。」


「……。」


波は少しだけ黙り込む。


「一人で食べても、おいしい?」


その質問に、空気が少しだけ止まった。


彗は答えるまで少し時間がかかった。


「……分からない。」


「え?」


「誰かと比べたことがないから。」


その返事は、あまりにも静かだった。


凪の手が止まる。


波も何も言えない。


一人で食べることが普通。


それ以外を知らない。


だから比較することさえできない。


それが、どれほど寂しいことなのか。


本人だけが分かっていない。


「でも。」


彗は小さく続けた。


「今日は、おいしい。」


「……。」


「三人だから。」


その一言で、凪の胸が熱くなる。


波も嬉しそうに笑った。


「じゃあ!」


波は勢いよく身を乗り出す。


「また来てもいい?」


凪が慌てる。


「こ、こら波!」


「そんな勝手に……。」


しかし彗は困ったように笑っただけだった。


「うん。」


「ご飯、多めに作ればいいだけだから。」


「やったー!」


波は思わず両手を上げて喜ぶ。


その無邪気な笑顔を見て、凪も思わず笑ってしまう。


「もう……。」


「ありがとう、水平君。」


「本当に。」


彗は首を横に振る。


「お礼を言われることじゃない。」


「俺も、一人で食べるより楽しいから。」


その言葉を聞いた凪は、胸の奥がじんと熱くなった。


この人は、自分たちを助けているつもりなのだろう。


けれど実際には、お互いが少しずつ救われている。


母の入院以来、食卓から笑顔が消えていた北宮姉妹。


そして、広すぎる家で一人きりの食事に慣れてしまった水平彗。


たった三人で囲む夕食。


豪華な料理でも、特別な出来事でもない。


それなのに、この食卓には、誰もがずっと失っていた温もりがあった。


窓の外では、雨はいつの間にか止んでいた。


雲の切れ間から差し込んだ夕日が、食卓を優しく照らしていた。

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