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遠足大事典 -Ensoyclopedia-  作者: あうすれーぜ
~ 当日編 レースパート ~
17/21

持ち物17  奥義




 時間をほんの数秒だけ、ちょうど解散の合図があったところまでもどす。

 乙乎おとこが野生動物のような動きで、まさしく脱兎のごとくロケットスタートで駆け出したとき。

 クラスメイトの人垣にはばまれないように、乙乎はすこしだけ後ろに下がるようにして時計回りに半円をえがいて、集団の外に出た。

 その一連の流れが圧倒的に早すぎて、ほかのチームが動きをはじめたのは、列の右側最後尾にいたはずの乙乎がいつの間にか左前方、最前列よりもさらに先に来てからだった。


 だが、それでも集団の中の先頭、チーム#1とはさほどの差もない。


「わたしらも行くよっ!」


 乙乎に次いで動きを取ったのは、その#1のチームリーダー麻門宮まかどみや

 両手を地面について身体をまるめ、さっと立ち上がると、チームメイトの二人と顔を見合わせてから乙乎を追い始めた。


 この日のためにバナナチップスで雇われた、クラスメイトという名の傭兵部隊。

 麻門宮はその中でも切りこみ隊長の位置づけになる。

 ≪乙乎を野球に誘う≫、その目的のために独自で判断し最善の行動をする。

 いわば遊撃隊としてチーム#1をひきいて先行するのが役目だ。


 その3人が走り出すのを見はからって、それから立ち上がったのが、あのミカドだった。


 遠足そのものを掌握し、準備をとどこおりなくすませ、乙乎たちを追い詰めてきた大将にしては、動き出すのがすこし遅いようにも見える。

 クラスの中でも、実に5番目。

 だがこれは、全体を確認して把握するためのものだった。


 列を作って密集して座っていると、どうしても集団を動かすのに遅れが出る。

 そのため、人数が減るのを待つ必要もあった。

 それに、ゆっくりしていたわけでもない。

 ここまで経過してやっと数秒間。巻きもどした時間が帰ってきた。


 標的と遊撃隊が抜けてから真っ先に立ち上がったミカドは、一歩右にずれて、周囲にさっと視線をめぐらせた。

 すぐ左後方、ブサコが音菜おんなに抱えられている。

 ブサコの体調が悪いのは知っていた。

 あれでは隊列に組みこむことはできない。

 だが、音菜を道連れに消えてくれた。


 これで残る敵は、乙乎ただ一人。


 ミカドの口角が、ギチィッと吊り上がった――!


「総員ッ、遠足体系! 4と8は守護陣形、ただちに出撃するッ!」


 ミカドが左手を振ってさけぶ。

 その拍子に、スーツの下のネクタイがぶわっと舞い上がった。

 ネクタイが身体の前にもどってきたときには、すでに陣形はミカドを取り巻いて完成していた。


 1チームはそれぞれ3人。

 ミカドが呼んだのはチーム#4と#8のことだ。

 合わせて6人が、ミカドの周りを囲んで立っている。

 これで6方向、ミカドは向かい風と刺客から守られることになる。

 選ばれたチームが#4と#8なのは単純な理由、ミカドのいる#9の前と左にいるからだ。


 陣形を組むのには練習が必要だ。

 守護陣形に関しては後述するが、もっともたくさんの時間を割いて訓練を積んだ。

 そのため守護陣形に代わりの要員なんていうものはいない。


 つまり、ミカドもまた、このバスの列と当日の集合時の列との関係を見抜いていた。

 いや、正確には、この列自体はわざわざ仕組んだものではないことを白状しても、気づいてから練習を始めるまでの時間の関係上、見抜いたのは乙乎よりも早い!

