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"平気"とは

翌日。


昨夜から降り続いた雨は、朝になっても止む気配がなかった。


窓ガラスを伝う雨粒は幾筋もの線を描き、校舎全体を灰色の膜で包み込んでいる。


傘を閉じる音。


濡れた靴が廊下を歩く音。


湿った制服の匂い。


教室には、梅雨独特の重たい空気が漂っていた。


ガラリ、と教室の扉が開く。


水平彗が静かに教室へ入ってきた。


制服はきちんと整えられている。


昨日の泥も血も残っていない。


頬にできた青あざだけが、何事もなかったという嘘を否定していた。


その姿を見つけた誰かが、鼻で笑う。


「あ、今日も懲りずに来たんだ。水平くん。」


教室のあちこちから、くすくすという笑い声が広がる。


「昨日あれだけやられたのにな。」


「普通休むだろ。」


「ほんと鈍感だよね。」


「いや、慣れてるんじゃない?」


その言葉に、さらに笑いが重なる。


誰も止めようとはしない。


止める理由もないと思っている。


あるいは、自分が標的になることを恐れている。


彗は何も言わなかった。


表情一つ変えず、自分の席まで歩いていく。


椅子を引き、静かに腰を下ろす。


教科書を机に置き、窓の外へ視線を向けた。


まるで今の出来事など最初から存在しなかったかのようだった。


その様子を、教室の隅から北宮凪は見つめていた。


昨日の雨の中で交わした会話が、何度も頭の中を巡る。


「自分を大事にした方がいい。」


あの優しい声。


傷だらけだったのに、自分のことを心配してくれた少年。


どうして。


どうしてそんな人が、こんな目に遭わなければならないのだろう。


凪は唇を強く噛んだ。


拳をぎゅっと握り締める。


止めたい。


何か言いたい。


「もうやめて」と叫びたい。


けれど、声が出ない。


喉の奥で言葉が凍りついてしまう。


もし自分が口を出したら。


次は自分が標的になる。


そんな考えが頭をよぎるたび、自分自身が嫌になった。


(最低……。)


心の中で何度も呟く。


それでも足は動かなかった。


午前中の授業は、あっという間に過ぎていった。


先生は黒板に数式を書き、生徒はノートを取る。


笑い声も、雑談も、いつも通り。


教室だけが異常であることを、誰も口にしない。


昼休み。


チャイムが鳴ると同時に、生徒たちは一斉に立ち上がる。


購買へ向かう者。


友人同士で机を寄せ合う者。


賑やかな笑い声が教室を満たす。


彗は静かに席を立った。


いつものように、一人で教室を出ようとした、その瞬間だった。


「あ、ごめんねー。」


軽薄な声。


次の瞬間、肩に強い衝撃が走る。


ぐらり、と体が傾いた。


避けることもできず、そのまま机の角へぶつかる。


鈍い音が教室に響いた。


教科書が床へ散らばる。


教室は一瞬静まり返り――すぐに笑い声が弾けた。


「ははは!」


「マジで転んでる!」


「ドジじゃん!」


押したのは野原司。


背が高く、運動部に所属し、教師からの評価も悪くない。


だから誰も逆らわない。


彼は笑いながら肩をすくめる。


「いやー、本当に悪い悪い。」


その声に反省の色はない。


「勝手に転んだだけだろ?」


取り巻きが笑う。


「そうそう。」


「野原悪くないって。」


「水平が弱すぎるだけ。」


教室中が笑いに包まれる。


彗はゆっくり立ち上がった。


散らばった教科書を一冊ずつ拾う。


折れたページを指で整える。


制服についた埃を払う。


誰も見ない。


誰も拾わない。


誰も謝らない。


それでも彗は何事もなかったように教室を後にした。


その背中を見て、凪は思わず立ち上がる。


「……!」


何か言わなければ。


そう思った。


けれど野原たちの笑い声が耳に残る。


足が震える。


怖い。


怖くて仕方ない。


それでも。


昨日の言葉が胸の中で響いた。


「無理して笑ってる。」


「そんな人が、どうして俺なんかを気にするの?」


凪は机を強く握り締めた。


(今度も見てるだけなの……?)


