1-3. Request taxi
そこから僕が砂の地面とキスすることになるまで、五秒もかからなかった。
彼女はベンチに座る僕の姿を認めるや否や、革靴を履いているとは思えない猛ダッシュで遊具エリアに駆け込み、ベンチに座る僕めがけて走ってくると、その勢いで僕の顔面に飛び膝蹴りを喰らわせた。僕がベンチからつんのめって転げ落ちたところを、彼女は僕の背骨を膝で押さえ、僕の右腕を捻り上げた。
「貴様も「敵」か?」
彼女は耳元で鋭く囁いた。香水の甘い香りが鼻をくすぐり、吐息混じりの声が耳をざわざわと撫でる。そのくせ骨がギリギリと軋み、肉体は冷たい砂に押し付けられている。ちぐはぐな感覚のせいで、彼女の質問の意図を理解するのにわずかなラグが生じた。
「……な、なんだって?」
「貴様も「敵」かと聞いている。答えろ」
僕の返答にラグがあったのと僕がそう訊き返したのとで、彼女は僕を余計に疑ったのかもしれない。僕の腕を捻る手に力がこもった。
「違う違う違う違う! 僕はここを散歩していただけです!」
僕は痛みに耐えつつ叫んだ。
「貴様の身分を確認させてもらおうか」
「な、なんで」
「陸軍情報部捜査官特権」
「り、陸軍?」
僕は無理やり首を捩って、彼女の顔を拝もうとした。
「本当に? 本当なら、先に身分を証明してほしいんですけど……ッ」
「現状は緊急発生調査につき、質問に答える義務はないな。警安法で義務付けられているはずだが、身分証はないのか?」
そう言って彼女はさらに腕に力を込めた。肩が外れるかと思うくらいにギリギリと悲鳴を上げている。コテツは困惑したようにうろうろと僕の周りを歩き回っている。威嚇すらしないとは、こういうときに仕えない奴だ。
「ポケット……ズボンのポケットに個人番号カードが!」
「どっちだ?」
「左のポケットのパスケースに!」
彼女は空いている手で僕のポケットをまさぐると、安価な革のパスケースを取り出した。空白の時間。個人番号カードを眺めている――か、スキャンでもしているのだろう。
「宗像巧馬、十六歳。十一月五日生まれ。血液型はO型。広島市北区にて出生登録、十二年前に福岡市中央区にて転入履歴登録済み。現在は掛笠高校の二年生、か……」
彼女は柔らかな声で、僕の生体情報を淡々と読み上げる。この世界において個人情報はまさしく電子情報でしかない。それは国家の利益に供するものと判断されれば、いとも容易く暴かれ、共有され、あるいは、秘匿される。それが、この時代の暴力。
彼女はそれぎり黙っている。個人番号カードの内容を値踏みしているのだろうか。
木々の向こうから機動隊の怒号が相変わらず聞こえてくる。それに交じって、別のサイレンが近づいてくる。救急車のようだ。この季節だし食中毒でも発生していたのだとしたらとてもいい気分だ。僕の腕をこうやって無許可に締めあげるような女を育成する部隊を取り仕切っているハゲちゃびんのメガネジジイが、腹痛とゲロに苦しんでトイレで蹲っている姿を想像する。あまりに人間的であまりに滑稽だ。あるいはしばしばニュースで目にする急性アルコール中毒とかであっても面白い。どれだけ偉ぶった人間も、所詮は一個の人間だ。政府高官の中に肝臓のキャパシティを見誤るような間抜けが混じっているとも思えないがたまには間抜けが紛れ込んでいてもいいだろう。とにかく読み通し終えたのであればさっさとカードを返してくれ。
「……ふむ。「敵」ではなさそうだな。勘違いしてすまなかった。散歩の続きをしていいぞ」
彼女は形式的な謝罪の言葉を吐き出して、僕を解放した。背中が軽くなったのを確認してよろよろと立ち上がり、前に後ろにぐるぐると右肩を回し、筋がイカれていないことを確かめる。
僕がベンチで飼い犬を撫でている間、木々を隔てた向こうには、僕らのプライバシーをチリ紙同然に扱えるやつらが酒を酌み交わしていたのだ。僕は自分の平和ボケ加減を憂いつつ、足元に抛られたパスケースをポケットに戻す。コテツが僕を心配するように、尻尾を振りながら足元に顔を擦り寄せてきた。
彼女は僕の前を通り過ぎ、そのまま何食わぬ顔で誰もいない遊具エリアから池を囲む歩道へ出ようとしている。
「おい」
僕は無性に腹が立っていた。
「人のこといきなり蹴り飛ばして、腕を締め上げて、生体情報を公共の場で取り上げる。それなのに勘違いと分かっても謝罪もないのかよ」
彼女は歩みを止めない。軍人には一小市民に関わっている暇などないとでも言いたげだ。立ち止まらない背中に皮肉の一つでも言ってやりたくなる。
「軍人ってのは、そんなに偉いもんなんだな。僕もなってみたいよ」
彼女は立ち止まって振り向いた。ハーフアップにまとめた焦茶色の前髪を、彼女は鬱陶しそうに指先で分けた。やおら現れた鳶色の大きな瞳から、射貫くような視線が僕に向かって放たれる。
「すまなかった」
彼女があまりにも素直に謝罪の弁を述べたので、僕は逆に面食らってしまった。
「いや……まあ、別に」
傍目には完全に危害を加えられた側なのに、尻すぼみの声しか出せないのが何とも情けない。僕はせめて、彼女が何者なのかくらいは知ってもいいだろう、と思った。
「……あんた、本当に軍人なのか」
「ああ。陸軍情報部所属――その先は明かせないが、そうだ」
「名前は? それに、いくつだ? 僕にはどうしても、あんたが僕と同い年くらいに見える」
「――オトヒメ。君と同じく高校二年生だよ、宗像君」
「オトヒメ……?」
冗談だろ、と言いかけた時には、既に彼女は僕に背を向けていた。そうして、追撃の質問など許可しないとでも言いたげに、すたすたと歩き去っていってしまった。
陸軍情報部所属。
同じ高校二年生。
名は、オトヒメ。
言い残して、オトヒメは去った。
その言葉と行動の一連が、よくできた薄っぺらでチープなドラマの主人公のプロフィールのようだった。すべてが嘘くさかった。
オトヒメが去って空っぽになった遊具エリアに、救急車のサイレンだけが木霊していた。思い出したように、右の頬がズキズキと傷み始めた。その音と傷みの余韻すらも、ぼくには作り物のように思えた。




