there was a boy.
そういうわけで、僕たちは父の知り合いの牧場主、筒香さんに頼み込んで、家族四人で泊めてもらっていた。牧場主は父の大学時代からの知り合いで、父は彼のことを「自分より頭が切れる」と褒めそやしていた。彼は突然内務省を辞職して、知り合いの誰もない阿蘇で、独身を貫き、ひっそりと牧場経営をしているのだそうだ。
その彼から借り受けたミンネゼンガーと、僕は十分ばかり草千里を走り続けた。
午前八時半。東から昇った太陽はすでにそれなりの高さまで来ていたが、ここは標高が高いので、随分と涼しい。ひんやりとした風が首元を通り過ぎて、むしろ少し肌寒いほどだった。
どこまで行っても終わることのない、どこまでも続く空と山と平原。満員の地下鉄の中で、雑多な情報のノイズを遮断するためにBCIの防御壁のバージョンを確認する必要が一切ない、純粋な『空間』。すべてがフィクションのようだった。
しばらく彼女をトコトコと走らせていると、丘の向こうから広大な池が顔をのぞかせた。冷風が吹き抜ける度に水面にさざ波が立った。水面に映る深緑色の山肌が震えていて、寒さに耐えるているようだった。八月も始まったばかりだというのに、『寒さに耐えているよう』だなんて、おかしな話だけれど。
池の東側の丘はほかの丘よりも高かったので、僕は折角だから昇ってみることにした。ミンネゼンガーの向きを変えてやると、彼女はちょっと嫌がる素振りを見せたが、仕方ないな、とでも言いたげに、しずしずと斜面を登り始めた。
ミンネゼンガーは少々特異な経緯を持つ馬だ。競走生活を引退した後、一度は繁殖入りしたものの、すぐに乗馬として引き取られることになった。どの馬でも受胎せず、検査してみたところ染色体異常が発覚したのだという。だから妊娠と出産という大きな負荷が体にかかることがなく、同じ年齢の他の牝馬たちに比べると、かなり若々しいのだそうだ。
「こいつは人が好きだから、ある意味好都合かもな」
昨日の昼、筒香さんは彼女をブラッシングしながら、そう言っていた。僕はその時、人間って勝手なんだな、と思った。自分たちで勝手に走らせて、それでだめそうなら、次の世代のために繁殖に使って、それでもだめなら、次は乗馬。僕はミンネゼンガーのことを、ちょっとかわいそうだと思った。僕の顔を見て、筒香さんは苦笑した。
「言いてえことはわかるぜ。可哀想だと思うかい?」
「まあ、少しは」
「そいつを思うのは勝手だ。でもな、ヒトと暮らしてる大概の動物は、ほとんどがヒトの都合で生かされてんだよ。だとしたら生かしてる俺らは、そいつらが不快に感じる瞬間を少しでも減らして、俺たちからの愛情を少しでも多く受け取れるようにしてやんないといけない。それが俺たちの責任なんじゃないかと、俺は思うんだよね」
「愛情……って、わかるんですか、馬も?」
「こいつらは俺たち以上に素直で感情的な生きモンだ。仲良い奴が来たらすぐベタベタするし、仲の悪い奴が近くにいたら耳を絞るし前掻きをする。ひどいときは後ろ足で蹴りにくるからな。お前さんがそうされてないってことは、少なくとも敵だとは思われていないんだと思うぜ」
「……僕は、この子と仲良くなりたいです。せっかくなら」
僕は、三日月形の流星が輝く彼女の額を撫でた。ブルルッと鼻息が揺れた。
「仲良くしてやんな。人と馬は、一緒に走った分だけ仲良くなるものさ」
筒香さんはそう言って、僕をミンネゼンガーに乗せてくれた。素直な馬だった。半日乗っているうちに僕の指示を素直に聞くようになってくれた。