 そしてそれを最大限活用するため、守護陣形を組みやすくするために自分のチームを最後から2番目になるように設定し、なるべく端のほうに位置どったのは、ミカドが遠足態勢の乙乎を上回った自負でもある。

 どうせ乙乎は一番最後にするだろうから、ということもあっての計算だった。


(クックック……乙乎よ、遠足たたかいでモノを言うのは数と計略だ。それをいまから、たっぷりと思い知るがいい……!)


 ミカドは自身のやわらかい前髪をぱっとはらうと、その手を左前方に向けた。

 そのままもう一度さけぶ。


「11時の方向ッ!」


 言葉を短く切るや、ミカドはそのまま駆け足で前進しだした。

 するとミカドの周りにいる守護陣形の6人は、ミカドの進路をあけるでもなく、かといってぶつかることもなく、そのままミカドの影のように、まとわりつくような距離でいっしょに走り出した。


 集団はあっという間にトップスピードに達した。

 それはまるで陽炎か。

 ミカドが7人に分身でもしたような一糸乱れぬ動き。

 そう、前の運動会で綱引きのときに見せた、あのきれいにそろった動きと同じだ。

 

 スピードをまったく落とさず、ミカドは振り返ることなく今度は後ろに呼びかける。

 先に自分の陣形をととのえ、進みながらほかの指揮をするかたちだ。


「2・5・6、雁行の陣ッ! 先行部隊に続き、追撃せよ!」


 言われた番号のチームが、走りながら一人を先頭にした渡り鳥のような列を作り出す。

 そのまま全速で一直線に、麻門宮の走るほうを追いはじめた。


 これで2チームがミカドを取り巻き、4チームが乙乎を仕留める攻撃部隊に割り振られた。

 残る2チーム、#3と#7は各人が一定の距離を取りながら3人ずつ、左右に散らばっている。

 その真ん中に、手を広げてなにやら指示しているものがいた。

 ソノタだ。

 身体が大きくてごつすぎるソノタに指揮をされると、さもそこが総大将かとも思えてくるが、それはさておき。

 この2部隊は後衛の索敵を担当する。

 つまり攻撃部隊とミカドのいる本隊からもれたところを確認するための役割だ。


 ……と、そこまでいうと、『一目散に走っていった乙乎がいまさらミカドの後ろに回っているわけないだろう』と思われるかもしれない。

 だが、ミカドからすれば、その可能性は決してゼロではない。

 死角をついて大軍をかいくぐり、そのままゴールをかすめ取るような作戦もミカドは考慮していた。

 これはその対策だ。


 ついでにこれは、運動の苦手な傭兵の有効な使い道でもある。

 索敵部隊に指名されたのは、ブサコほどではなくても体育の成績はよろしくない。

 守護陣形はもとより攻撃隊にも加えにくいクラスメイトたちだ。

 だから、後ろに配置して小走りに散策させ、あわよくば隠れているかもしれない乙乎を見つけよう、といった立ち位置になる。

 役立ったらラッキー、ていどだ。

 ありていにいって戦力外みたいなものだが、運動のできないものはどこのクラスにもいる。

 人それぞれ得意分野というものはあるから、それを責めることはできない。

 それに、傭兵として味方に引き入れずに放置していては、仲間はずれになったとして不興を買うかもしれないし、ことによると乙乎に味方されるかもしれない。

 人望を重視し、かつ乙乎を倒したいミカドとしては両方ともさけたいところだった。


「1時の方向!」


 ミカドがまたさけぶ。

 すると陣形の右前にいた傭兵が先頭になるよう、部隊全体の向きが変わった。

 守護陣形はミカドの周囲に、等間隔に6人いる。

 その6人が時計の針の向きに相当し、ミカドの指示にしたがって12の方向に向きを変えるのだ。

 最初は一人が先頭になる六芒星のかたち、ミカドが11時とさけんだときには前と左前の二人が先頭になるように。

