2-5. turn left heading 090.
琳が無言で僕の前を歩いている。さっきまで僕の背中をぐいぐいと押していたのに、一頻り押していくつかの信号を越えると、不意に僕の背中を突き放して、それから無言で何も言わずにすたすたと歩き始めた。
「琳」
僕は言う。彼女は振り返らない。見るからに不機嫌で、僕はその理由まで分かっていた。
「琳ってば」
なおも彼女は振り返らない。どころか、歩調を速めていく――無理しているようにすら見える。那珂川を渡す橋にさしかかる。僕たちは真正面から照り付ける西日を真正面から受け止めながら、暴風に抗うように重い足を引き摺って歩く。
「悪かったよ」
琳は急に立ち止まった。ポニーテールに結んだ長い髪を振り回して僕の前にずいっと近寄ると、僕を鋭く睨め上げる。逆光ではっきりとは見えなかったが、鼻先と目元が赤らんでいたような気がする。
「何がですか」
「…………それは、」
「男の人っていつもそうですよね、何が悪いのか解んないのにすぐにごめん、ごめんって。私は別に、先輩に謝ってほしくなんかないです」
「……ごめん」
「だから、そういうことじゃなくて……っ」
嗚咽を堪えながら琳は顔を背けた。細くて華奢な肩が震えている。彼女は強がっている――あくまで泣くまいとしているのだ。それが、逆に僕を困惑させる。僕は人の機微を感じるのが苦手だ。道行く人々が、僕たちを遠巻きに冷やかしているのがわかる。ノイズのような奇異の目線が視界をちらつき、すぐに消える。
琳は突然走り出した。僕は慌てて後を追いかける。橋を渡って一本奥の角を左へ折れる。しばらく走ってコンビニの角を右に折れた。静かな住宅の間を、彼女は淡々と走り続ける。四つ辻の手前で足を止めると、彼女は電柱に力なく凭れかかった。カーブミラーが夕陽を反射している。周りには誰もない。時折、キイキイと鳴く鳥の高い声が遠くから響く。
「……今日は、もう帰ろうか」
「いやです」
琳は僕を見ずにきっぱりと言った。
「どうして」
「わかんないですよ、私にだってっ」
言うなり彼女は黙ってしまった。僕も何をどう言えばいいか分からなかった。琳もただただふるふると首を横に振るばかりだ。もともと僕たちは、今日は天神のゲーセンに寄って帰る予定だった。ところが今、琳は自分の感情をどうにか整理して片付けることに、僕はどうにか琳を宥めることに手一杯になってしまっている。僕たちは互いに路頭で迷子になっていた。
「……やっぱり、帰ろう。じきに暗くなるから」
「いやです」
「じゃあ、どうするんだ」
「先輩を連れて帰ります、私」
「はあ?」
「――おとといから一週間、家をあけてるんです、ウチの両親。二人とも出張なんだって」
「……僕にだって帰る家があるんだけれど」
琳は右手で自分の左の肩を抱いた。肩越しに赤い目元が覗いている。僕の心臓が、瞬間、跳ねた。彼女は泣いているのを誤魔化すように嗤った。
「いいじゃないですか、勉強してたとかっていくらでも言えますから。慰めてください――ううん、抱いてくださいよ」
「どこでそんな言い方覚えたんだ、まだ十四だろう」
「年齢なんて関係あります? それに私、もう子どもなんかじゃないですよ」
鞄を落とす。次の瞬間には、琳の頭が僕の首元にある。僕の首に腕を回し、二つの膨らみをあからさまに僕に押し付けて、囁くように口を開く。
「私にだって、どうとでも言えるんだから、あの人のこと」
「あの人……乙姫のことか」
「言わないでよ、その名前。私、嫌なんです。先輩があの人と仲良くしているの」
「妬いてるのか」
「違います、もっと……先輩に良くないことが起きそうだから」
「何もないってさっきも言っただろう」
琳は二歩下がり、電柱に背を預けた。声はへらへらと笑っているが、その顔はすっかり泣き腫らしている。彼女は勘違いしている。僕と乙姫の間にはどんな関係性もない。年頃の女の子の妄想だ。だからここでぴしゃりと断りを入れて帰宅してもいいのだが、とはいえ――家路から大きく離れてしまった以上、僕は彼女を置いていくことはできなかった。困ったな、と僕はため息をついた。
「……いずれにしても、帰ろう。送っていく」
「最低ですね」
「さすがに傷つくよ」
僕は手を差し伸べ、琳は諦めたようにそれを取る。
その時。
ガンと殴られたような感覚が脳を襲う。続いて、平衡感覚が激しくシェイクされる。手足を縛られ缶の中に抛り込まれて上下左右からバットで殴られているように、四方八方から脳を揺さぶられる。僕は霞む視界の中に琳が倒れているのを見る。
攻性電波――でも、単なるソレじゃない。指向性の電波兵器。明らかに僕たちに向けられたものだ。込み上げる吐き気を無理矢理飲み下して、僕はBCIの防御壁を起動しようと手を挙げる。
ドン、と殴るような波が鳩尾を襲う。
二発目。僕は耐え切れずに嘔吐する。
三発目。何人かの黒服の姿が見えた。
僕は意識を失った。




