約束
深夜一時。
家の中は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。
リビングの時計だけが、規則正しく秒針を刻む音を響かせている。
窓の外では街灯が淡く住宅街を照らし、遠くを走る車の音が時折風に乗って聞こえてくるだけだった。
客室では、波が穏やかな寝息を立てて眠っていた。
昼間は不安そうに何度も姉の姿を探していた少女も、久しぶりに安心できる場所を見つけたのだろう。
柔らかな毛布を胸元まで掛け、小さな身体を丸めるようにして眠っている。
寝顔は年相応に幼く、無邪気だった。
その様子を見届けた彗は、静かに部屋の明かりを落とし、自室へ戻った。
本を開いていたものの、一文字も頭には入らない。
今日一日の出来事が、何度も頭の中を巡っていた。
母親の突然の入院。
途方に暮れていた姉妹。
そして、泣きながら何度も「ごめんなさい」と繰り返していた凪の姿。
――少しでも眠れればいい。
そんなことを考えながら本を閉じた、その時だった。
コンコン。
静かな廊下に、小さなノックの音が響く。
「水平君……ちょっといいかな。」
扉越しの声は、遠慮がちだった。
彗は椅子から立ち上がり、静かにドアを開ける。
「あぁ。」
そこには部屋着に着替えた凪が立っていた。
髪は軽く結び直されているが、どこか落ち着かない様子で指先を握りしめている。
「こんな夜遅くに、ごめんね。」
申し訳なさそうに頭を下げる。
彗は小さく首を横に振った。
「眠れないの?」
その一言に、凪は少し目を丸くする。
「……え?」
「どうして分かったの?」
彗は少しだけ考えてから答えた。
「夕食の時から、ずっと肩に力が入ってた。」
「波ちゃんを寝かせたあとも、部屋を何度も出たり入ったりしてた。」
「眠れない人の動きだったから。」
凪は苦笑する。
「見られてたんだ。」
「見ようとしてたわけじゃない。」
「音が聞こえたから。」
本当にそれだけなのだろう。
彗は特別なことを言っているつもりはない。
その自然さが、凪には少し不思議だった。
「……少しね。」
凪は小さく頷く。
「眠れなくて。」
「考え事?」
「うん。」
短く答える。
彗は部屋へ入るよう促した。
「立ったままだと寒い。」
「入って。」
「……ありがとう。」
凪は遠慮がちに部屋へ入る。
本棚には数学書や専門書が整然と並び、机の上にはノートと万年筆が置かれていた。
余計なものは何一つない。
生活感はあるのに、不思議なほど静かな部屋だった。
彗は電気ケトルに水を入れる。
「温かいお茶でいい?」
「うん。」
やがて湯気の立つ湯飲みが二つ並ぶ。
湯気がゆっくりと立ち上り、少しだけ部屋の空気を柔らかくした。
凪は湯飲みを両手で包み込む。
その温もりが、冷え切っていた指先へ少しずつ伝わっていく。
しばらく沈黙が続いた。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
やがて凪は意を決したように口を開く。
「私の家ね。」
その声は静かだった。
「もうガス、止まってるんだ。」
言葉を選ぶように、一つずつ話していく。
「水道も……あと少しで止められちゃう。」
「家賃もギリギリ。」
「お母さんの入院費もあるし……。」
そこで一度言葉が途切れる。
けれど、一度口にしてしまうと、胸の奥に押し込めていたものが堰を切ったように溢れ出した。
「波には『大丈夫』って言ってる。」
「笑って、大丈夫だからって。」
「でも、本当は全然大丈夫じゃない。」
「毎日、お金のことばっかり考えて。」
「学校にいても、授業なんて頭に入らなくて。」
「帰ったら何を食べさせようとか。」
「今月はどうやって払おうとか。」
「病院から電話が来たらどうしようとか。」
「そんなことばっかり。」
凪は俯いた。
「夜になると考えちゃうの。」
「もし、お母さんに何かあったら。」
「もし私が働かなきゃいけなくなったら。」
「もし波が学校へ行けなくなったら。」
