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空と陸の共震  作者: 有明 榮
プロローグ

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19/25

day aside: summer boots up.

 ただいま、とマンションの扉を開けると、ふわりと味噌の香りがする。母さんが作る夕食の味噌汁の香り。俺は靴を脱ごうとして足をそろえる。玄関が広い。いつもあるはずの、ベージュのニューバランスがない。

 またか、と俺は内心舌打ちする。

 台所の母さんに顔を出しがてら、俺は分かり切ったことを尋ねる。

「姉ちゃんは?」

「今日は帰らないって。明日のお昼くらいに帰って来るってさ」

 母さんもまた分かり切った答えを返す。これは意味のない会話だ。お互いに事実を確認しあったに過ぎない。

 姉の明里(あかり)は、このところ頻繁に出歩くようになった。小耳に挟んだのは、研究が忙しいとか、それで大学近くの彼氏の家に泊まるようになったとかいうことだ。

 それ自体は別にどうでもいいことだ。

 問題はそこではない。

「母さん、何も言わないの? 姉ちゃんには……」

「まあ、大学院も半分学費を自分で出してるからねえ。明里の人生だし、明里が好きなようにさせてあげていいんじゃない」

「そこじゃないよ。姉ちゃんの彼氏とかいう人の……」

 母さんは俺の方を振り返った。

「――ああ、軍人さんのね……」

 母さんはそう言って苦笑した。

「まあ、そこも明里の好きにさせたらいいわよ。一度会ったけれど、悪い人じゃなさそうだったし。変な男だったら明里の方から別れるでしょ。長女だから、年上の男の人に甘えたいんじゃないの」

 ほら着替えてきなさい、と言って、母さんは鍋に目線を戻す。

 自室の扉を閉めて、俺は考える。

 心なしか、最近母さんの顔回りにシワが増えた気がする。

 母さんの心労は確実に増えていると思う。

 その原因の一端は、確実に姉にある、と俺は思っている。

 俺たち家族――特に俺が軍人に対して好印象を抱いていないのにも関わらず、それに対する当てつけや見せつけのように、軍人の男を捕まえて彼氏だとかなんとか言っている。

 だが姉を誑かしたその軍人も大概だと思う。姉は十九だが、十九の女を捕まえる二十五の男に碌な奴はいない。

 幸か不幸か、俺はその男と会ったことはない。顔を合わせたら何を言ってしまうか――あるいは、何をしてしまうか分からない。いくら国家公務員だからといって、個人の思想信条を妨げることはできないからだ。

 ――と、視界の右上にメールのアイコンがポップアップする。

 夏前のこの時期に連絡を寄越す人には、たった一人、心当たりがある。

 俺はメールを開きかけて、

「恵(けい)、冷めないうちに食べちゃいな」

 と台所から声を張り上げる母さんに遮られる。

「うん、すぐに」

 と俺も声を張り上げる。

 異様なほど心臓がバクバクと鳴っている。今しがた届いたメールが理由だということは、俺自身がよく知っていた。

 夕飯の後にメールを開こうとリマインダをセットする。手早く服を着替えて向かう先は、母さんが一人で待つ台所。

 俺はこの暮らしを――母さんと姉ちゃんが、二度と哀しく寂しい思いをしないでいい暮らしを守るために、鬼にでも修羅にでも、なる覚悟がある。

 だがそれを悟られてはいけない。

 だから今夜も、浮羽恵は、普通の男子高校生の仮面を被る。

 今年の夏は、忙しいことになりそうだった。

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