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シングルマザー

凪はしばらく俯いたまま歩いていた。


雨は先ほどよりも弱くなっていたが、空はまだ厚い雲に覆われている。


電柱から落ちる雫が、一定の間隔でアスファルトを叩く。


二人は傘を差したまま、住宅街の細い道を並んで歩いていた。


無理に会話を繋ごうとすることもない。


ただ、同じ速度で歩いているだけだった。


それなのに、凪は不思議と落ち着いていた。


こんな沈黙は初めてだった。


誰かと一緒にいて、気を遣わなくていいと思えたのは。


やがて凪は、小さく息を吸う。


何度か口を開こうとして、閉じる。


迷っているのが伝わってきた。


それでも、隣の少年は急かさない。


「……話すね。」


ようやく絞り出した声は、とても小さかった。


彗は何も言わない。


ただ、その言葉を静かに待った。


「私の家ね。」


「シングルマザーなんだ。」


少しだけ間を置いて続ける。


「それで、妹が一人いるの。」


小学三年生。


人懐っこくて、甘えん坊で、泣き虫な妹。


凪の頭には、朝家を出るときの妹の笑顔が浮かぶ。


「お姉ちゃん、いってらっしゃい!」


そう言って手を振る妹に、自分も笑顔で手を振る。


その笑顔が、本物だった日はいつまでだっただろう。


雨上がりの道に、二人の足音だけが響く。


「でも最近、お母さんが体調を崩しちゃって……。」


凪の声が少し震えた。


「最初は風邪だと思ってたの。」


「でも全然治らなくて。」


「病院で検査したら、そのまま入院になっちゃって……。」


思い出しただけで胸が苦しくなる。


病室で、それでも笑おうとする母の顔。


「大丈夫だから。」


そう言いながら、苦しそうに咳をしていた姿。


本当は全然大丈夫じゃないことくらい、凪にも分かっていた。


「だから今は、家事も妹の世話も、私がやってる。」


「学校が終わったら急いで帰って、ご飯を作って、洗濯して、掃除して……。」


「妹の宿題も見て、お風呂に入れて。」


「夜は病院へ顔を出して。」


「帰ったら明日の準備。」


「寝るのは、だいたい夜中かな。」


淡々と話している。


まるで他人事のように。


きっと何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。


「仕方ない。」


「私がやらなきゃ。」


そうやって。


「妹には心配かけたくないから。」


凪は少しだけ笑った。


けれどその笑顔は、今にも崩れそうだった。


「なるべく笑ってる。」


「お母さんにも、『学校楽しいよ』って言って。」


「本当はそんな余裕ない日もあるのに。」


「妹はまだ小さいから。」


「私まで泣いたら、不安になるでしょ?」


その言葉に彗は何も返さない。


返せなかった。


凪は続ける。


「……でも最近は、お弁当を作る余裕もなくて。」


「朝は妹の準備だけで精一杯。」


「私は水だけ飲んで学校に来る日もある。」


少しだけ照れたように笑う。


「昼休みは、『食欲ないから』って誤魔化してる。」


「友達にはダイエットって言われて。」


「違うよって言えなくて。」


「放課後になると、お腹が鳴るの。」


「でも、それにも慣れちゃった。」


その言葉はあまりにも軽かった。


軽く言わなければ、自分が壊れてしまうから。


「誰にも気付かれてないと思ってた。」


「先生にも。」


「友達にも。」


「クラスのみんなにも。」


「……水平君だけだった。」


その声には、安心と、少しだけ泣きそうな弱さが混じっていた。


彗は何も言わない。


ただ静かに隣を歩き続ける。


その沈黙は、不思議と気まずくはなかった。


励ましの言葉もない。


「頑張ってるね」とも言わない。


「偉いね」とも言わない。


だけど、その沈黙は否定でも無関心でもなかった。


「ちゃんと聞いてる。」


それだけが伝わってきた。


凪は、それだけで十分だった。


しばらく沈黙が続く。


住宅街に二人の足音だけが響く。


信号機の赤い光が、濡れた道路へ揺れて映っていた。


不意に、彗が口を開いた。


「……うち、来る?」


