#2 選ばなかった未来
天野美月が転校してきてから、一週間が過ぎた。
湊の日常は、特に変わっていない。
朝起きて、学校へ行き、授業を受ける。昼休みには悠真とくだらない話をして、放課後は家に帰る。
ORACLEが予測した未来から、大きく外れるような出来事は何もなかった。
――ただ一つを除いて。
「朝倉くん!」
朝の教室。
席に着いたばかりの湊は、聞き慣れ始めた声に顔を上げた。
美月が、小走りでこちらへやってくる。
「おはよう!」
「おはよう。朝から元気だな」
「だって、今日はいいことがあったんだもん」
「いいこと?」
「うん!」
美月は嬉しそうに頷いた。
「聞いて! 昨日ね、帰り道にすごく綺麗な夕焼けを見つけたの!」
「……それが、いいこと?」
「そうだよ。雲の隙間から光が差してて、街全体がオレンジ色になってたの。あまりにも綺麗だったから、思わず写真撮っちゃった」
そう言って、美月はスマートフォンの画面を見せてきた。
そこには、夕焼けに染まった街並みが映っていた。
特別な景色というわけではない。
見ようと思えば、誰だって見られる景色だ。
けれど、美月はまるで世界で一番大切なものを見つけたかのように、その写真を見つめていた。
「……こういうの、好きなんだな」
「うん。何気ない景色って、同じものは二度と見られないでしょ?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「だから、見つけたら覚えておきたいんだ」
美月はそう言って、笑った。
湊には、その感覚が少し不思議だった。
ORACLEは、膨大な映像データや環境情報から、天候や景色の変化まで高い精度で予測できる。
夕焼けが見られる時間も、空の色が変わる傾向も、ある程度は事前にわかる。
それなのに、美月は、予測できるかどうかなんて気にしていないようだった。
目の前にあるものを、そのまま大切にしている。
「朝倉くんは、昨日何かいいことあった?」
「俺? ……別に、何も」
「そっか」
美月は少し考えたあと、湊の机に手をついた。
「じゃあ、今日は何か見つけようよ」
「何を?」
「いいこと!」
「……は?」
「放課後、一緒に探そう!」
あまりにも唐突だった。
湊が返事をする前に、教室の入り口から声が飛んできた。
「おーい、天野! ホームルーム始まるぞ!」
クラスメイトに呼ばれ、美月は「あっ」と声を上げた。
「じゃあ、またあとでね!」
彼女は手を振り、自分の席へ戻っていった。
湊は、その後ろ姿を見つめた。
「……なんなんだ、あいつ」
「さあな」
いつの間にか隣に立っていた悠真が、にやにやと笑っていた。
「なんだよ」
「いやあ? 転校生と仲良くなれてよかったなあと思って」
「別に、そんなんじゃない」
「まだ何も言ってないけど?」
「……うるさい」
悠真は声を上げて笑った。
湊は小さくため息をつきながら、スマートフォンを机の中にしまった。
画面には、ORACLEから届いた通知が表示されていた。
『本日の推奨行動:学業への集中を優先してください』
いつもと同じ通知。
いつもと同じ一日。
そうなるはずだった。
*
「来月の文化祭について、各クラスで企画を決めてもらう」
ホームルームの時間。
担任の高田先生が、教室の前で説明していた。
「展示でも演劇でも模擬店でもいい。ただし、実施可能な内容であること。今週中に企画案を提出するように」
先生が説明を終えると、教室は一気に騒がしくなった。
「お化け屋敷やろうぜ!」
「いや、普通にカフェでよくない?」
「去年の先輩たち、劇やってたよね!」
さまざまな意見が飛び交う。
そんな中、美月が勢いよく手を挙げた。
「先生! 展示って、自由に絵を飾ってもいいんですか?」
「もちろん。テーマを決めて、クラスで一つの展示を作るのもいいだろう」
「ありがとうございます!」
美月は嬉しそうに笑った。
