クレーンゲーム
気がつけば、約束の土曜日になっていた。
朝から空はよく晴れ、雲一つない青空が広がっている。
窓を開けると、夏らしい暖かな風が部屋へ流れ込み、遠くから子どもたちの元気な声が聞こえてきた。
今日は三人で初めて出掛ける日だった。
朝早くから波は落ち着かず、何度も時計を見ては玄関へ向かっている。
「まだ?」
「あと何分?」
「もう行ける?」
そんな質問を、この一時間で十回以上は繰り返していた。
「波、まだ八時だよ。」
凪が苦笑しながら髪を整えてやる。
「待ち合わせは九時半でしょ?」
「でも早く行きたい!」
「気持ちは分かるけど。」
「お兄さんも準備があるんだから。」
するとちょうど玄関の扉が開いた。
「おはよう。」
彗だった。
白いシャツに濃紺のパンツという、飾り気のない服装。
それでも普段の制服姿とは違い、どこか新鮮な印象がある。
「お兄さん!」
波は一直線に駆け寄った。
「おはよう!」
「おはよう。」
彗は自然と波の頭を優しく撫でる。
「ちゃんと朝ご飯食べた?」
「食べた!」
「歯磨きもした!」
「えらい。」
短く褒められただけなのに、波は誇らしそうに胸を張る。
その様子を見ていた凪は、思わず微笑んだ。
「水平君。」
「今日は付き合ってくれてありがとう。」
「こちらこそ。」
「久しぶりに出掛けるから。」
「少し新鮮。」
その言葉に凪は少し驚く。
「そうなんだ。」
「休日は家にいることが多かったから。」
淡々と話すその横顔を見て、凪は少し胸が締め付けられる。
この人には、「休日を誰かと過ごす」という当たり前がなかったのだ。
だから今日は、少しでも楽しい一日にしたい。
そう思った。
三人は歩いて近くのショッピングモールへ向かった。
休日ということもあり、館内は家族連れや学生たちで賑わっている。
子どもたちの笑い声。
フードコートから漂う美味しそうな香り。
店内放送の明るい音楽。
どこを見ても、楽しそうな人ばかりだった。
波は目を輝かせながら辺りを見回す。
「すごーい!」
「人がいっぱい!」
「あっ、おもちゃ屋さん!」
「あっ、お菓子!」
「ねぇ、お兄さん!」
「あとで見てもいい?」
「買い物が終わったら。」
「うん!」
元気よく返事をする。
まず向かったのは食品売り場だった。
今日の目的は遊ぶことだけではない。
生活に必要なものをまとめて買うことでもある。
凪はメモを見ながら店内を歩く。
「洗剤……。」
「ティッシュ。」
「牛乳。」
「卵。」
「お米はまだ残ってたかな。」
一つひとつ確認しながら買い物かごへ入れていく。
値札を見比べ、特売品を選び、無駄遣いをしないよう慎重に計算している。
その姿は高校生というより、一人の大人のようだった。
彗は少し後ろからその様子を見守る。
必要になれば重い荷物を受け取り、黙って買い物かごを持つ。
「ありがとう。」
「気にしないで。」
短いやり取り。
けれど、その自然な距離感が心地よかった。
「水平君。」
「ん?」
「その洗剤。」
「こっちの方が今日は安いみたい。」
「本当だ。」
「十円だけだけど。」
「積み重なるから。」
そう言って笑う凪を見て、彗も小さく頷く。
「確かに。」
以前なら、こんな何気ない会話すらなかった。
波は二人の少し前を歩き、ときどき振り返っては嬉しそうに笑っている。
「早くー!」
「迷子になるよ。」
「ならないもん!」
元気いっぱいの返事が返ってきた。
生活用品を一通り買い終えた頃だった。
ゲームセンターの前を通りかかる。
店内には電子音が鳴り響き、子どもたちの歓声が飛び交っている。
色とりどりのぬいぐるみが並ぶクレーンゲーム。
楽しそうな雰囲気に、波は自然と足を止めた。
「……。」
その視線の先には、大きなガラスケース。
そこに、白い犬のぬいぐるみがちょこんと座っていた。
垂れた耳。
丸い黒い瞳。
赤い首輪。
今にも動き出しそうな愛らしい表情だった。
波は何も言わない。
ただ、じっと見つめている。
欲しい。
でも言えない。
そんな気持ちが、小さな背中から伝わってきた。
彗はその視線を追う。
「欲しいのか?」
優しく尋ねる。
