3-2. time 0555, 32, 130, FL340, estimating 32, 130, 2130.
枕元の時計は、午前六時五分前を指していた。
夏の朝は早い。すでに白い太陽が山の向こうから顔を見せ、私たちが寝泊まりする牧場の離れの一角を燦燦と照らす。遠くでシャワシャワというクマゼミの鳴き声が木霊している。隣を見ると、少し前に友人になった彼女は、太陽に背を向けてすうすうと寝息を立てていた。私も彼女も、ここは初めて来る場所だし、昨日の午後はほとんど掃除に時間を使ったから、まだ少し眠り足りないのかもしれない。
私はそっと布団を抜け、ハンドタオルを片手に、障子を開けて部屋を出た。
太陽もセミの声も、夏にしか見えない聴こえないものなのに、廊下がひんやりとしているせいで、どうにも不思議な感じがしてしまう。
洗面台のスイッチを押すと、蛍光灯が鏡に映る私の顔を照らした。
昨晩、何度も頭の中を渦巻いていたたった一つのことを、私はぼそりと口に出す。
今日、私は――苅田琳は、想いを打ち明けます。
大好きなあの人に。
言葉にした瞬間、首元がかっと熱くなる。自分で決めておきながら、恥ずかしさがまだ勝ってしまう。
なぜ、今日? ――今日でなければ、間に合わないかもしれないから。あまり考えたくないけれど、侑里ちゃんに獲られてしまうんじゃないかと思うから。
侑里ちゃんは最近私の友達になってくれた。学年も年も私より三つ上だけれど、そんなことはまったく気にしないで私に接してくれる。そういうところが私は好きだ。一人っ子の私にとって、本当のお姉ちゃんみたいに甘えられる存在で、同時に、友達の少ない私にとって、ほとんど唯一の本心を打ち明けられる存在。可愛くて、優しくて、頼りになる存在。
――けれど、どうしても気になることが二つある。
宗像先輩と同じクラスということと、宗像先輩と秘密を共有しているということ。
どちらも仕方のないことだ。クラスなんて運でしかない。秘密の共有だって、きっと何かの偶然なのだろう。とはいえ、その秘密はあまりにも大きすぎる。私は二か月くらい前にとある事件に巻き込まれて、その結果侑里ちゃんの左腕の秘密を知ってしまったけれど、あんなこと、口が裂けても誰にも言えない。ほとんど実験みたいな形で、身体を改造されてしまっている。私はその点で侑里ちゃんはほんとうに気の毒だと思う――思う、のだけれど。
宗像先輩と侑里ちゃんがその秘密を共有していたのが悔しい。二人にしか分からない秘密。二人にしか分からない言葉。二人にしか分からない世界。それはきっと、いつか二人を引き合わせて、強引に結びつけてしまうかもしれない。
それは、いやだ。
だから私は、今日――言わないといけない。
そこへ、からりと障子の開く音がした。侑里ちゃんが起きたのだろう。私は慌てて蛇口をひねる。掬い上げた水はひんやりとしていて、少し夢見心地が残っている顔の火照りをさっぱりと流し去ってくれる。二、三度洗うと頭が冴えた。肩に乗せていたタオルで顔を拭いたところへ、
「おはよう。いい天気でよかったね」
侑里ちゃんが背中から声を掛ける。
侑里ちゃんはもしかしたら、私が告白することなんて、何とも思わないかもしれない。軍人だし、宗像先輩に秘密を話しているのも、何かの任務の関係で仕方ないことなのかもしれない。でも、もしかしたら、侑里ちゃんだって、宗像先輩をちょっとずつ好きになっていくかもしれない。もしかしたら申す気になっているかもしれない。
でも、私だって譲れない。だから私は、ずるいと分かっていても、手を伸ばす。
私はタオルから顔を上げて、鏡越しに侑里ちゃんの顔を見る。ぼさぼさの神の中から、綺麗な白い顔が見えている。私は振り向いて、
「おはようっ! 今日も頑張ろうねっ」
と返して場所を開ける。ありがとう、と言いながら侑里ちゃんは長い髪をまとめ、洗面台で顔を洗う。
私はなぜかドキドキしている胸を押さえながら、そっとその場を後にした。
◆
「巧馬、あとは頼んだぜ」
「おお、任してくれ……ってか、先生は?」
「昔の同僚と会う用事だって言ってたよ」
掃除を終え、僕と入れ替わりで厩舎を出ようとする恵に尋ねると、彼は苦笑しながら答えた。