その表情を見ていた湊は、ふと気になった。
彼女は、絵の話になると少しだけ雰囲気が変わる。
普段は明るくて、誰にでも気軽に話しかける少女だ。
けれど、絵を描くときの彼女には、周りのことが見えなくなるほどの集中力がある。
まるで、その時間だけは自分の世界に帰っているようだった。
「天野さん、絵が好きなの?」
近くの席にいた女子生徒が尋ねる。
「うん! 描くのも見るのも好き!」
「じゃあ、展示の案とか考えてみてよ。得意そうだし!」
「……私でよければ」
美月は一瞬だけためらった。
ほんのわずかな変化だった。
周りの誰も気づかなかったかもしれない。
けれど、湊はなぜか、その表情が気になった。
「じゃあ、企画係は天野さんにお願いしようか」
別のクラスメイトがそう提案すると、みんなが賛成した。
「いいね!」
「天野さん、お願い!」
「期待してる!」
次々に声をかけられ、美月は困ったように笑った。
「う、うん。頑張ってみるね」
その言葉を聞いて、湊は安心した。
彼女が本当にやりたいことを、ようやく見つけたように思えたからだ。
しかし――。
「朝倉くんも、一緒にやろうよ!」
突然、こちらに話が飛んできた。
「……え?」
「朝倉くん、こういう企画のまとめ役とか得意そうじゃん!」
「いや、俺は……」
「いいじゃん! お願い!」
気づけば、湊も企画メンバーに加えられていた。
隣で美月が、申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「いや、別にいいけど」
「ありがとう!」
その笑顔に、湊はなぜか断れなかった。
*
放課後。
文化祭の企画を考えるため、湊たちは教室に残っていた。
机の上には、企画案を書き込むための用紙と、クラスメイトたちが持ち寄った資料が広がっている。
「展示のテーマ、何がいいかな?」
美月がノートにペンを走らせながら尋ねた。
「無難なのは学校の歴史とかじゃないか?」
湊が答える。
「それ、絶対つまらないよ」
「おい、即答するな」
「だって、せっかくなら見た人がわくわくするものにしたいじゃん!」
美月はノートをこちらに向けた。
そこには、いくつかの案が描かれていた。
星空の下に広がる未来都市。
海の上に浮かぶ巨大な庭園。
見たこともない生き物が暮らす、不思議な世界。
どれも簡単なスケッチなのに、見ているだけで、その場所へ行ってみたくなるような絵だった。
「……すごいな」
湊は思わず呟いた。
「え?」
「いや、これ全部、天野が描いたのか?」
「うん。授業中に思いついたものもあるけど」
「授業中って……」
「ちゃんと先生の話も聞いてたよ?」
「本当かよ」
美月はいたずらっぽく笑った。
湊も苦笑する。
しかし、もう一度スケッチに目を落とすと、自然と真剣な表情になった。
「俺は、これがいいと思う」
湊が指さしたのは、星空の下に広がる未来都市だった。
「この絵、見てるだけで先が気になる。建物の向こうに何があるんだろうって」
「……本当?」
「ああ。文化祭に来た人も、こういうのがあったら足を止めると思う」
美月はしばらく黙っていた。
やがて、ノートを自分のほうへ引き寄せる。
「じゃあ……これを、もっと大きく描いてみようかな」
その声は、小さかった。
けれど、確かな喜びがあった。
「うん。絶対いいと思う」
湊がそう言うと、美月は顔を上げた。
「朝倉くんってさ」
「ん?」
「人の絵を見て、そんなふうに考えてくれるんだね」
「そんなふうにって?」
「ただ上手いとか、綺麗とかじゃなくて……その絵の中に何があるのか、考えてくれる」
美月は、少し照れくさそうに笑った。
「嬉しいな」
湊は返事に困った。
大したことを言ったつもりはなかった。
見たままの感想を口にしただけだ。
それなのに、彼女は本当に嬉しそうだった。
「……俺、何か変なこと言った?」
「ううん。全然」
