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梅雨は好きになれない

梅雨は好きになれない。


空はどこまでも灰色で、世界から色を奪ってしまったように見える。


降り続く雨は、泣いている人間の涙さえ隠してしまう。


だからだろうか。


誰かが傷ついていても、誰も気付かない。


いや――気付いていても、見ないふりをする。


そんな季節だった。


放課後。


チャイムが鳴り終わるより少し早く、水平彗は静かに席を立った。


誰かに呼ばれたわけでもない。


けれど、行かなければならない場所があった。


旧校舎。


人気のない廊下。


割れた窓から吹き込む湿った風。


雨漏りで黒ずんだ天井。


そこは教師の目も届かず、生徒もほとんど近寄らない場所だった。


「来たな。」


壁にもたれかかっていた男子生徒が笑う。


その声を合図に、数人が彗を取り囲んだ。


「今日は逃げなかったじゃん。」


「どうせ逃げても無駄だろ。」


「ほら、始めようぜ。」


いつからだっただろう。


最初は些細なことだった。


無口だから。


気味が悪いから。


空気を読まないから。


理由は毎回違った。


だからこそ、理由など最初から必要なかったのだと彗は知っていた。


彼らは彗に飽きるまで拳を振るい、喉が渇くまで罵声を浴びせる。


腹を蹴られ、壁に叩きつけられ、制服の襟を掴まれて殴られる。


乾いた音が旧校舎に響く。


「反抗しろよ。」


「つまんねえな。」


「泣けよ。」


「……。」


彗は何も言わなかった。


痛くないわけではない。


血も流れる。


息も苦しい。


けれど、抵抗すればもっと長引く。


言い返せば相手は面白がる。


それを知っていた。


だからただ立っている。


まるで雨に打たれる木のように。


やがて彼らは満足したように笑った。


「今日はこの辺でいいか。」


「じゃあな。」


「また明日。」


何事もなかったように去っていく背中を、彗はただ見送る。


謝る者はいない。


罪悪感を抱く者もいない。


彼らにとっては遊びなのだ。


日常なのだ。


彗にとっても、それはもう日常だった。


旧校舎を出ると、冷たい雨が頬を打った。


制服は泥で汚れ、シャツは裂け、頬から流れた血は雨に薄められてアスファルトへと消えていく。


雨は便利だ。


血も涙も洗い流してくれる。


だから誰にも気付かれない。


彗は傘を差さずに歩き始めた。


帰り道。


人通りは少ない。


皆、雨を避けるように足早に駅へ向かっている。


その流れに逆らうように、彗だけがゆっくり歩いていた。


背後から、小さな声が聞こえた。


「あ、あの……」


彗は振り返らずに歩き続ける。


雨音にかき消されそうなその声は、追いかけるたびに少しずつ大きくなり、それとは反対に自信だけが失われていった。


「水平君……だよね。」


ようやく足を止める。


静かに振り返ると、そこに立っていたのはクラスメイトの北宮凪だった。


肩まで伸びた黒髪は雨に濡れ、制服も少し湿っている。


胸元では、小さく握った両手が震えていた。


今日初めて、あの放課後の”いつもの光景”に加わっていた少女。


輪の外側で立ち尽くし、笑うことも、止めることもできず、ただ怯えたような顔をしていたことを、ぼんやりと思い出す。


「あの……その……」


凪は何度も口を開いては閉じる。


何を言えばいいのか分からない。


そんな様子だった。


「さっきは……ごめんね。」


消え入りそうな声。


雨に溶けてしまいそうなほど弱々しい謝罪だった。


「なんで?」


彗は首を傾げる。


責めるような口調ではない。


怒っているわけでもない。


本当に意味が分からないという表情だった。


謝る理由は分かる。


止められなかったこと。


見ていただけだったこと。


きっとそれを悔いているのだろう。


けれど、それをわざわざ自分に伝えに来る意味が理解できなかった。


「だって……その怪我……私も止められなかったし……。」


凪はバッグを開き、小さな救急セットを取り出した。


家を出る前に母親が持たせてくれたものだった。


「これ、使って……。」


消毒液。


ガーゼ。


包帯。


絆創膏。


どれも新品だった。


彗はそれを少しだけ見つめる。


「北宮さん、だよね。」


「あ……う、うん。」


突然名前を呼ばれ、凪は肩を震わせた。


「北宮さんも辛いのに、なんで人の心配をするの?」


「……え?」


思わず聞き返す。


その言葉は予想していたものとはあまりにも違っていた。


責められると思っていた。


怒鳴られると思っていた。


「偽善者」だと言われても仕方ないと覚悟していた。


なのに。


彗の瞳には怒りも恨みもなかった。


ただ静かな湖のような目で、自分を見つめている。


「ずっと無理して笑ってる。」


「……。」


「みんなに合わせて、本当は嫌なのに嫌って言えない。」


凪の呼吸が止まる。


「笑わないと嫌われるって思ってる。」


「期待を裏切ったら、一人になるって怖がってる。」


「だから、自分の気持ちをずっと後回しにしてる。」


「そんな人が、どうして俺なんかを気にするの?」


凪の表情が凍りついた。


誰にも言ったことがない。


家族にも。


友達にも。


先生にも。


ずっと隠してきた。


笑顔を作れば大丈夫。


空気を読めば嫌われない。


そうやって生きてきた。


その仮面を、初めて会話をしたと言ってもいい少年が、あまりにも簡単に見抜いてしまった。


「……どうして。」


声が震える。


「どうして分かるの?」


彗は少しだけ空を見上げた。


灰色の雲から、絶え間なく雨が落ちてくる。


「目。」


「え?」


「人は言葉より先に目が泣く。」


「笑ってても分かる。」


「助けてって言ってる目をしてた。」


凪は何も言えなかった。


そんなことを言われたのは初めてだった。


誰も見ていないと思っていた。


見られないように生きてきた。


それなのに。


「俺より、自分を大事にした方がいい。」


彗は穏やかに微笑む。


傷だらけの顔なのに、その笑みだけは不思議と優しかった。


「無理して優しくすると、そのうち壊れる。」


「人を助ける前に、自分が沈んじゃ意味がない。」


「だから……自分を嫌いにならないで。」


その一言が、凪の胸の奥へ静かに落ちた。


涙が出そうになる。


けれど泣いてはいけない。


泣けば困らせてしまう。


そう思った瞬間。


「ほら。」


彗は自分の制服の袖で、凪の頬をそっと指差した。


「泣きたいなら我慢しなくていい。」


「……。」


「今日は雨だから。」


「誰にも分からないよ。」


その言葉を聞いた瞬間、凪の瞳から一粒の涙がこぼれた。


雨粒と混ざり、頬を伝って落ちていく。


それが雨なのか涙なのか、もう誰にも分からなかった。


彗は何事もなかったように歩き出す。


呼び止めることはしない。


振り返ることもしない。


ただ静かに、雨の向こうへ消えていく。


残された凪は、包帯を握り締めたまま立ち尽くしていた。


自分を心配されたのは――いつ以来だったのだろう。


思い出せない。


いや。


もしかすると、生まれて初めてだったのかもしれない。


降り続く梅雨の雨は冷たい。


それなのに、胸の奥だけが不思議なくらい温かかった。


凪は去っていく彗の背中を見つめながら、小さく呟く。


「……また、話したい。」


その願いは雨音に溶け、誰にも届かなかった。


けれどその日、二人の運命は確かに、静かに動き始めていた。

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