1-1. Fukuoka Ground, request pushback.
青鹿毛のプラウマンの腹をポンと軽く蹴って、外周をゆっくり走らせていると、雲間からオレンジ色の夕陽が差して、僕は気持ちばかり、ヘルメットを目深にかぶった。わずかしか効果はなかったが、それでも幾分かは邪魔が減った。
馬に乗っている者にとって、急に視界を遮る陽光は、時として何よりも危険な存在となる。馬の動きを全身で感じているとはいえ、その走りと跳躍とを同期させるために、それでもなお視覚を通じた情報に頼っているからだ。
「宗像先パ~イ! いつでもどうぞ!」
反対側の牧柵の向こうで、中学二年の苅田琳が、ヒグラシに負けじと大声を張り上げた。僕はそれに軽く手を挙げて答え、プラウマンを走らせる。十歳騙馬、老練の彼は僕の指示に応え、滑らかに速歩から駈歩へと移行する。
馬場の内側から外側をぐるりと回る。陽光が背後に回って、途端に視界はクリアになる。
遠くからバラバラとヘリのローターの回転音が聞こえてくる。
プラウマンの鼻息がブフッと音を立てる。
僕は気持ちばかり手綱を引き締めた。彼の足並みのリズムがわずかにズレるが、すぐに膝を使って合わせに行く。タカタン、タカタンと一定のリズムを刻みながら、周囲を大きく回る。カーブの先に第一の障害がある。高さは九〇センチメートル。
バーまで残り、三、二、一。
余裕を持った踏切。ふわりと体が浮く。
黒いたてがみが慣性に従って伸びあがる。僕を無音が包む。
この間およそ〇・五秒。
伸びた前足がタタンと砂を捕らえた。ふたたびセミが鳴き始めた。
「どうだった、タイムは?」
インターハイを想定したコースを一通り走り終えると、ストップウォッチを右手に、バインダーを左手に抱えながら、琳が走ってきた。鞍から降りて、プラウマンの首筋を労いを込めて軽く叩きながら、僕は琳に聞いた。
「五二秒七七、全然ヨユーです! ここ最近はずっとタイムも安定していますし、流石は宗像先輩ですっ」
バインダーと僕の顔とを目線が行き来するたびに、琳のポニーテールがわさわさと揺れた。今年の春にマネージャーとして馬術部に入部した、童顔が可愛らしい、その割に長身の女の子。一時はアイドル研修生だとかいう噂も流れていて、それに妙な説得力があるほどの美人だから、マネージャーというポジションがあまりにも板についていた。
「ありがとう。タイムは二の次だから、あまり囚われてもしょうがないんだけどね」
プロテクターの留め具を外し、ヘルメットを脱ぎながら、僕は苦笑した。
僕と軽くハイタッチを交わし、同じく高校二年で馬術部主将の浮羽恵がプラウマンに跨った。恵のタイムは、一年の深江達也が計っている。掛笠高校・中学校の馬術部員は、留学により休部中の一人を加えて五名。つまり今正式に活動しているのは、僕、恵、達也、そして琳の四名。
一五〇〇名を超える全校生徒の三〇〇分の一にも満たない。
琳が入部するとなったときはよほど盛り上がったものである。しかし当の彼女は、競技の得点ではない他の所に興味があるらしかった。
「タイムが二の次って……そうでしょうか?」
「うん。いつも言っているけど、障害飛越競技で大切なのは、どれだけ減点が少ないか、だよ」
「総合点ですもんね」
「ああ。タイムオーバーしないことはもちろん大切だ。でもそれ以上に、障害物であるバーを落とさないこと、そして究極、乗っている馬がライダーの指示をきちんと聞いてくれることの方が大切。何しろ減点の幅が違うからね」
「へえ、そうなんですね……」
「……っていう説明、何度かしていると思うけれど」
「あはは……ルールとか小難しいこと覚えるの、苦手なんで」
琳は気まずそうにぽりぽりと頬を掻いた。そのちょっとした仕草すらも絵になるのだから、美人ってのは何かと大変だ。
とはいえ、副主将として、甘やかせないものもある。僕はちょっと顔を顰めた。
「あのなあ……確かに今年入部してくれてありがたいけれど、琳はマネージャーだろう? 全日本まであと一か月ちょっとだし、競技のルールとか審査規定は、早いうちに一通り覚えてほしいな」
「むぅ」
琳はわざとらしく頬を膨らませた。大抵の男子生徒はこれ一発で頬と鼻の下がだらしなくなるのだが、僕はそうはいかない。何しろ彼女はずっとこんな調子なのだ。
「そんな顔するなよ。お前にはこれから、ウチの馬術部を支える立派なマネージャーになってもらわないといけないんだから」
「でもでもっ」
琳は負けじと、ずいっと顔を突き出して反駁した。
「私は減点とかのルール以上に、フォームとか人馬のコンビネーションとか、そういう美しさの方を大事にしたいんです! 特に宗像先輩のフォームは私にとって理想ですからっ!」
「……」
彼女はなぜか、僕のフォームをやたらと褒めたがるのだ。こうなった彼女は止まらない。競走馬がジョッキーの指示に反して逸走してしまうみたいに、自分の感じるまま思うがままの方向に突っ走ってしまうのだ。