 いまは右前にいた一人が、つまり最初の先頭がもう一回先頭になったことになる。

 この方法なら、ミカドを起点にしてすぐさま進行方向を変えることができる。

 全部で7人も固まっていると、ほんのちょっとのミスが事故のもとになる。

 陣形をまるごとぐるぐる回して向きを変えていてはどこかでぶつかるか足がもつれるかして転ぶだろう。

 それに時間もかかるし、コーナーの外側にいる傭兵はとんだ大回りだ。


 そういうわけで、この陣形を完成させるのに多大な労力を要した。

 だがその分、ここまでくればまるで自分の手足の延長のようにあつかえる。

 そしてその効果も大きい。

 走り出してから、ミカドは身体がとても軽かった。

 周囲を取りまく人の壁で空気抵抗が減ったためだ。

 空気抵抗というものは、走るのが速ければ速いほど強くなる。

 具体的な計算式はここでは割愛するが、長距離や中距離走においてもけっしてバカにならない数字だ。

 当然、ゴールまでの道のりが長いほど、たくさんの時間と体力を空気にさらわれることになる。

 そこで、この守護陣形。

 この仕上がりなら、最後の大岩をのぼる体力はじゅうぶん残されるだろうし、時間も何分かは浮かせるだろう。

 ミカドはそのできばえに満足した。


「……むっ!」


 ふと、ミカドが攻撃部隊の向かったほうに目をやる。

 なにやら、ざわついているようだ。

 こちらもペースを落とすわけにはいかないので、ちらりとしか見ることはできない。

 だが、ミカドは視界の端、たしかにその姿をとらえた。


 むこうにある林の影。

 乙乎だ。

 あんなに小さい。

 もうはじめの広場を抜けようとしている。

 広場のすみ、道につながるところ以外は、背の高い下草におおわれている箇所がけっこうある。

 腰の高さくらいの草だ。走るどころか、ふつうにとおることもむずかしいはずだ。

 だが、すでに乙乎はその最初の障害物を越えていた。

 一直線に、最短ルートを行ったのだ。

 攻撃部隊はなんとか進もうとがんばっているようだが、多少手間どっている。


 そこまではわかった。

 ミカドにとって、理解の外だったのはここからだ。


 ミカドが攻撃部隊のほうを一瞥したとき、乙乎の姿を見た。

 いや。

 正確には、ミカドは『乙乎と目が合った』。

 目の端の小さな人影が乙乎だとわかったのは、頭に巻いたはちまきでもなく、方向と距離から予想したわけでもなかった。

 乙乎がこちらに顔をむけて、ミカドのほうをしかと見ていたからだ。


 なぜだ?


 立ち止まってうしろを振り向く。

 いかに自分が先行して、ひとまずの安全圏に身を置いたからといっても、その行為。

 時間の無駄以外のなにものでもないはずだ。

 しかも、あの挑戦的な目つき。


 ミカドは走るスピードをゆるめることなく、しばし考えた。

 陣形の維持には集中力を使う。

 そのため、考えごとにあまりエネルギーをさいてしまうわけにもいかない。

 それにミカドは直感型の人間ではないことも合わさって、すこしばかり時間がかかった。


 だがその分、正確な答えにはたどりつくことができた。


 やはりあれは、乙乎のミカドに対する挑戦だ。


 ミカドは分析する。


 乙乎は仮に単独で先行できても、それをするわけにいかない理由がある。

 それはひとえに、こちらの人海戦術に起因する。

 乙乎の立場で考えると、少数で逃げ続けてもいつかは追いつかれるかもしれないし、あるいは遊撃隊の先回りを受けるかもしれない。

 そのためこちらの、ミカドの戦術を、陣形を把握する必要があった。

 わざわざ立ち止まってこちらに顔をむけたのは、その確認をするためというのがひとつ。

 そしてここからが重要なことだ、乙乎は攻撃部隊を――全員返り討ちにするつもりだ!


