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#3 消された可能性

天野美月が、もう一度絵を描き始めた翌週。


朝倉湊は、自分でも説明できない違和感を抱えていた。


以前なら、学校から帰れば課題を済ませ、翌日の授業の準備をして、ORACLEが提示する推奨学習プランに沿って勉強する。


それが当たり前だった。


けれど最近は、少し違う。


授業中、窓の外を見ている美月が気になる。


休み時間、彼女がノートに何かを描いていると、つい目で追ってしまう。


そして放課後になると、今日は彼女と話せるだろうかと考えている自分がいた。


「……俺、何やってんだろ」


「何が?」


隣の席から、悠真が顔をのぞき込んできた。


「うわっ、近い!」


「いや、さっきからずっと難しい顔してるから。ORACLEに嫌われるようなことでもした?」


「そんなわけあるか」


「じゃあ、天野さんのこと?」


湊は一瞬、言葉に詰まった。


「……なんでそうなるんだよ」


「図星か」


「違う!」


「はいはい」


悠真は楽しそうに笑うと、スマートフォンを取り出した。


「まあ、冗談はさておき。ちょっと面白いものを見つけたんだ」


「面白いもの?」


「ORACLEの過去の予測記録」


悠真の表情が、少しだけ真剣になった。


「天野さんの『算出保留』。あれが気になってさ。個人情報に触れない範囲で、公開されている統計データを調べてみたんだよ」


「……何かわかったのか?」


「それが、妙なんだ」


悠真は画面を湊に向けた。


そこには、ORACLEが過去に公表した予測精度に関する資料が並んでいた。


「ORACLEって、予測の精度を毎年公表してるだろ?」


「ああ」


「進路適性の予測精度も、年々上がってる。だけど、ちょっと気になることがあった」


悠真が画面をスクロールする。


「予測結果と実際の進路が大きく異なった人たちについて、昔の資料には詳しい分析が載ってるんだ。でも、ある時期を境に、そういう事例の公開が急に減ってる」


「単に、予測が当たるようになったんじゃないのか?」


「最初は俺もそう思った。でもな……」


悠真は別の資料を開いた。


「予測が外れた人が減ったんじゃなくて、予測と違う進路を選ぶ人そのものが減ってる可能性がある」


湊は眉をひそめた。


「どういう意味だ?」


「例えば、将来クリエイターになりたい生徒がいたとする。でも、ORACLEが『適性が低い』って判定したら、学校も親も別の進路を勧める。本人も自信をなくして、最初から挑戦しなくなるかもしれない」