「わかったわかった。わかったけど、勉強もしっかり頼むよ。それが僕らは一番助かるんだからさ」
「ちぇー。頑張りますよ。融通効かないんだから」
「何か言った?」
「何も言ってないでーす」
そう言って、琳はべっと小さく舌を出した。僕が呆れてため息をつくと同時に、誰かが僕の背中をバシッと叩いた。
「おー、まーた苅田をいじめてんのか、宗像?」
年の割に野太い声に、僕は内心顔を顰めた。このやりとりを見て「いじめている」なんて評するのはこの人くらいだからだ。
馬術部顧問の香春先生。苗字はいかにも美人然としているのに、その実態は四十代のおっさんである。僕が恨めし気に振り返ると、先生はガッハッハと哄笑した。額にこびりついた古い火傷の痕が何かの生き物のようにぴくぴくと波打った。どうみてもその年代の笑い方ではない。前職の軍隊仕草がいつまでたっても抜けていないのだ。
「別にいじめてなんかないですよ」
「おうおう、男はレディを立てるために生きているんだぜ。紳士としての心がけが足りないのではないかな、宗像クン?」
香春先生はわざとらしく片方の眉を吊り上げた。
「先生ェ聞いてくださいよォ、宗像副ブチョーったら容赦全くないんですよ、私ついこないだ乗馬の世界に入ってきたのにィ!」
「それはお前が勉強不足だからだろ」
「アイタッ! それを言われるとそれはそうなんですけど!」
「先生お分かりですよね、僕は真っ当なアドバイスを後輩にしているだけだってこと」
「アドバイスゥ!? 殺傷力高すぎですよ!?」
琳は素っ頓狂な声を上げた。僕と香春先生がちょっと引いてしまうほどに。
「そうか?」
「アドバイスって身になるけどちょっとチクチクするもんじゃないですか、針みたいに、フツー。宗像先輩のは包丁、いや刀ですよ! ズバッと斬られて死んじゃいますもん!」
「死にたくなければ鎧と躱し方を身に着けておくことだね」
「ウゲェ! どこまでも容赦ない! 先生ェ~~ずっとこんな調子なんですよお」
「いいんじゃないか、夫婦漫才みたいで」
香春先生は神妙な顔をして言った。腕を組んでウンウンと唸りながら頷いている。僕は呆れて背中を丸めた。ここまでくると本当に教育者かも疑わしい。国防軍の退職金で教員免許を買ったのではないかとすら思う。
「やめてください。セクハラですよ?」
「私は一向に構いませんけどねっ」
琳はすぐこういうことを言うのだ。僕はその日一番のため息をついた。
その時、またバラバラというヘリのローター音が頭上から響いて、空気を震わせた。前後で二台のローターを持つ、胴長の輸送ヘリ。CH-47。通称チヌーク。春日基地から飛んできたのだろう。褪せた緑と茶色の迷彩色で粧した機体が、キラキラと明滅しながら、薄青色の空をのっそりと滑り、そして太陽の中へ消えていった。
「……最近多いですね、輸送ヘリの往復」
琳が空を見ながら言った。僕もチヌークが消えていった方を見ていた。
「今日だけでも四往復目だっけな」
「数えてるんですか?」
「多けりゃ、気になるから……」
「……やっぱり、テレビで言ってるみたいに、近いんですかね。戦争」
「さあ――どう思います、先生?」
「どうだろうな。戦争ほど矛盾したものはないから分からんよ」
「でも、先生は征っていたんでしょう、戦争に?」
琳がぽつりと聞いた。先生は肩を竦めた。
香春先生は国防空軍のパイロットだった。噂程度だが、東シナ海沖の空戦で「敵」と戦い、相打ちになったらしい。
この世界には、正体不明の「敵」がいる。その正体は、誰も知らない。誰も知らない敵と戦うために、大人たちはまた戦争の準備をしている。
「戦争に征ったことと、戦争を分かることは別モンさね。誰も戦争を望んじゃいないはずなんだが、戦争をしていなきゃやってられない奴らが時折湧いてくる。俺は、もう戦場に戻る気はさらさらないからこうして教員をやっているんだがね。火山が噴火するみたいに、突如として……」
先生は強張った顔で言った。戦場で起きていたことを思い出していたのかもしれない。それは、きっと僕が知ることのない――あるいは知りたくないと願っている――景色だ。戦争の片鱗に人生の大部分を掠め取られてしまった僕は、ますます世界を知りたくないと思っているんだと思う。
背後でぶるるっという鼻息が聞こえた。恵を乗せたプラウマンが帰ってきたのだ。
「どうだった?」
僕は振り返ってこともなげに聞いた。恵は首筋をポンポンと叩いてプラウマンを労っていたが、ヘルメットの下の顔は悔しげに歪んでいた。
「チヌークのローター音で集中が切れたみたいだ。二本落としちまった」
恵が馬を降りたので、僕は鞍を外しにかかった。
つい数年前に戦争が終わったばかりなのに、また戦争の話を聞かされるのはごめんだった。