「生徒を置いて一人だけ外出ってワケか」
「言ってやるなよ。先生は元軍人だし、一筋縄じゃいかないんだろうさ。俺たちには分からんよ。おやすみ」
恵は肩を竦めて部屋に戻っていった。
昨日は恵が、今日は僕が夜の飼葉を注ぎ足す当番だった。納屋から運んできた青草を飼葉桶に注ぎ足して馬房に戻すと、青草のぷんとした強い香りに引かれて馬たちがのそのそのと顔をこちらに向けてくる。八頭の馬たちに飼葉を足し終えて厩舎を出ると、空はすっかり紫色に変わっていた。西の方の少し高い辺りに、ひときわ明るく輝く金色の星が見えた。宵の明星というやつだ。僕は青草の袋を納屋に戻すと、しばらく星を見つめていた。
嘘みたいにきれいな夜空だった。
思えばこの二か月もまた嘘みたいな日々だった。大濠公園の片隅で乙姫と出会った(というには些か荒々しすぎたが)。そして、偶然か必然か――おそらく後者だろうが――同じクラスになり、そして、戦争を止めるのに協力してほしい、と言われた。結局あの日の答えは、僕はまだ出していない。僕だって、戦争で誰かを喪うなんてことはまっぴらだから、そりゃあ協力できるならしたいと思う。けれど、僕は彼女と比べた時に何も持っていない。軍人でもないし、世界を背負って戦うほどの気概もない。僕は僕の周囲にいる人たちに生きてほしい。それだけだ。だからそのためだけに協力するのは違うと思う。僕よりもよほど優れた人間……身体でも、頭脳でも優れた人間はたくさんいるのだ。彼女が僕に助力を乞うた理由は全く分からない。
答を出さないままに、彼女はいつの間にか僕と同じく馬術部に入っていた。琳が引き入れたのだ。当初は戸惑っていた乙姫も、馬に慣れ、馬術に慣れ、馬術部に慣れていった。
僕はふと考える。このまま、僕たちの日常が続いて行けばいいのに、と。戦争は起きない。乙姫の左腕の秘密も、学校では僕と琳以外誰も知らない。夏の競技会と冬の交流試合、そして来年夏の競技会を終えて僕らは引退する。達也が次の世代を引き継いでくれるだろう。僕らは大学を受験する。僕はきっと、どこか遠いところの大学に行く。一人暮らしを始める。乙姫とも、恵とも、きっと離れ離れになる。けれどお互いを思い出しながら、年に一度くらい集まる……。そんな日常が、このまま続いていくれたらいいのに、と思う。
戦争なんてものが近づいていなければ、きっとこういうことを考える機会もなかったかもしれない。
阿蘇――火山と戦火の匂う死の山。ここにはチヌークもブラックホールも飛んでいないが、戦争の残り香がある。「悪魔の一突き」の残り香が……
……と、深入りしていく思考を鼻で笑い、僕は部屋に戻ろうとして、
「あの、宗像先輩」
聞きなれた声が、僕を呼び止めた。振り返ると、琳が立っている。
「どうした?」
「その……ちょっと、星とか見てみたいなって思って」
「ああ、向こうだと星は見えないからな」
「ですです。周りは全部マンションだし、コンビニとかガソリンスタンドとかは二十四時間明かりが点いてますから……わあ」
僕の隣に立って、同じように見上げた琳が嘆息する。
「すごい……空って、こんなに広かったんですね。……あ、あれは分かります、夏の大三角形ですよね、授業で聞きました。あとは……あれ、さそり座ですかね。思ってたより大きいなあ……飲み込まれちゃいそう」
琳が見ている方向に手を挙げて、僕はそのままいくつかの星を指さした。
「その左隣にあるのがいて座、いて座の真上にはへびつかい座がある。あのでっかい台形みたいなやつ」
「先輩、星座も知ってるんですね」
「ちょっとだけね。お袋が教えてくれたから」
「……なんか、すみません」
「いいんだ。もう何年も前のことだし」
「なんだか……現実じゃないみたいです。こんな夜空が見えることがあるなんて」
「現実じゃない、か……」
実のところ、本当にそうだと思う。僕が今見ている夜空は、本当に、自分が知覚している空なのだろうか。夜空は手に届かないし、触れられない。けれど、星々の明かりは、確実に僕たちの目に届いている。
ふと、その奇妙な距離の差に、不思議な心地よさを覚えていることに気が付いた。