 乙乎はあえて立ち止まることで追撃を待ち、追っ手を倒す算段だろう。

 ここでいう倒すとは、なにも暴力的なことをするわけではない。

 追っ手に追いつかれるかもしれないのは、当然追っ手が乙乎を追いかけ続けるからだ。

 なにを当たり前のことを、といわれそうだが、実はそこが乙乎にとって有効な反撃のチャンスになる。

 追っ手が乙乎を追いかけるのをあきらめれば、追いつかれることはなくなる。

 だがそれは、乙乎がただ走って距離をあけられるとか姿を見失うとか、そういった多少の不利をこうむったくらいでは攻撃部隊の戦意をくじくにはいたらないだろう。

 ならどうするか。

 おそらく、乙乎は攻撃部隊に対してゲリラ戦術をしかける。

 引きつけて連れまわし、さんざん疲れさせてから一気に引き離す――!

 これ以上乙乎を追いかけても無駄だと、傭兵たちに理解させることで撃破するのだ。


 さらに。

 攻撃部隊のほうだけでなくミカド本人のほうも見た理由は、こちらもやはり本隊の動向をたしかめるためだ。

 ミカドの走行距離と速度をおおまかに割り出し、そこから乙乎自身の進攻ルートとペースを決める。

 攻撃部隊を完全にしりぞけたのち、ジャマのはいらない状況でこのミカドと勝負に出るつもりか。

 それもおそらくは、一対一で!


(面白い……!)


 ミカドは誰も見ていない角度で、ふだんのさわやかな好人物ぶりに似つかわしくない、邪悪そうな笑みを満面に浮かべた。

 傭兵の壁に防がれ、かすかなそよ風となった空気の流れが、ミカドの前髪とスーツのすそをぶわっと舞い上げる。


(獅子はウサギを狩るにも全力をつくすというが……乙乎め、ウサギが獅子を狩るつもりか!

 いいだろう……貴様のその挑戦、受けて立とう! だが教えてやる……おのれの無力さと愚かしさのほどをな……!)




 最初の広場と次の広場とを、道をはさむようにして壁を作っている杉林。

 乙乎が太陽からのがれるようにその奥にはいっていったのは、ミカドが道のあたりにさしかかってからだった。


 あの一瞬、ミカドと目が合った。

 おそらく、あれだけでこちらのねらいはすべて看破されたことだろう。

 この森の中で傭兵たちを迎え撃つ――それでまちがいはない。

 広場から一歩わけいると、そこからはこのとおり、見とおしの悪い深い森だ。

 足元もこけや落ち葉でおおわれ、ところどころ倒木や岩が突き出していて、安全な散歩コースとはいえない。

 ここが、まずは最初の勝負の場となる。

 そのことは、読まれていても問題はない。


 それに、こちらもミカドのおおまかな動きも知ることができた。

 傭兵を盾にして空気抵抗や刺客から身を守りつつ体力を温存、別動隊で乙乎を攻撃。

 これは、前日までに予測していたミカドの戦法とほとんど同じだ。

 それを確認できただけでも、ここで時間を使った価値はある。


 それにしても。

 いまや戦力の差はきわまった。

 ここまで来るのにあちらは一人、こちらは二人も脱落している。

 残りは27人、そのうち自分以外の全員がミカドの側の人間だ。


 1対26。

 数字だけ見ると、もう完全に意味がわからないくらいだ。

 理不尽といってもいいくらいに、大勢は決しているように見える。

 だが、乙乎はうろたえるでもやけになるでもなく、不思議と落ち着いていた。


 いや……

 自分でも、わかっていた。

 仲間をうしなったのは本当につらい。

 それでも、振り返るわけにはいかない。

 それに、仲間たちは、決して無駄に散っていったわけではない。

 それぞれが全力で行動して、乙乎をここまで進ませてくれたんだ。

 だから、もう、やるべきことは決まっている。


 ――みんなのために、オレは行く!