丘の頂上まで続く斜面はそれなりの傾斜がついていたけれど、ミンネゼンガーは何食わぬ顔で登っていった。僕が途中で降りようとすると、その度に彼女はこちらを向いてきた。あんたみたいな子供に心配されるほどヤワじゃないわ、黙って乗ってなさいとでも言われているみたいで、僕は観念して彼女の背に跨っていた。
そうこうしているうちに頂上に着いた。
丘の頂上から見晴るかす阿蘇山は、麓の草原から見るそれとはまったくの別物だった。気のせいかもしれないけれど、五倍くらいは近くに感じた。山と目が合ってしまったような、そんな不思議な感覚がした。
「お前、いいな。こんな景色を観ていたのか」
僕は思わずそう言った。足元のミンネゼンガーに向けて言ったつもりだった。ところが、当の彼女は器用に首を伸ばして足元の小さな白い花をもさもさと食んでいる。見飽きたのかもしれない。僕は苦笑して、再び山に目を向けた。
じっと見ていると、山肌が津波のように僕の方に迫って来るような気がして、僕は眩暈を覚えた。鞍には当然背もたれなどないから、バランスをくずしたらそのまま落馬する。運が悪ければ、踏まれて胸が物理的に潰れちまう。やばい、と思ったけれど、ミンネゼンガーが体をよじってくれたので、どうにか意識を取り戻した。
賢い馬だ、と思った。
そういえば、父さんはどこを走っているのだろう。花穂と母さんはポニーの方で楽しんでいるだろうか。僕一人だけが勝手に突っ走ってしまっていた。
「そろそろ帰った方が良いかもしれないかな」
僕はミンネゼンガーにぼやくように、独りごちた。
その時、耳の奥を、強烈な高い音が貫いた。
音、というよりは、ノイズに近い、キィーンという高周波。
頭の内側を針でチクチクといじられるような、不快なノイズ。攻性電波と呼ばれるソレは、防御壁のアップデートを忘れていると、ごくまれにBCIを通じて僕らの中に入り込んで来ようとする。BCI技術が登場した五十年ほど前からずっと、攻性電波と防御壁の改善はいたちごっこを続けていた。
「敵」の攻撃は、いつも僕らの脳にめがけて飛んでくる。
僕は項に埋め込んだスイッチを軽く触って、BCIの電源を強制シャットダウンした。
――それにしても、と思う。
こんな山奥(というには開け過ぎた場所だが)にも、攻性電波を垂れ流す奴がいたのか。戻って防御壁のバージョンを確認しておく必要があるかな。
ミンネゼンガーの手綱を引いて、首を後ろに向けた。
丘のふもとに人が倒れていた。
僕は駆け寄った。
父さんだった。電流を流されたようにびくびくと痙攣していた。
言葉が出なかった。
助けを呼ばなきゃ。
母さんに知らせなきゃ。筒香さんにも。ポニーの柵にいるはずだ。
僕は馬を飛ばした。
馬を飛び降り、二、三歩走って、よろめいた。さっきの攻性電波の影響か。僕は頭を振って立ち上がり、壁伝いに厩舎の裏に回った。
「母さん!」
僕は絶句した。
母さんも倒れていた。仰向けになってガクガクと震えている。筒香さんも辛うじて柵につかまっていたが、やがてどっと地に臥した。引手を失ったポニーはぬぼーっとした顔でその場に立ち止まっている。訳が分からない花穂はポニーの首元をぺちぺち叩いている。
周りに人はいない。
当たり前だ。
内務省と陸軍が特別に許可した観光だから、僕ら以外に人はいないのだ。
つまり、助けは、こない。どれだけ大声で叫んだとしても、聞こえるはずがない。
行く当てもなかった。
ここはもともと、父さんの知り合いがいるというだけの場所だ。
僕にはどうすることもできなかった。
緩やかに生命の信号が弱まっていく大人たちを見ながら、僕は妹の手をずっと握っていた。