「……」


「そうなったら、どうなると思う?」


悠真は湊を見た。


「ORACLEは『クリエイターには向いていない』って予測した。そして本人がその道を諦めたら、結果的に予測は当たったことになる」


教室の喧騒が、急に遠く感じられた。


湊の脳裏に、美月の言葉がよみがえる。


――どうせ向いてないんだって。成功できないってわかってるのに、頑張る意味なんてあるのかなって。


「……それって」


「うん。予測が正しかったから人が従ったのか、それとも人が従ったから予測が正しくなったのか。区別がつかなくなるんだ」


悠真は画面を閉じた。


「まだ仮説だよ。公開されてる資料だけじゃ、断定できない。でも、もしそうなら……」


「ORACLEは未来を予測してるんじゃなくて」


湊は、ゆっくりと言葉を継いだ。


「人の未来を、予測どおりに変えてるのかもしれないってことか」


悠真は小さく頷いた。


「そういうこと」


そのとき、教室の前方から明るい声が聞こえた。


「湊くん、悠真くん! ちょっといい?」


美月だった。


両手に何枚かのスケッチを持って、こちらへ歩いてくる。


「文化祭の展示なんだけど、ちょっと相談したくて!」


湊は顔を上げた。


美月は笑っていた。


けれど、その手に握られたスケッチの端が、少しだけ折れていることに気づいた。


まるで、大切なものを誰にも見られないように、強く握りしめているみたいだった。


*


「どうかな?」


放課後の教室。


美月が机の上に広げたのは、文化祭の展示用に描いた新しいスケッチだった。


星空に浮かぶ都市。


空中を走る列車。


ビルの壁面を覆う、巨大な植物園。


そして、その街を歩く人々。


前に見せてもらった絵よりも、ずっと細かく描き込まれている。


「すごい……」


湊は思わず声を漏らした。


「この前の絵から、こんなに進んだのか?」


「うん。家でも少しずつ描いてたんだ」


美月は嬉しそうに頷いた。


「まだ完成じゃないけどね」


「十分すごいと思うけど」


「本当?」


「ああ。これ、実際に展示したら、かなり目を引くと思う」


美月はほっとしたように笑った。


その笑顔を見て、湊の胸が少し温かくなる。


彼女が何かを好きだと思えること。


自分の手で何かを作り出せること。


それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。


「ねえ、湊くん」


「ん?」


「この街に住めるとしたら、どこに住みたい?」


「急にどうした?」


「絵の参考にしたいの。せっかくだから、湊くんが住んでみたい場所も描いてみたくて」


湊はスケッチを見つめた。


街の中心には、ひときわ高い建物が描かれている。屋上には展望台があり、その周りを小さな飛行船が漂っていた。


「……俺なら、あの建物の上かな」


「展望台?」


「ああ。街全体を見渡せるだろ」


「そっか!」


美月はすぐにペンを走らせた。


「じゃあ、ここに大きな窓をつけて……あ、夜景も見えるようにしよう!」


夢中で描き込んでいく。


その横顔を見ながら、湊はふと思った。


この子は、絵を描いているとき、こんな顔をするんだ。


何かを作ることが、純粋に楽しくて仕方がないという顔。


それなのに、以前はその時間を失いかけていた。


「……天野」


「んー?」


「また、描けるようになってよかったな」


ペンが止まった。


美月は、ゆっくりと顔を上げた。


「……うん」


そして、少しだけ照れたように笑った。


「ありがとう。湊くんのおかげかも」


「俺は何もしてないよ」


「そんなことないよ」


美月はスケッチに視線を戻した。


「もう一度やってみようって思えたのは、湊くんが話を聞いてくれたからだもん」


湊は返事ができなかった。


自分の何気ない言葉が、誰かの気持ちを変えることがある。


そんな当たり前のことを、初めて実感した気がした。


そして同時に、怖くもなった。


もし、自分の言葉が彼女を傷つけていたら。


もし、自分が彼女の夢を否定していたら。


その小さな選択一つで、彼女の未来は変わっていたのかもしれない。


「……湊くん?」


「え?」


「どうしたの? 急に黙っちゃって」


「いや、何でもない」


湊は首を振った。


「続き、見せてくれよ」


「うん!」


美月は再び笑った。


その笑顔を、湊はしばらく忘れられなかった。


*


その日の夜。


悠真は自室のパソコンに向かっていた。


机の上には、ORACLEの公開資料を印刷した紙が何枚も広がっている。


「やっぱり、変だな……」


彼は古い公開アーカイブをたどっていた。


現在のシステムに関する資料は充実している。


だが、過去のモデルについては、公開情報が妙に少なかった。


特に、進路予測の初期運用が始まったころの資料。


ある年度の記録だけ、ほかの年に比べて欠落が多い。


悠真は検索条件を変え、古い教育関連の公開データベースを開いた。


そこに、気になる一覧があった。


『旧ORACLE評価モデルにおける予測と進路選択の差異に関する検証報告』


公開日は、現在から七年前。


湊たちがまだ小学生だったころの資料だ。


悠真は内容を確認しようとした。


しかし、開いたページに表示されたのは、短い通知だけだった。


『当該資料は、公開期間終了に伴い閲覧できません』


「……なんだよ、それ」


公開期間終了。


珍しいことではない。


だが、その資料の存在自体は、現在の公開資料からも参照されている。


それなのに、肝心の報告書だけが見られない。


悠真はさらに検索した。