 乙乎が走りながら手前の倒木に足をかけ、ジャンプして次の岩に移ろうとしたその瞬間、背後で人の気配がした。


「……むっ!」


 傭兵が追いついてきたのだ。

 背中に伝わる空気のゆらめき、足運びに息づかい……男子が3人!


 乙乎はすぐさま岩から次の倒木、地面に降りてそばの幹に身を隠すように左折した。

 傭兵がすぐうしろに来ているのがわかる。

 乙乎はさらに方向転換して落ち葉を3歩だけ、水面を渡るように踏んで、細めの木が密集して立つところに滑りこんだ。

 そこからまたすぐ低い枝に足をかけ、根の張りだした崖の上に乗り移る。


 そこまで来ると、傭兵の追ってくる気配は消えた。

 途中、赤い矢印でかかれた次の広場への順路案内にしたがってそちらへ行ったのだ。

 もうそれで、こちらに来ることはないだろう。

 いったん森の外に出ると、もう一度こちらの姿を捕捉するどころかアタリをつけることすらむずかしいからだ。

 この森はそのくらい、深くていりくんでいる。

 乙乎は腕を振って、ふたたび走り出した。


「……むむっ!」


 すると、さほどまを置かずに次の追っ手の気配が届いた。

 こんどは、いまとおったところとくらべて木々が少なく、ややひらけている。

 隠れて撒くような手は使えない。

 ならば。


 乙乎はわざと、倒木と岩の多いところをさけて、勾配は急だがその分踏み固められたけもの道にはいった。

 うしろから、傭兵が声をあげながら追いすがってくる。

 話の内容から、どうも乙乎を足止めできれば追加の報酬があるようだ。

 そいつはまた、ずいぶん魅力的なおはなしだ。

 もしよかったら自分も攻撃部隊にいれてほしいくらいだ、と乙乎は皮肉気に一人で笑った。


 そうこうしているうちに、追いすがる傭兵たちは乙乎との距離を詰めてきていた。

 いまのペースのままなら、じきに追いつかれるだろう。


 あと5秒……4秒……

 3……2……1……


 ここだ!

 乙乎は足をひらいてひざを曲げ、腰をひねって上体を前に落とした。

 はずみで、頭に巻いていた長いはちまきの先が、ふわりと舞い上がる。

 その細い布が、手をのばして迫り来る傭兵たちの視界を一瞬さえぎった。


「なぁっ!?」


「うおっ!」


「げえっ!?」


 銀光一閃。


 背中で傭兵たちの悲鳴がした。

 乙乎は左腰のバナナを抜きはなつとほぼ同時に、皮だけをうしろのウエストポーチに片づけた。


≪居合バナナ≫――!