「そんな”もし”ばっかり浮かんできて。」
「怖くて。」
「眠れないの。」
笑おうとした。
けれど、その笑顔は最後まで形にならなかった。
涙が滲みそうになるのを必死に堪えている。
「なのに、水平君は……。」
「こんな大きな家で、一人で暮らして。」
「料理もできて。」
「掃除も洗濯も。」
「全部ちゃんとしてて。」
「何でも一人でできちゃう。」
少し羨ましそうに笑う。
「……すごいよ。」
彗はすぐには答えなかった。
静かに窓の外を見つめる。
夜空には雲の切れ間から星がいくつか顔を覗かせていた。
「すごくないよ。」
ようやく口を開く。
「できるようになっただけ。」
それだけだった。
「一人でいる時間が長いと。」
「誰も代わりにやってくれない。」
「だから。」
「覚えるしかなかった。」
その横顔には、どこか諦めにも似た静けさがあった。
凪はその表情を見て、初めて理解する。
この人は恵まれて育ったわけではない。
誰かに守られ続けてきた人でもない。
守ってくれる人がいなかったから、自分で生きられるようになっただけなのだ。
その事実が、胸に痛いほど伝わってくる。
「だから……水平君。」
凪はゆっくり顔を上げた。
「ちゃんと、お礼をしないといけないと思って。」
「今日、ご飯を作ってくれて。」
「泊めてくれて。」
「波にも優しくしてくれて。」
「私にも、ずっと優しくしてくれて。」
「こんなに誰かに助けてもらったの。」
「初めてだから……。」
声が震える。
「でも私。」
「何も返せない。」
「返せるものなんて、何もない。」
「それが悔しくて。」
「情けなくて。」
「申し訳なくて……。」
とうとう涙が零れ落ちた。
彗は静かに凪を見つめる。
「北宮さん──。」
そう呼びかけて、一瞬だけ言葉を止める。
そして、小さく微笑んだ。
「……いや。」
「凪。」
初めて名前で呼ばれた。
その二文字だけで、凪の心臓が大きく鳴る。
「今は。」
「自分が幸せになることを考えて。」
「お礼は、そのあとでいい。」
穏やかな声だった。
押しつけでも励ましでもない。
ただ、静かに寄り添うような声。
「でも……。」
「私、本当に返せなくて……。」
「返さなくていい。」
彗は首を横に振る。
「誰かを助けた見返りなんて。」
「最初から求めてないから。」
「それより。」
「凪が笑えるようになる方が大事。」
その一言で、凪の胸に張りつめていた糸がぷつりと切れた。
涙が一筋。
そして二筋。
頬を静かに伝っていく。
「……なんで。」
嗚咽を堪えながら尋ねる。
「なんで、そこまで優しくできるの?」
彗は少しだけ考え、それから困ったように笑った。
「優しくしてるつもりはないよ。」
「困っている人がいたから。」
「手を差し伸べただけ。」
「もし逆だったら。」
「誰かが俺にもそうしてくれたら、嬉しいと思うから。」
その言葉には飾りがなかった。
だからこそ、真っ直ぐ胸へ届く。
凪は思う。
この人は、自分がどれほど寂しい思いをしてきたのかを語ろうとしない。
辛かったことも、苦しかったことも、誰にも押しつけない。
だから人を助けることも、ごく自然なこととして受け止めている。
きっと、この人は誰よりも孤独を知っている。
だからこそ、誰かを一人にしないのだ。
凪は涙を拭い、小さく笑った。
さっきまでの無理に作った笑顔ではない。
少しだけ力の抜けた、心からの笑顔だった。
「……ありがとう。」
今度の「ありがとう」は、借りを返すための言葉ではなかった。
誰かの優しさを、素直に受け取ることができた証だった。
彗もまた、小さく頷く。
「おやすみ。」
「うん。」
凪は部屋を出る直前、一度だけ振り返る。
「……おやすみ、彗君。」
初めて名前で呼んだその声は、少し照れくさそうで、それでもどこか嬉しそうだった。
彗はほんの少し目を丸くしたあと、穏やかに笑う。
「おやすみ、凪。」
扉が静かに閉まる。
廊下には再び静寂が戻った。
けれど、その静けさは先ほどまでとは違っていた。
二人の心に、確かな温もりが灯った夜だった。