あまりにも突然の言葉だった。


凪は何を言われたのか理解できず、思考が止まる。


「……え?」


「妹さんも一緒に。」


彗は前を向いたまま続ける。


「うち、部屋は余ってるし。」


「親もしばらく帰ってこないから。」


まるで、


「今日は雨が降りそうだね。」


そんな世間話でもするような口調だった。


「え、でも……そんな……。」


凪は慌てて首を横に振る。


「迷惑になるし……。」


「ならないよ。」


彗は即答した。


迷う様子すらない。


「一人でいるのも二人でいるのも、あまり変わらないから。」


その一言に、凪の胸が締め付けられる。


この人は、自分がどれだけ寂しいことを言っているのか分かっていない。


「……水平君のお家は?」


「お父さんやお母さんは?」


「仕事。」


短い返事だった。


「海外にいることが多い。」


「今も?」


「うん。」


「いつ帰ってくるの?」


「分からない。」


あまりにも淡々としていた。


「連絡は?」


「月に一回くらい。」


「寂しく……ないの?」


その問いに、彗は少しだけ考えた。


「昔は。」


ぽつりと呟く。


「でも、慣れた。」


その「慣れた」という一言が、凪には痛かった。


慣れなければ、生きられなかったのだ。


広い家。


誰もいない食卓。


一人分だけ並ぶ夕食。


「おかえり」と言う人もいない。


「ただいま」と返す相手もいない。


そんな毎日を、この少年は当たり前として受け入れてしまった。


「それに。」


彗は少しだけ振り返った。


「北宮さん、一人で全部背負おうとしてる。」


「妹さんも、不安だと思う。」


「だったら、少しだけ休める場所があってもいい。」


凪は目を見開く。


まただ。


自分のことはどうでもいいように振る舞うのに、人の苦しみだけは見逃さない。


「……なんで。」


震える声で尋ねる。


「なんで、そこまでしてくれるの?」


彗は少しだけ考え、それから首を傾げた。


「困ってる人がいたら助ける。」


「それって、そんなに変なこと?」


あまりにも自然な答えだった。


打算もない。


恩を売ろうという気持ちもない。


ただ、本当にそう思っているだけだった。


凪は堪えていた涙をこぼす。


ぽろり、と頬を伝った雫は雨と混ざり、どちらが涙なのか分からなくなる。


「私ね……」


声が震える。


「誰かに『大丈夫?』って聞かれることはあっても……」


「『休んでいいよ』って言われたこと、一度もなかった。」


「みんな、『凪ならできる』って言うの。」


「『しっかりしてるから』って。」


「でも、本当は……」


そこで言葉が詰まる。


何かが胸の奥で音を立てて崩れていく。


「……怖かった。」


「毎日、怖かった。」


「お母さんがこのまま帰ってこなかったらどうしようって。」


「妹をちゃんと育てられなかったらどうしようって。」


「私まで倒れたらどうしようって。」


「でも、泣いちゃ駄目だって思って。」


「私が泣いたら、終わっちゃう気がして……」


堰を切ったように涙があふれる。


肩が小さく震える。


嗚咽を必死に押し殺していた。


彗は何も言わなかった。


慰めもしない。


「大丈夫」と無責任なことも言わない。


ただ、凪が泣き終わるまで、その場で静かに待っていた。


その優しさが、何よりも温かかった。


やがて凪は涙を拭き、小さく笑う。


「……変だね。」


「初めてちゃんと話した相手なのに。」


「こんなに泣いちゃうなんて。」


彗は少しだけ困ったように笑う。


「我慢しなくていい。」


その一言だけだった。


短い言葉。


けれど、その言葉は凪の心の奥深くまで届いた。


この少年は、自分がどれほど傷ついているのか気付かないまま、それでも誰かを救おうとしている。


その優しさが、たまらなく切なかった。


そして凪は、この日初めて思う。


――この人を、一人にしてはいけない。


それは同情ではない。


使命感でもない。


ただ、この雨の日に出会った孤独な少年の隣に、自分はいたいと、心からそう願った。

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