自傷行為
その日も、放課後に呼び出された。
チャイムが鳴り終わる頃には、彗はもう席を立っていた。
誰にも呼ばれていない。
それでも足は自然と旧校舎へ向かう。
断ればもっと面倒になる。
逃げれば追いかけられる。
先生に言っても変わらない。
それを何度も経験してきた。
だから今日も、静かに歩く。
窓の外では雨が降り続いている。
梅雨特有の湿った空気が廊下を満たし、人気のない旧校舎は昼間だというのに薄暗かった。
軋む床板。
剥がれかけた壁紙。
割れた窓から吹き込む冷たい風。
そこは学校でありながら、誰からも忘れられた場所だった。
教室の扉を開ける。
「来たか。」
野原司が笑う。
その周りには茅野をはじめ、いつもの数人がいた。
「相変わらず律儀だな。」
「呼べば来るんだから楽だよな。」
「犬より従順じゃね?」
笑い声が響く。
彗は何も答えない。
ただ静かに立っていた。
「今日も始めようぜ。」
拳が飛ぶ。
頬に衝撃が走る。
身体が壁へ叩きつけられる。
腹を蹴られ、息が詰まる。
それでも彗は倒れなかった。
抵抗もしない。
睨み返しもしない。
「つまんねえ。」
野原は舌打ちする。
「少しは怒れよ。」
「反抗しろって。」
「お前、本当に人形みたいだな。」
返事はない。
それが余計に腹立たしいのか、拳の数だけが増えていく。
鈍い音が教室に響く。
雨音と混ざり合い、旧校舎の静寂を壊していく。
やがて彼らは疲れたように息を吐いた。
「もういいか。」
「今日はこれくらいにしといてやる。」
「じゃあな。」
笑いながら教室を出ていく。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
そして静寂だけが残った。
──いつもなら、それで終わりだった。
「……やっぱり、おかしいよ。」
震えるような小さな声。
彗はゆっくり振り返る。
教室の後ろ。
壊れた窓から差し込む灰色の光の中に、北宮凪が立っていた。
制服は雨で少し濡れている。
息も少し乱れていた。
ここまで走ってきたのだろう。
その瞳は涙で潤み、今にも泣き出しそうだった。
けれどその涙は、自分のためではない。
目の前にいる少年のための涙だった。
その苦しそうな表情は、殴られた彗よりもずっと痛そうに見えた。
「北宮さんも変わってるね。」
彗は何事もなかったように制服についた埃を払う。
乱れた髪を整え、袖を伸ばす。
まるで転んで少し汚れただけのようだった。
「あの人たち、もう帰ったよ。」
穏やかな口調だった。
「だから危なくない。」
「……そんなことじゃない。」
凪は小さく首を振る。
「どうして……そんなこと言えるの?」
声が震えている。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
自分でも分からない。
彗は少し考えるように目を伏せた。
雨音だけが教室を満たしている。
しばらくしてから、ゆっくり口を開いた。
「どうにもならない状況に、自分から首を突っ込んで。」
「勝手に傷ついて。」
「勝手に苦しむ。」
「北宮さん、今そうしてる。」
その声には皮肉も怒りもない。
責めているわけでもない。
ただ静かに事実を並べているだけだった。
「北宮さんは優しい。」
「でも、その優しさは自分を傷つけるだけだ。」
凪は息を呑む。
まただ。
昨日もそうだった。
この人は自分のことになると何も見えない。
なのに、人の心だけは驚くほどよく見えている。
「それは、自傷行為と一緒だ。」
その一言に、凪は目を見開いた。
「違う!」
思わず叫ぶ。
教室中に声が響く。
「私は水平君を助けたいだけ!」
「苦しそうだから!」
「一人だから!」
「見ていられないから!」
言葉が溢れる。
涙も一緒に溢れる。
「昨日からずっと考えてた!」
「どうしたら助けられるのか。」
「どうしたら笑ってくれるのか。」
「どうしたらもう殴られなくなるのか。」
「なのに……。」
声が詰まる。
「何もできない。」
拳を強く握る。
「怖いの。」
「止めたいのに足が動かない。」
「声を出したいのに喉が震える。」
「そんな自分が嫌で……。」
涙が頬を伝う。
「助けたいなら。」
彗は静かに言った。
「まずは、自分を傷つけない方法を覚えた方がいい。」
「え……?」
「誰かを助けようとして、自分まで壊れたら意味がない。」
「人は案外、簡単に壊れる。」
「心も。」
「体も。」
「だから、自分を守ることを覚えないと。」
凪は返す言葉を失う。
目の前の少年は、自分が毎日のように傷つけられている。
それなのに、心配しているのは自分の方だった。
「どうして……。」
凪は涙を拭きながら尋ねる。
「どうしてそこまで、人のことばかり考えるの?」
彗は少し困ったように笑った。
「考えてるのかな。」
「え?」
「分からない。」
「昔から、人の表情を見るのが癖なんだ。」
「嬉しい人。」
「怒ってる人。」
「寂しい人。」
「苦しい人。」
「見れば何となく分かる。」
「だから放っておけないだけ。」
「じゃあ!」
凪は一歩前へ踏み出す。
「水平君は?」
「……。」
「水平君は誰が放っておけないの?」
その質問に、彗は初めて黙った。
静かな沈黙。
雨が窓枠を叩く音だけが聞こえる。
やがて彗は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「俺は。」
短く息を吐く。
「もう慣れてるから。」
その言葉は、あまりにも静かだった。
まるで何百回も自分に言い聞かせてきた言葉のように。
「慣れるわけない!」
凪は叫んだ。
「殴られることに!」
「馬鹿にされることに!」
「苦しいことに!」
「そんなの慣れちゃ駄目なんだよ!」
その叫びに、彗は驚いたように目を瞬かせる。
凪は涙を流したまま続けた。
「水平君は、自分のことだけ諦めてる。」
「でも、私は諦めない。」
「水平君が平気って言っても。」
「笑ってても。」
「私は平気だなんて思わない。」
「だから……。」
一歩。
また一歩。
彗との距離を縮める。
「私にできることを探す。」
「怖くても。」
「失敗しても。」
「少しずつでも。」
「私はもう、見てるだけじゃ嫌だから。」
壊れた窓から風が吹き込む。
雨粒が床に落ち、小さな水たまりを作っていた。
彗はその水面をしばらく見つめる。
そこに映る自分の姿は、どこか他人のようだった。
「……困ったな。」
ぽつりと呟く。
「え?」
「北宮さんみたいな人がいると。」
「諦めたままでいられなくなる。」
その言葉に、凪は息を止めた。
彗は少しだけ照れくさそうに笑う。
ほんのわずかだった。
けれど今まで見せたどんな笑顔よりも自然で、温かかった。
その笑顔を見た瞬間、凪は思う。
この人は、本当は誰よりも優しい。
だから自分の痛みを後回しにしてしまう。
ならば、その優しさを守れる人になりたい。
雨はまだ止まない。
灰色の空は変わらない。
けれど二人の間には、昨日までとは違う何かが確かに生まれていた。
それはまだ名前もついていない、小さな信頼だった。