 皮から手をはなして顔をあげたときには、傭兵たちはもうはるか後方にいた。

 傭兵がうしろに下がったのではない。

 ひるませたのも多少はあったが、それ以上に乙乎が急加速したのだ。


 乙乎の超高速の抜蕉術ばっななじゅつ

 またたくまもなくバナナを食した乙乎はエネルギーを即座にチャージ、ここまで来るのに疲れていた傭兵との瞬発力の差をことさらに見せつけたわけだ。

 いまの傭兵たちはもう追ってこない。

 これで攻撃部隊のうち2チームを撃破した。


 乙乎はけもの道から最初の森を出て、広場をつなぐ通路を一瞬だけ横切り次の森へ突っこんだ。

 そのとき左右をちらと見たが、どこにもミカドの姿はなかった。

 いまはどちらが先行しているのか、それはわからない。

 わからない以上、広場や通路はもちろん、森の浅いところにもそう長くはいられない。

 こちらを捕捉され、ミカドにほかの手を打たれる危険性があるからだ。


 比較的木々の少ない山道を駆ける。

 体重を前にあずけ、つま先だけで跳ねるように足場を移っていく。

 以前、この森の中も一度下見はしているので、大体のルートはわかる。

 倒木や岩のある場所や大きさ、かわいているか苔むしているかもそれなりに把握してはいる。

 ただ、それから日がたっているので、そのときの記憶も参考ていどだ。

 乙乎は視線を次々と走らせ、速度をたもちながらも慎重に、詳細な経路を選び出していた。


「……むむむっ!」


 3チーム目の気配がした。

 足あとや枝の折れかたなんかで気づかれたのかもしれない。

 ということは、追っ手はチーム#6、公園での自然観察をテーマにしていた部隊か。

 いまだ追いつかれてはいなくても、相手はここまで引き離されることも道をまちがえることもなく、根気よく追いかけてきたチームだ。

 それに体力もある。

 これ以上の長期戦はさけたい。


 乙乎ははちまきをひるがえし、両手を横に思いっきりひろげた。

 するとそでの中、手首に結びつけられたたこ糸がクモの巣のように四方にひろがり、乙乎のうしろの木々にまとわりついた。

 糸の繊維が木の皮に引っかかったのもそうだが、その糸の先には粘着テープを輪にしたものをくっつけた、大きな紙のようなものがある。

 白い画用紙。おもてになにかかいてある。

 矢印だ。画用紙いっぱいの大きさ。下のほうに黒の油性ペンで『広場への順路』という文字がしるされている。


 その紙が何枚も何枚も、傭兵たちのゆく手をさえぎるように、それぞれちがう方向を示し、でたらめな案内板となってあらわれたのだ!


 さっきちらりとだけいった、森の中の下見。

 そのとき、乙乎はスケッチブックと絵の具という大荷物をわざわざかかえて行っていた。

 そしてその後日、赤い絵の具を使いすぎていた乙乎は図工の時間に切らしてしまったわけだ。


 乙乎が現地で写生していたのは公園の全体図でもなく、森の風景でもなかった。

 時節、当時は9月の末ごろ。

 いまでさえ紅葉はようやく始まったばかりだ。

 赤い絵の具はそれほど必要としない。

 では、なににそんなに使ったのか。

 乙乎は下見のとき、これを注視していた。


『となりには、順路案内のくすんだ矢印が、小さな白い看板にかかれてある』。


 矢印の色は赤だった。

 乙乎はこれを写生、つまり本物に似せるべくがんばってかき写していたのだ。

 たこ糸は下見の帰りに文房具店で買ったものだ。

 消しゴムよりも重要なのはこっちだった。

 より合わせて丈夫にしてあるので、枝に引っかかって千切れるようなことはない。


 この偽物の順路案内がいま、1チーム目を幻惑させて追走を断念させ、こうして3チーム目の足をとめていた。


 乙乎の部屋に置き去りになっているあの『遠足のしおり』のメモ欄には、この作戦の名前がしるされている。


迷いの森イリュージョンアロー≫!!


 策が功を奏したわけだが、乙乎は浮かれてはいなかった。

 この矢印の本来の目的は、森の中などの悪路に弱い音菜を攻撃部隊から守って安全に時間をかせぐためのものだったからだ。

 だが、当の音菜はもういない。

 ブサコの自爆攻撃に倒れ、乙乎は一人ぼっちになってしまったのだから。


 ……何度もいうことになるが、乙乎の心にことあるごとによぎるそれは、もはや考えていても仕方のないことだ。

 乙乎は仲間のためにも先に進むしかない。

 だから、この3チーム目がどこかに行ったら矢印を片づけて、すぐに出発しなくては。


 乙乎は待った。


 ――妙だ。


 なにか、おかしい。


 3チーム目が消える気配がしない。

 その足も、完全にはとまっていないようだ。


 後方から、声がした。


「まっすぐ進んで! 本物の矢印は、青だよっ!」


 麻門宮だ。3チーム目にさけんだんだ。


 真っ先に追撃をはじめたはずの麻門宮隊がうしろに回っていることも少し意外だったが、それ以上に乙乎を驚嘆させたのはその声の内容だ。


 青、と言ったのか?

