昼放課のお弁当
その日、二人は途中まで帰り道が同じだと知り、並んで歩くことになった。
旧校舎を出る頃には雨は上がっていた。
それでも空はまだ鉛色の雲に覆われ、夕日が差し込む気配はない。
濡れたアスファルトには街路樹の影がぼんやりと映り、水たまりを渡る風が小さな波紋を広げていた。
校門を出る。
いつもなら一人で歩く帰り道。
その日は隣に、人の気配があった。
北宮凪。
少しだけ距離を空けて歩いている。
近すぎるわけでもなく、遠すぎるわけでもない。
お互いに何を話せばいいのか分からず、しばらくは靴音だけが静かな住宅街に響いていた。
濡れた道路を踏む音。
電線に残った雨粒が落ちる音。
どこかの家から漂う夕飯の匂い。
そのどれもが、妙に鮮明に感じられる。
凪は何度も彗の横顔を盗み見た。
頬には薄く青あざが残っている。
口元も少し切れていた。
歩くたびに痛むはずなのに、本人は何事もないような表情で前を向いている。
それが余計に胸を締め付けた。
(何か話さないと。)
そう思う。
でも何を話せばいいのか分からない。
「痛くない?」
そんなことを聞いても、「平気」と返されるだけだろう。
「ごめんね。」
それも違う気がした。
謝るたび、この人は困ったように笑うから。
沈黙に耐えきれなくなったのは、凪の方だった。
「あの……。」
声を掛けるだけで緊張する。
「……水平くんのお父さんとお母さんは、何も言わないの?」
恐る恐る尋ねる。
彗は少しだけ考える素振りを見せ、それから当たり前のことを話すように答えた。
「うちの親は放任主義だから。」
「学校のことには干渉してこないよ。」
「怪我をして帰っても?」
「うん。」
「転んだって言えば、それで終わり。」
「心配はしてくれるけど、詳しく聞いたりはしない。」
「そういう家だから。」
その言い方は淡々としていた。
そこに寂しさも怒りも感じられない。
本当に、それが普通だと思っているようだった。
凪は思わず俯く。
(それって、本当に普通なの……?)
自分の家は決して恵まれているとは言えない。
それでも母は毎日、「行ってらっしゃい」と送り出してくれる。
疲れて帰れば「おかえり」と言ってくれる。
お金はなくても、心配だけはしてくれる。
だからこそ、彗の言葉が胸に引っかかった。
誰にも頼らず。
誰にも甘えず。
誰にも助けを求めず。
そんな生き方を、ずっと一人で続けてきたのだろうか。
「そんなことより。」
不意に彗が口を開いた。
「北宮さんの方が、家のことは大変そうだけど。」
凪の思考が止まる。
心臓が大きく脈打った。
「……え?」
「……なんで、分かるの?」
ようやく絞り出した声は震えていた。
彗は首を傾げる。
「見てたら分かるよ。」
あまりにも自然な返事だった。
「北宮さん、昼休みはほとんどお弁当を食べてない。」
「毎日『食欲がない』って言ってるけど、本当は違う。」
「お腹が鳴ってる日もある。」
凪は息を呑む。
そんなことまで気付いていたのか。
「それに、制服も去年のままだよね。」
「袖が少し短くなってる。」
「スカートも裾を下ろした跡がある。」
「靴も何度も補修してある。」
「鞄の持ち手も縫い直してあるし。」
「筆箱も角が擦り切れてる。」
一つ。
また一つ。
誰にも気付かれなかったことを、彗は静かに口にしていく。
凪の足が止まる。
誰にも気付かれないように隠してきたことばかりだった。
友達にも。
先生にも。
親戚にも。
笑っていれば分からない。
誤魔化せる。
そう思っていた。
「家で……何かあったのかなって。」
彗はそう言って歩き続ける。
まるで特別なことを言ったつもりはないように。
凪だけが、その場に立ち尽くしていた。
風が吹く。
