優しすぎる人
北宮家の玄関を開けると、勢いよく足音が近づいてきた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
ぱたぱたと廊下を駆けてきた制服姿の少女が、凪へ飛びつく。
「ただいま、波。」
凪は自然な笑みを浮かべ、少女を優しく抱きしめた。
その笑顔は学校で見せていた作り笑いとは違う。
肩の力が抜けた、本当に安心したような笑顔だった。
彗はその様子を静かに眺める。
――ちゃんと笑えるんだ。
そう思った。
家族の前では、少なくとも妹の前では。
「今日は遅かったね。」
「うん、ごめんね。」
「お腹空いた。」
「もう少し待ってね。」
そんな何気ない姉妹の会話。
彗には少し眩しかった。
話を聞くと、中学一年生。
四つ下の妹、北宮波。
凪とはよく似た黒髪だが、瞳には年相応の無邪気さが残っている。
しかし、その無邪気さは凪の後ろに立つ彗を見つけた瞬間に消えた。
「……お姉ちゃん。」
「その人、誰……?」
波は凪の制服の裾をぎゅっと掴み、彗をじっと見つめる。
その目には、はっきりとした警戒心が宿っていた。
小さな身体が、まるで姉を守る盾になろうとしている。
凪は困ったように笑う。
「あ、この人はね。私のクラスメートの……」
「水平彗。」
凪の言葉を引き継ぐように、彗は軽く頭を下げた。
「よろしく。」
それでも波は返事をしない。
凪の後ろへ半歩隠れたまま、彗から視線を外そうとしなかった。
その姿を見て、彗は少しだけ目を細める。
――やっぱり。
当然だ、と彗は思う。
知らない男を簡単に信用しない。
それだけ姉を大切にしているということだから。
悪いことではない。
むしろ、そのくらいでいい。
彗は無理に笑顔を作ることも、近づくこともしなかった。
ゆっくりとしゃがみ、波と同じ目線になる。
圧迫感を与えないように。
「波ちゃん。」
一瞬、「北宮さん」と呼びかけかけて言い直す。
「ご飯、食べに来ない?」
波はきょとんと目を丸くした。
「……ご飯?」
「うん。」
「今日は一人で食べる予定だったから。」
「三人で食べた方がおいしい。」
それだけだった。
「お菓子あるよ。」
とも言わない。
「仲良くしよう。」
とも言わない。
子ども扱いもしない。
それだけ言うと、彗は無理に返事を待たず、静かに立ち上がった。
波は凪を見上げる。
「……お姉ちゃん。」
小さな声で、不安そうに問いかける。
「知らない人のお家に行ってもいいの……?」
凪は優しく微笑み、波の頭を撫でた。
「大丈夫。」
「この人は、怖い人じゃないから。」
波はまだ少し迷っているようだった。
けれど姉の言葉を信じることにしたのか、小さく頷く。
「……うん。」
その返事を聞いても、彗は何も言わない。
急かすこともしない。
ただ玄関の外へ出て、二人を待っていた。
その背中を見て、波はぽつりと呟く。
「なんか……変な人。」
「え?」
「優しいけど。」
「なんか寂しそう。」
凪は驚いた。
自分も同じことを思っていたからだ。
◇◇◇
三人は十分ほど歩き、一軒の大きな門の前へ着いた。
「ここ。」
彗が立ち止まる。
「……え。」
凪の足が止まる。
その隣で、波もぽかんと口を開けていた。
門の向こうに建つのは、まるで屋敷と呼ぶべき大きな家だった。
二階建てというより、小さな洋館。
白い外壁。
広い庭には手入れされた芝生と季節の花。
石畳のアプローチ。
雨に濡れた木々が街灯に照らされ、美しく輝いている。
「……ここ、本当に水平君の家?」
凪が恐る恐る尋ねる。
「うん。」
彗はそれだけ答え、玄関の鍵を開けた。
重厚な扉が静かに開く。
「入って。」
玄関だけでも、北宮家のリビングほど広かった。
磨き上げられた床。
大きなシャンデリア。
高い天井。
「すごい……。」
思わず凪が漏らす。
波は靴を脱ぐことも忘れ、辺りを見回していた。
