day aside: summer boots up.
ただいま、とマンションの扉を開けると、ふわりと味噌の香りがする。母さんが作る夕食の味噌汁の香り。俺は靴を脱ごうとして足をそろえる。玄関が広い。いつもあるはずの、ベージュのニューバランスがない。
またか、と俺は内心舌打ちする。
台所の母さんに顔を出しがてら、俺は分かり切ったことを尋ねる。
「姉ちゃんは?」
「今日は帰らないって。明日のお昼くらいに帰って来るってさ」
母さんもまた分かり切った答えを返す。これは意味のない会話だ。お互いに事実を確認しあったに過ぎない。
姉の明里は、このところ頻繁に出歩くようになった。小耳に挟んだのは、研究が忙しいとか、それで大学近くの彼氏の家に泊まるようになったとかいうことだ。
それ自体は別にどうでもいいことだ。
問題はそこではない。
「母さん、何も言わないの? 姉ちゃんには……」
「まあ、大学院も半分学費を自分で出してるからねえ。明里の人生だし、明里が好きなようにさせてあげていいんじゃない」
「そこじゃないよ。姉ちゃんの彼氏とかいう人の……」
母さんは俺の方を振り返った。
「――ああ、軍人さんのね……」
母さんはそう言って苦笑した。
「まあ、そこも明里の好きにさせたらいいわよ。一度会ったけれど、悪い人じゃなさそうだったし。変な男だったら明里の方から別れるでしょ。長女だから、年上の男の人に甘えたいんじゃないの」
ほら着替えてきなさい、と言って、母さんは鍋に目線を戻す。
自室の扉を閉めて、俺は考える。
心なしか、最近母さんの顔回りにシワが増えた気がする。
母さんの心労は確実に増えていると思う。
その原因の一端は、確実に姉にある、と俺は思っている。
俺たち家族――特に俺が軍人に対して好印象を抱いていないのにも関わらず、それに対する当てつけや見せつけのように、軍人の男を捕まえて彼氏だとかなんとか言っている。
だが姉を誑かしたその軍人も大概だと思う。姉は十九だが、十九の女を捕まえる二十五の男に碌な奴はいない。
幸か不幸か、俺はその男と会ったことはない。顔を合わせたら何を言ってしまうか――あるいは、何をしてしまうか分からない。いくら国家公務員だからといって、個人の思想信条を妨げることはできないからだ。
――と、視界の右上にメールのアイコンがポップアップする。
夏前のこの時期に連絡を寄越す人には、たった一人、心当たりがある。
俺はメールを開きかけて、
「恵、冷めないうちに食べちゃいな」
と台所から声を張り上げる母さんに遮られる。
「うん、すぐに」
と俺も声を張り上げる。
異様なほど心臓がバクバクと鳴っている。今しがた届いたメールが理由だということは、俺自身がよく知っていた。
夕飯の後にメールを開こうとリマインダをセットする。手早く服を着替えて向かう先は、母さんが一人で待つ台所。
俺はこの暮らしを――母さんと姉ちゃんが、二度と哀しく寂しい思いをしないでいい暮らしを守るために、鬼にでも修羅にでも、なる覚悟がある。
だがそれを悟られてはいけない。
だから今夜も、浮羽恵は、普通の男子高校生の仮面を被る。
今年の夏は、忙しいことになりそうだった。