 乙乎が下見のときに見まちがえたのか?

 いや、そんなはずはない。

 1チーム目にはちゃんと効果があったんだ。


 木陰にひそみながら、乙乎の遠足脳はフル稼働した。


 ……この雰囲気から察するに、順路案内の矢印はいま、本当に青になっているんだろう。

 ということは、乙乎が下見をしてからおそらくはきのうまでのあいだに、矢印は塗り替わったことになる。

 そしてそれは、乙乎の矢印が読まれていたことを意味する。


 なぜだ? そんなことがあるのか?


 矢印そのものをほかのチームに見せたのはきょうがはじめて。

 なのに、ここまでピンポイントで読み切られたということは、相手はわずかな情報の断片を集めて答えにたどりつき、ただちに対策を立て行動を起こしたということ。


 つまり、公園の管理局に連絡して矢印を塗り替えさせる。

 そこまでのことができるのは……


 ――そうか、そういうことだったのか!




 救護室の窓が、ほんの少しだけあいている。

 空調のきいた部屋もいいが、やはり外とのつながりはほんの少しだけでも持っておきたかった。


 ベッドから起き上がり、ブサコは顔に風をうけながらメガネのつるに手をそえた。

 身体はだるく、頭も重いが、ブサコはここに遠足に来ているのだ。

 せめて外に見える森をながめて、気分だけでも味わいたい。


 いまごろは、みんなどうしているだろう。

 なかなかに熾烈な展開で、両者とも一歩もゆずらぬはげしい攻防を繰り広げていることと思う。

 たとえば、ちょうど……


 乙乎が赤い矢印を森にしかけて攻撃部隊を攪乱しようとするが、それが看破されていてあせっているころかもしれない。


 ブサコはサイドテーブルに置かれたポットからお茶をついだ。

 ちょっとばかりしぶいけど、このくらいならまったく問題ない。

 さすがにコーヒーをブラックで飲んだりはできないが。それができるのはハードボイルドの権化であるソノタくらいのものだ。


 お茶がのどに染みこんでいく。

 ブサコは飲みこんでから、軽くせきこんだ。


 のどの調子もそんなによくない。

 ただ、これはきょうの体調とは別件だった。


『このごろはスピーチコンテストの練習ではないが、長くしゃべることが多かった』からだ。


 たとえば、ここ九十九つくも森林自然公園の管理局に電話をかけて、学校の先生のふりをして順路案内の矢印を塗り替えてもらうよう頼んだり。

 むずかしいことではなかった。

 実際、矢印がくすんできているのは、前にテレビで紹介していたときにちらりと見たことがあった。

 あとはそれを指摘して、『赤は直射日光で色があせやすいので、変色に強い青などなら長持ちしますし、こんどおじゃまいたしますうちの児童たちも事故なく安心して使えますかと』とかそんなことを言えば大丈夫だった。

 公園としてもコストは削減したいだろうし、危険因子は排除できるだけしておくにかぎるから、そういうところには敏感だ。

 電話をしたのはついきのう、それも夕方のことだったが、案内板自体はそう多くもないし、直す箇所も矢印の塗り替えだけだ。

 安全性と仕事の早さに定評のあるこの管理局ならこそだった。

 ブサコの大人びた声から、実はブサコこそが当の児童であることは見抜かれずにすんだ。


 さて、そもそも乙乎の矢印に気づいたのは、簡単ではなかった。

 なにしろ現物を確認したわけではない。

 ので、わずかな情報の断片を拾い集めて答えを見つけるはめになった。


 運動会の代休が終わった次の日。

 乙乎は消しゴムを買い替えていた。

 それだけなら気にもとめない。

 だが、その消しゴムこそがちょっとクラスの話題になるくらいにいいものだった。

 その消しゴムは、校区外のとある文房具店に売っている、と聞いたことがある。

 その店は九十九市の郊外、この公園からほど近くにある。

 乙乎は、その消しゴムを買うためだけにわざわざ遠出したのだろうか?