「お城みたい……。」
「波。」
「あ、ご、ごめん。」
慌てて靴を脱ぐ。
家の中は驚くほど静かだった。
時計の秒針だけが聞こえる。
広い。
綺麗。
生活感もある。
家具も家電も揃っている。
それなのに。
人の気配だけが、不自然なほど薄かった。
「誰も……いないの?」
凪が小さく尋ねる。
「うん。」
「使用人さんとか……。」
「いない。」
「親御さんは?」
「海外。」
「いつ帰るの?」
「分からない。」
短い返事。
それだけで終わる。
その言葉の軽さが、逆に凪の胸を締め付けた。
この家は広い。
広すぎる。
高校生が一人で暮らすには、あまりにも広かった。
だから余計に、孤独が目立つ。
「少し待ってて。」
そう言い残すと、彗は台所へ向かった。
制服の上着を脱ぎ、慣れた手つきでエプロンを身につける。
冷蔵庫を開ける。
野菜を取り出す。
包丁を握る。
その動きに迷いはない。
まるで毎日繰り返しているようだった。
波が小さく呟く。
「……料理するんだ。」
「毎日。」
彗は包丁を動かしながら答える。
「へぇ……。」
「すごい。」
中学生らしい素直な感想だった。
一方、凪の視線はリビングへ向いていた。
壁一面を埋め尽くす本棚。
天井まで届くほど高い。
文学。
歴史。
医学。
心理学。
哲学。
数学。
物理学。
語学辞典。
古典全集。
専門書ばかりが並んでいる。
どれも読み込まれ、付箋や書き込みが残っていた。
飾りではない。
本当に読まれている本だ。
「これ……全部、水平君が読んだの?」
「うん。」
包丁を動かしたまま答える。
「暇だから。」
その一言に凪は息を飲んだ。
暇だから。
そんな理由で読む量ではない。
どれだけ一人の時間を過ごしてきたのだろう。
どれだけ誰とも話さず、本だけを相手にしてきたのだろう。
「すごい……。」
思わず漏れた声だった。
しばらく本棚を眺めていた凪は、エプロン姿の彗へ目を向ける。
野菜を刻む音。
鍋から立ち上る湯気。
手際がいい。
高校生とは思えないほど慣れている。
「私も手伝うよ。」
そう言ってキッチンへ向かおうとする。
しかし。
「大丈夫。」
彗は振り返りもせず答えた。
「でも、一人じゃ大変でしょ?」
「大丈夫だから。」
今度は少しだけ語気が強い。
凪は立ち止まる。
「……どうして?」
彗は包丁を置き、小さく息をついた。
少しだけ考えるように沈黙する。
そして静かに口を開いた。
「北宮さんは、いつも誰かのために動いてる。」
「朝も。」
「学校でも。」
「家でも。」
「病院でも。」
「今日は座って待ってて。」
「人に作ってもらう日があってもいい。」
「休むのも、大事だから。」
その言葉に、凪は何も返せなかった。
誰かに「休んでいい」と言われたのは、いつ以来だっただろう。
母が倒れる前でさえ、そんなことを言われた記憶はない。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……じゃあ、お言葉に甘えるね。」
そう呟くと、凪は静かにソファへ腰を下ろした。
ふかふかのクッションが身体を包む。
思わず力が抜けた。
波も隣へ座る。
しばらく台所から聞こえる包丁の音を聞いていた。
「お姉ちゃん。」
波が小さな声で囁く。
「なに?」
「水平さんって……優しい人なんだね。」
凪は台所で料理をする彗の背中を見つめる。
一人で黙々と料理を続けるその姿は、とても自然で、どこか寂しかった。
「うん。」
小さく頷く。
「優しい人。」
少しだけ間を置いて、優しく微笑んだ。
「……優しすぎる人、なんだよ。」
その言葉を口にした瞬間、凪は気づいてしまう。
助けられているのは、自分だけではない。
この広すぎる家で、一人きりの時間に慣れてしまった少年もまた、誰かに救われることを知らないまま生きてきたのだと。
そして彼は、そのことにさえ気づいていなかった。