その問いに、自分自身が答えられなかった。


数秒後。


彼女は小さく息を吸うと、教室を飛び出した。


廊下には誰もいない。


窓ガラスに打ち付ける雨音だけが響いている。


階段を駆け上がる。


屋上へ続く重たい扉を押し開けると、湿った風が頬を撫でた。


屋上。


ここだけは好きだった。


誰も来ない。


誰にも話しかけられない。


空が近い。


フェンスの向こうには街並みが広がり、その先には灰色の空がどこまでも続いている。


閉じ込められている感覚もない。


雨雲に覆われた景色でさえ、教室よりずっと自由に思えた。


彗はフェンスにもたれ、静かに空を見上げていた。


細かな雨粒が頬を濡らしていく。


その姿は、まるで景色の一部になってしまったようだった。


「ねえ……なんで。」


後ろから息を切らした声が聞こえる。


振り返ると、凪が立っていた。


肩で息をしながら、真っ直ぐ彗を見つめている。


その瞳には戸惑いだけではない。


怒り。


悲しみ。


悔しさ。


様々な感情が入り混じっていた。


「どうして平気なの?」


問い詰めるような声だった。


「野原君も、茅野君も……」


彗は空を見上げたまま呟く。


「みんな辛いからかな。」


凪は言葉を失う。


予想もしない答えだった。


「彼らも苦しいんだよ。」


「家のことかもしれない。」


「勉強かもしれない。」


「将来が不安なのかもしれない。」


「ただ、ストレスの発散の仕方が下手なだけ。」


雨粒がフェンスを静かに叩く。


一定のリズムで響くその音だけが、二人の間を流れていた。


「だからって!」


凪は思わず声を荒げる。


「だからって、水平君が苦しむ理由にはならない!」


「誰かが辛いからって、人を傷つけていい理由なんてない!」


「そんなの絶対に違う!」


声が震える。


涙が滲む。


彗はゆっくりと凪を見る。


怒られているはずなのに、その表情はどこまでも穏やかだった。


「俺は大丈夫。」


静かな声だった。


「俺は発散の仕方が上手いから。」


「……どういうこと?」


凪が問い返す。


彗は少しだけ空を見上げ、微かに笑った。


「空を見ること。」


「風に当たること。」


「雨の音を聞くこと。」


「季節の匂いを感じること。」


「夕焼けを見ること。」


「夜に星を探すこと。」


「それだけで十分だから。」


「心の中に溜まったものは、自然が少しずつ持っていってくれる。」


「だから、俺は平気。」


その笑顔は穏やかだった。


優しくて、静かで、どこまでも柔らかい。


けれど凪には、その笑顔が何よりも痛々しく見えた。


まるで、自分の痛みを誰にも見せないために覚えた笑顔のようだった。


「……そんなの。」


凪の瞳から涙が溢れる。


「平気なんかじゃないよ……。」


「本当に平気な人は、そんなこと言わない……。」


「痛いなら痛いって言っていいんだよ……。」


「苦しいなら苦しいって叫んでいいんだよ……。」


涙が頬を伝う。


雨と混ざり、どちらが涙なのか分からなくなる。


彗は少し驚いたように目を丸くした。


泣いているのは自分ではない。


自分のために泣いてくれる人が、この世界にいる。


その事実だけが、不思議だった。


風が吹く。


雨が二人の間を静かに通り過ぎていく。


彗は小さく微笑み、空を見上げた。


「ありがとう。」


その一言はあまりにも静かで、雨音に溶けそうなほど小さかった。


けれど凪には、はっきりと聞こえた。


その日、凪は初めて決意する。


もう見ているだけでは終わらない。


たとえ怖くても。


たとえ自分が傷つくことになっても。


今度こそ、この優しい少年を一人にはしないと。


雨はまだ止まない。


けれど、灰色の空の向こうには、きっと青空がある。


凪は初めて、そう信じたいと思った。

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