すると、関連資料の一覧に、ひとつの名前が現れた。


白峰 凛。


旧モデルの検証に関わった学校の生徒記録に、その名前が残されていた。


だが、不思議なことに、卒業記録が見当たらない。


転校記録もない。


在籍していたことを示す断片的な情報はあるのに、その後の足取りが途切れている。


「白峰……凛?」


悠真は名前を検索窓に入力した。


ほとんど情報は出てこなかった。


ただ、学校の古い広報アーカイブに、一枚の集合写真が残されていた。


数年前の文化祭。


生徒たちの後列に、一人の少女が写っている。


写真の解像度は低かった。


それでも、少女の顔は確認できた。


悠真は写真を拡大した。


そして、あることに気づいた。


写真の隅に、手書きの文字が残されている。


『未来は、まだ決まっていない』


誰が書いたのかはわからない。


けれど、その言葉は、悠真がさっきから考えていた疑問と、奇妙なほど重なっていた。


悠真は写真を保存し、湊にメッセージを送った。


『ちょっと気になることがある。明日、話したい』


送信したあとも、彼はしばらく画面を見つめていた。


旧モデルの検証報告。


消えた生徒記録。


そして、白峰凛という少女。


それらが天野美月とどうつながるのか、まだわからない。


だが、偶然にしては気になることが多すぎた。


*


翌日の昼休み。


湊は悠真に呼び出され、校舎裏のベンチに座っていた。


「これを見てくれ」


悠真がスマートフォンを差し出す。


画面には、昨日の集合写真が表示されていた。


「この子、白峰凛っていうらしい。七年前の旧ORACLEモデルの検証に関係してた学校の生徒だ」


「七年前……」


「当時の資料には、予測と実際の進路が大きく異なった生徒について、調査した記録があったみたいなんだ。でも、報告書そのものが見つからない」


湊は写真を見つめた。


見覚えのない少女だった。


「それと、もう一つ」


悠真は画面を切り替えた。


「天野さんの『算出保留』。あれが表示される理由は、単にデータが足りないからとは限らない」


「どういうことだ?」


「過去の評価と、現在の行動が食い違っている場合も、予測を確定できない可能性がある」


湊は、思わず息を止めた。


「つまり……」


「天野さんが昔、何かしらの評価を受けていて、それと今の行動が一致していないとしたら。算出保留になる理由の一つとして考えられる」


「でも、それだけで天野が昔のモデルと関係してるとは言えないだろ」


「もちろん。まだ何も断定できない」


悠真はスマートフォンをしまった。


「だから、本人に聞くのが一番早いんだけど……」


「それは、やめたほうがいい」


湊はすぐに答えた。


悠真が顔を上げる。


「どうして?」


「天野が話したくないことだってあるだろ。昔の評価のせいで夢を諦めたって話も、簡単に話せることじゃなかったと思う」


湊は少しだけ視線を落とした。


「……本人が話してくれるまで、待ちたい」


悠真は黙っていた。


やがて、小さく笑った。


「そっか。お前、変わったな」


「何が?」


「前のお前なら、まず情報を集めて、可能性を分析して、それから本人に質問してただろ」


「……そうか?」


「ああ。今は、天野さんの気持ちを先に考えてる」


湊は何も言い返せなかった。


確かに、以前の自分なら、わからないことがあれば答えを探そうとしただろう。


曖昧なままにしておくのは、落ち着かなかった。


けれど今は、すぐに答えを知ることが、必ずしも正しいとは思えなかった。


人には、まだ言葉にできない気持ちがある。


誰にも見せたくない過去がある。


そのことを、美月との出会いが教えてくれた。


「……とりあえず、今は文化祭の準備を手伝おう」


湊は立ち上がった。


「それに、天野の絵をちゃんと完成させたいし」


悠真は、一瞬だけ目を丸くした。


そして、口元を緩める。


「はいはい。そういうことにしておくよ」


「だから、違うって!」


二人の声が、校舎裏に響いた。


そのときだった。


「……朝倉湊くん?」


背後から、聞き覚えのない声がした。


二人が振り返る。


そこに、一人の少女が立っていた。


長い黒髪。


落ち着いた表情。


制服は、この学校のものだった。


けれど、湊には見覚えがなかった。


悠真も、不思議そうに彼女を見ている。


少女は、湊の顔を確かめるように見つめたあと、静かに言った。


「天野美月さんのことで、少し話があるの」


湊の表情が変わった。


「……誰ですか?」


少女はすぐには答えなかった。


校舎の向こうから、運動部の掛け声が聞こえてくる。


やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「白峰凛」


その名前を聞いた瞬間、悠真が息を呑んだ。


昨日、古い写真の中で見つけた名前。


記録が途切れた少女。


旧ORACLEモデルの検証に関わっていたとされる人物。


その本人が、今、目の前にいる。


白峰凛は、二人を交互に見つめた。


そして、少しだけ悲しそうに笑った。


「お願いがあるの」


彼女は湊に向かって言った。


「あの子を、また同じ目に遭わせないで」


その言葉の意味を、湊はまだ知らなかった。


けれど、その声には、長い間誰にも伝えられなかった後悔が滲んでいた。


そして彼は、初めて気づいた。


美月の過去には、自分が知らない誰かの未来まで関わっているのかもしれない。


予測から外れた少女をめぐる謎が、静かに動き始めていた。

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