美月は首を振った。
「ありがとう、湊くん」
また、名前で呼ばれた。
その瞬間、湊の心臓がほんの少しだけ跳ねた。
――どうしてだろう。
名前を呼ばれただけなのに。
いつもと同じ教室のはずなのに。
目の前の景色が、ほんの少し違って見えた。
「……どういたしまして」
湊は、できるだけ普段どおりに答えた。
美月は再びスケッチに向き直った。
その横顔を見ながら、湊は思った。
この少女は、いったいどんな未来を生きてきたのだろう。
どうして、こんなにも楽しそうに絵を描くのに。
自分の未来が算出保留であることを、少しも恐れていないのだろう。
その答えは、まだわからなかった。
*
夕方。
文化祭の企画会議が終わり、二人は並んで学校を出た。
「今日はありがとうね」
美月が言った。
「別に。俺も少しは役に立てたみたいだし」
「少しどころじゃないよ。湊くんが選んでくれた案、私も一番気に入ってたんだ」
「そうなのか?」
「うん!」
美月は歩きながら、空を見上げた。
「ねえ、湊くん」
「今度は何?」
「湊くんには、夢ってある?」
突然の質問だった。
湊は足を緩めた。
夢。
そう聞かれて、最初に思い浮かんだのは、ORACLEが示した進路だった。
情報工学系の大学に進み、技術者として働く。
適性が高く、将来の安定性も十分に見込める。
両親も教師も、その道を勧めていた。
「……特にないかな」
湊は答えた。
「ないの?」
「正確には、決めてない。ORACLEの推奨する進路に進めば、困ることもないだろうし」
「そっか」
美月は、それ以上追及しなかった。
少し歩いてから、今度は自分のことを話し始めた。
「私ね、小さい頃は絵を描く仕事がしたかったんだ」
湊は彼女を見た。
「イラストレーターとか、そういう?」
「うん。自分の描いた絵で、誰かをわくわくさせたり、知らない世界を見せたりしたかった」
美月は笑った。
けれど、その笑顔はどこか遠くを見ていた。
「中学生のとき、ORACLEの適性評価が出たの。私が希望していた職業で成功する可能性は、低いって」
「……それで?」
「両親も先生も、私のことを心配してくれたんだと思う。もっと安定した仕事を考えたほうがいいって。向いている分野はほかにあるって」
美月は、空を見つめたまま続けた。
「最初は、気にしないつもりだったよ。自分が好きなことなんだから、頑張ればいいって思ってた」
風が吹いた。
街路樹の葉が、さらさらと音を立てる。
「でも、何度も言われるうちに、だんだん自信がなくなっちゃったんだ」
湊は何も言えなかった。
「どうせ向いてないんだって。成功できないってわかってるのに、頑張る意味なんてあるのかなって」
美月は小さく息を吐いた。
「気づいたら、描く時間が減ってた。いつの間にか、夢の話もしなくなってた」
それは、淡々とした語り口だった。
まるで、もう終わったことだと言い聞かせるように。
「だから、算出保留って出たとき、少しだけ嬉しかったんだと思う」
美月は湊のほうを向いた。
「もう一度、自分で決めてもいいのかなって」
湊の胸の奥が、静かに揺れた。
ORACLEの予測は、あくまで確率だ。
教師たちは、いつもそう説明している。
将来が確定するわけではない。参考情報として活用するものだ、と。
けれど、美月は違った。
確率の数字によって、夢を諦めるようになった。
誰かに直接禁止されたわけではない。
誰かに夢を奪われたわけでもない。
ただ、周囲の人たちが「難しい」と言い続けた。
そして彼女自身も、いつしかそれを信じてしまった。
「……俺さ」
湊は口を開いた。
「ORACLEの予測が間違ってるとは、思ってないんだ」
「うん」
「たくさんのデータを使って、可能性を計算してるんだろ。実際、役に立ってることも多いと思う」
「うん。私も、全部が悪いとは思ってないよ」
「でも……」
湊は言葉を探した。