 また、その日の図工の時間、乙乎は赤の絵の具を使い切っていた。

 最近、絵の具を多く使う授業といえば、当時の『クラスメイトの顔をかこう!』という課題くらいのもの。

 乙乎がかいていた友親ともちかは、まあいつも顔色がよくてうらやましいかぎりではあるが、それにしたって赤色を使いすぎるほどではない。

 では、ほかの風景画かなにかを乙乎は趣味でかいていて、そのためかとも思ったが、きょうでさえ紅葉にはあきらかに早い。

 それに、遠足の準備に必死だった乙乎に、のんびりと絵画をたしなむ余裕などがあるのだろうか?


 それらを総合して、消去法で考えた結果がこれだった。


≪乙乎は現地の順路案内を大量に偽造した≫!


 なんのために?


 決まっている。遠足のために。


 乙乎はミカドの傭兵部隊結成を読んでいて、その妨害策をたくらんでいたのだ!


 ブサコはそこまで気づいたとき、乙乎の執念に戦慄した。

 はっきりいって、恐怖すらした。


 ものすごくおどろいたし、そのあまり即ミカドに報告したくらいだった。

 するとミカドから対策を依頼されて、いまにいたるわけだ。


 乙乎が多くの手間と時間をかけてこしらえた小道具。

 それに対してブサコは電話一本で反撃をすませた。


 それが、偽造標識の無効化――


真実の導セイクリッドビーコン≫!!


 ブサコは作戦の成功を確信して、一人笑みを浮かべた。

 笑顔を出せるくらいには、身体はラクになってきた。


 とはいえ、あまり心は浮かなかった。

 乙乎を罠にはめるようで、気が進まなかったからだ。

 ブサコは、乙乎に対してなにか恨みがあるわけではない。

 べつに、ふだんから嫌ったりうとんだりしているわけでもない。

 ただ、ブサコにとって乙乎はちょっと遠い存在だった。


 乙乎はまあ、クラスの人気者といっても差しつかえない。

 小学校では、運動ができて性格が明るければヒーローだ。

 乙乎はその例にもれない。

 走るのは速いし、器械体操も身軽にこなす。

 跳び箱や前転宙返りなど、ところどころ超小学生級だ。

 その上冗談もよく口にするし、なにやらくねくねと踊り回って周囲の笑いをさそったりする。

 勉強も壊滅的に落第レベルというほどではなく、まだセーフなほうだ。


 そんな乙乎だから、ミカドが敵愾心を燃やすのもうなずける。

 音菜もしょっちゅういっしょにいて、よくなついているようだ。


 ブサコは乙乎と正反対のところにいた。

 運動はダメ、体育の時間は見学も多い。

 勉強はできるけど気のきいたジョークで場の中心になったことなんか一度もない。

 どちらかというと、リーダーを補佐するタイプの人間だと自覚している。


 ブサコは、自分と乙乎に共通点がまったくないと思っていた。

 じつのところ、作戦のネーミングセンスなどはけっこう似かよっていたが、そういうことに気づくはずもなく。

 別の世界の人間に対して、ちょっと悪いことしたかな、でもチームリーダーからの依頼だから仕方がなかったんだよ、と心に影を落としたことは記憶にとどめておいて、あとで作文に書きたそうと考えた。


 そうして救護室の中を見渡す。

 ここにはブサコしかいなかった。

 ☆★ 次回予告 ★☆


昼なお暗い森の中、

吹き荒れ狂うは激闘旋風。


いずれ劣らぬ決死の攻防、

台風の目となるは誰か。


次回、遠足大事典 -Ensoyclopedia-

持ち物18  妖の華


――いつかいったか、うまくいったと喜ぶとき、人は必ず油断する。

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