濡れた葉が揺れ、小さな水滴が肩へ落ちた。
「……うちはね。」
凪はゆっくり口を開いた。
「お父さんが三年前に家を出ていったの。」
彗は何も言わない。
ただ静かに耳を傾ける。
「借金も残して。」
「今は、お母さんが昼も夜も働いてる。」
「だから私も、できるだけお金を使わないようにしてる。」
少し笑おうとする。
けれど、うまく笑えなかった。
「制服も我慢すれば着られるし。」
「お弁当も……。」
言葉が止まる。
本当は言いたくなかった。
誰にも知られたくなかった。
でも。
この人には隠せない気がした。
「お母さんに負担をかけたくなくて。」
「朝は『食欲ない』って言って、お弁当を断る日もあるの。」
「本当は、お腹空いてるんだけどね。」
自嘲するように笑う。
「変でしょ。」
「全然。」
彗はすぐに答えた。
「優しいんだね。」
「優しいなんて。」
凪は首を横に振る。
「違うよ。」
「本当は、お母さんに心配かけたくないだけ。」
「私まで困った顔をしたら、お母さんもっと苦しそうになるから。」
「だから笑うの。」
「大丈夫って言うの。」
「そうすれば、お母さんも少しだけ安心するから。」
話し終える頃には、目尻に涙が浮かんでいた。
「でも。」
凪は小さく笑う。
「水平くんには全部バレちゃった。」
彗は困ったように頬を掻いた。
「ごめん。」
「違う。」
凪は首を振る。
「謝らないで。」
「……少しだけ。」
涙を拭いながら笑う。
「少しだけ嬉しかった。」
「え?」
「初めてだったから。」
「私のこと、ちゃんと見てくれた人。」
その言葉に、彗は少し驚いたような顔をした。
「みんなね。」
凪は空を見上げる。
「私の笑ってるところしか見ないの。」
「『北宮さんって明るいよね』とか。」
「『いつも元気だね』とか。」
「そう言われるたびに、ちゃんと笑わなきゃって思ってた。」
「でも水平くんは。」
彗を見る。
「笑顔の奥まで見てた。」
「そんな人、初めて。」
しばらく沈黙が続く。
二人はまた歩き始めた。
住宅街を抜けると、小さな公園が見えてくる。
ブランコが風に揺れ、きい、と小さな音を立てた。
「水平くん。」
「うん。」
「一つだけ約束して。」
「何?」
凪は少しだけ照れたように笑う。
「一人で我慢しないで。」
彗は少し考え、それから穏やかに微笑んだ。
「努力する。」
「努力じゃ駄目。」
凪は珍しく頬を膨らませる。
「約束。」
子どものような言い方に、彗は思わず小さく笑った。
「……分かった。」
「約束。」
その一言を聞いて、凪もようやく笑顔になった。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
二人は再び歩き始める。
やがて交差点に差しかかった。
「私、こっちだから。」
「そっか。」
短いやり取り。
それなのに別れるのが少しだけ寂しいと思った。
「また明日。」
凪がそう言うと、彗は静かに頷いた。
「また明日。」
その言葉を交わして別れる。
凪は歩き出した彗の背中を見つめ続けた。
この少年は、自分が傷つくことにはあまりにも無関心だ。
なのに。
他人の痛みだけは、誰よりも繊細に見えてしまう。
きっと、それは優しさだけではない。
誰よりも痛みを知っているからこそ、気付いてしまうのだ。
胸の奥が熱くなる。
(この人を、一人にしてはいけない。)
誰かが支えなければ、この人はきっと、自分の痛みさえ忘れたまま壊れてしまう。
だから。
今度は自分が隣を歩こう。
笑えない日は、一緒に空を見上げよう。
雨の日は、同じ傘に入ろう。
それがどれほど小さなことでもいい。
そう心に決めたとき、厚い雲の切れ間から、ほんの少しだけ淡い夕暮れの光が街を照らした。