波は少し驚いたように振り向く。
そして遠慮がちに何度も頷いた。
「……うん。」
「でも。」
小さく首を横に振る。
「高いからいい。」
「お姉ちゃん、お金ないし。」
「我慢できる。」
そう言って笑おうとする。
その笑顔が少し寂しそうだった。
凪は胸が痛くなる。
本当は欲しい。
それでも、自分たちの生活を理解しているから諦める。
まだ小学生なのに、そんな我慢を覚えてしまっている。
「波……。」
凪が声を掛けようとした、その時だった。
「分かった。」
彗は静かにゲーム機の前へ立つ。
「取ってやる。」
「ほんと!?」
波の顔が一瞬で輝いた。
しかしその隣で、凪は慌てて彗の腕を引く。
「ま、待って!」
「そんなの悪いよ。」
「お金もかかるし。」
「もし取れなかったら……。」
彗は穏やかに首を横へ振る。
「大丈夫。」
「欲しいなら。」
「挑戦してみる。」
それだけ言うと財布から百円玉を取り出す。
コインが機械へ吸い込まれる音が響いた。
「頑張れ、お兄さん!」
波は両手を胸の前でぎゅっと握る。
凪まで思わず息を止めていた。
アームがゆっくりと動き始める。
一回目。
狙いは悪くなかった。
しかし爪が少し滑り、ぬいぐるみはわずかに動いただけだった。
「あぁ……。」
波が小さく声を漏らす。
「惜しかったね。」
凪も残念そうに呟く。
だが彗は景品をじっと見つめていた。
視線はぬいぐるみではなく、その下の土台へ向いている。
重心。
角度。
アームの癖。
まるで数学の問題を解くように静かに観察していた。
二回目。
今度は持ち上げようとはせず、横から押す。
ぬいぐるみの向きが少し変わった。
「あっ!」
波が声を上げる。
「向いた!」
「あと少し。」
彗は小さく呟く。
その横顔は驚くほど真剣だった。
「水平君……。」
凪は思わず見入ってしまう。
普段勉強をしている時と同じ目だった。
何かを分析し、最適解を探している目。
三回目。
百円玉を入れる。
アームがゆっくりと下降する。
今度は絶妙な位置でぬいぐるみの脇を押した。
ぐらり、と景品が傾く。
前へ。
少しずつ。
ゆっくりと。
そして――。
コトン。
取り出し口へ落ちた。
一瞬、静寂。
次の瞬間。
「やったぁーー!!」
波は飛び跳ねるように喜んだ。
両手を上げ、何度もその場で飛び跳ねる。
周りの子どもたちまで振り返るほどの喜びようだった。
彗はしゃがみ込み、取り出し口からぬいぐるみを取り出す。
白い犬はふわふわで、とても柔らかい。
そのまま波へ差し出した。
「はい。」
「ありがとう、お兄さん!」
波は両手で受け取ると、ぎゅっと胸へ抱き締めた。
本当に大切な宝物を抱えるように。
「かわいい……。」
「ふわふわ……。」
「名前つけようかな。」
「何がいいかな。」
嬉しそうに何度も撫でる姿を見ていると、それだけで十分だった。
「本当にありがとう。」
凪は深く頭を下げる。
「ごめんね。」
「お金まで使わせちゃって。」
彗は静かに首を横へ振る。
「三百円。」
「波ちゃんの笑顔の方が価値がある。」
その何気ない一言に、凪は言葉を失った。
この人は、こういうことを本気で思っている。
見返りなんて求めず、ただ目の前の誰かが笑ってくれることを喜べる人なのだ。
波はぬいぐるみを抱えたまま、彗の手をそっと握った。
「ありがとう。」
「ずっと大事にする。」
その小さな約束に、彗は優しく微笑んだ。
「うん。」
その笑顔は、以前よりもずっと自然だった。
凪はそんな二人を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
――この三週間で、彗は少しずつ笑うようになっている。
最初はほとんど表情を変えなかった人が、今では波の言葉に微笑み、楽しそうに話すことも増えた。
それは波のおかげなのかもしれない。
そして、自分も少しだけ、その変化の理由になれていたら嬉しい。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
ゲームセンターを後にした三人の足取りは、来た時よりも少しだけ軽くなっていた。