「天野が、本当はやりたいことを諦めたのが、その数字のせいだったなら……なんか、もったいないと思う」
美月は、目を丸くした。
「もったいない?」
「ああ。だって、まだ何も試してないんだろ?」
湊は彼女を見つめた。
「やってみたら、予測とは違う結果になるかもしれない。もちろん、うまくいかない可能性だってある。でも、それはやってみないとわからないじゃないか」
自分で言いながら、湊は不思議な気持ちになっていた。
いつもなら、こんなことは言わない。
可能性を考えるなら、最も確率の高い選択をする。
失敗の可能性が低い道を選ぶ。
それが合理的だと信じていた。
それなのに、今は違うことを口にしていた。
「……そうだね」
美月は、ゆっくりと頷いた。
「やってみないと、わからないよね」
その表情に、ほんの少しだけ光が戻った気がした。
「ありがとう、湊くん」
「いや、俺は別に……」
「ううん。嬉しかった」
美月は、まっすぐに湊を見つめた。
「もう一回、ちゃんと描いてみようかな」
その言葉を聞いた瞬間、湊は思った。
この笑顔を、もっと見ていたい。
その気持ちが何なのか、まだわからなかった。
ただ、彼女が自分の未来を選ぼうとしていることが、なぜだか嬉しかった。
*
二人が別れたあと。
美月は自宅の部屋に戻ると、机の引き出しを開けた。
奥にしまっていた、一冊のスケッチブック。
表紙には、少し色あせたシールが貼られている。
中学生のころ、毎日のように持ち歩いていたものだ。
美月はページをめくった。
描きかけの街。
空を飛ぶ船。
見たことのない景色。
どれも、今よりずっと幼い絵だった。
けれど、その一枚一枚に、当時の自分が何を考え、何を夢見ていたのかが残っていた。
最後のページには、鉛筆で書かれた短い言葉があった。
『いつか、自分の絵で世界を作りたい』
美月は、その文字を指でなぞった。
胸の奥が、少し痛んだ。
諦めたつもりだった。
もう忘れたつもりだった。
なのに、湊と話していたら、昔の自分がまだ心の中にいるような気がした。
「……もう一回だけ」
誰もいない部屋で、美月は小さく呟いた。
「もう一回だけ、頑張ってみよう」
彼女はスケッチブックを机の上に置いた。
そして、新しいページを開いた。
真っ白な紙。
そこには、まだ何も描かれていない。
未来と同じように。
美月は鉛筆を手に取った。
最初の一本の線を引く。
それは、ほんの小さな一歩だった。
けれど、彼女にとっては、長い間閉じていた扉を開く一歩だった。
*
同じころ。
湊のスマートフォンには、ORACLEから新しい通知が届いていた。
『行動履歴に基づく進路適性を更新しました』
湊は画面を開いた。
推奨進路は、以前とほとんど変わっていない。
しかし、下部に小さな注意書きが表示されていた。
『最近の行動傾向に変化が見られます。将来予測の精度が一時的に低下しています』
「……なんだ、これ」
湊は眉をひそめた。
たかが、クラスメイトと話しただけだ。
文化祭の企画を考え、一緒に帰り道を歩いただけ。
それなのに、なぜ行動傾向が変わったのだろう。
もちろん、誤差の範囲かもしれない。
しばらくすれば、いつもの数値に戻るだろう。
湊はそう考え、画面を閉じた。
けれど、その夜。
いつもなら迷わず選んでいた進路について、初めて考えた。
自分は、本当にそれをやりたいのだろうか。
それとも、正しいと示されたから選ぼうとしているだけなのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、これまで一度も浮かばなかった疑問が、頭から離れなくなっていた。
そして、ORACLEの予測モデルはまだ知らなかった。
朝倉湊の行動を変え始めた原因が、たった一人の少女との出会いだったことを。
未来を予測するシステムにとって、誰かを好きになることは、まだ説明しきれない変化の始まりだった。




