2-3.Rader Contact.
「戦争が近い」
と前置きなく彼女は言った。
「世界の秩序を乱す「敵」との戦い。私たち世界と、世界の敵の戦い」
淡々と、僕に実感の湧かないスケールの話を続ける。僕らは並んでベンチに腰かけている。僕らの間にはちょうど一人分の隙間が空いている。
午後四時半の屋上には誰もいない。生ぬるい風が時折、グラウンドとか体育館からいろいろな音を運んでくる。運動部の雑多な掛け声。吹奏楽部の楽器の音。弓道部の矢が的を射貫く乾いた音。そうしてそれらをかき消して、突如としてヘリの音が割り込んでくる。見なくても分かる、低音でドコドコという独特のリズムを刻むチヌークのローター音。今日三回目の往復だ。
「私は敵の正体を炙り出すために、この高校に潜入した」
乙姫は言った。それは僕の世界とは無縁のはずの話題だ。僕の手の届く範囲内の世界には、存在しないはずの概念だ。――はずだったのに、彼女は僕の世界に侵入し、戦争という概念を、堂々と持ち込んでしまった。
「戦争を止めないといけない。私に協力してほしい」
乙姫は僕を見据えて言った。風に翻弄されるスカートの裾を押さえようともしない。下着が見えそうなほど膝上の白い肌が露わになるが、彼女はまるで気にしない。
彼女はあくまで軍人なのだ。同じ年齢で、同じクラスに所属しているが、彼女と僕は住む世界が違う人間だ。違う世界の人間が僕の世界に入り込むことは、僕の人生では起こりえないはずの出来事だ。
だから、
「断る」
僕は断固として断ることにした。
「なぜ?」
「僕の世界では、戦争は起きていないから」
そう、この世界に戦争は存在しない。この、僕の世界には。
乙姫は呆気にとられたように目を丸くした。もし逆の立場だったら、僕もそうするだろう。
「……実際の世界では戦争が起きようとしている。戦争が起きれば、また人が沢山死ぬ。戦争を止めないといけない」
「戦争は、起きていないんだ」
「現実を見ろ!」
乙姫は叫んだ。
「あなたたちが腫れ物か何かのように扱っている、東日本の人間たちの惨状――知らないとは言わせない」
「ああ。僕は知っている。沢山の生徒が転入しては元居た場所に戻っていくのを、僕はこの四年強、毎年のように見ているから」
「じゃあ、どうして知らないふりをするの」
「知らないふりはしていない。僕はちゃんと、そういう人たちの存在を知っている――でも、彼らは僕の手の届く世界の住人じゃない。僕が手を差し伸べて良い人たちじゃない」
そう、僕の手が届かないところに敢えて手を伸ばしたとしても、僕は何もできない。ならば――僕がわざわざ掴めもしない感触を、敢えて掴みに行って傷を付けるくらいならば――初めから、見守るだけの方が良い。
「僕は君みたいに強くない」
僕は君のような勇気がないから。
「名誉や大義や規範に自分を同質化させて、何か使命を果たしたり、目的のために奔走したりできない――もちろん、必要とあらばある程度同調はするけどね。世界を延長できるほど、僕は器用な人間ではないから――僕は、僕が触れられる世界を守るので精いっぱいなんだ。だから、僕はそういう人たちを知ってはいるけれど、それ以上のことは何もできない」
「戦争が始まれば、そうも言っていられなくなる」
「戦争は僕らの生活と切り離されているんじゃないのか、とっくの昔に終わっているから……。近づいている……という意見は分かるけれど、現に何も戦闘は起きていないし、何も被害は出ていない」
「それは大間違いよ。この世界は、戦争の残り滓でできている」
「戦争の残り滓……」
「電気、通信、運輸、コンピュータだけじゃない。日用品、衣服、食料品に至るまで、私たちの世界には戦争の残り滓が遍く存在している……戦争が技術を向上させたのは紛れもない事実。でも、そこには死ななくてよかった人たちが必ず存在している」
乙姫の瞳は爛々と輝いている――戦争を止めないといけない。戦争で死ななくてよかった人たちは必ず存在している。彼女はおそらく、本気でそう思っている。
「……乙姫の言いたいことは分かるよ。でも、それは僕に関係のある話だと全く思えない。理解はできるが共感できない。共感できないことに、僕は協力できない」
「ロマンチストなんだね」
「笑ってくれてもいい。でも、おなじ方向を向けない人と、上辺だけの協力関係は築けない。それは頼ってくれている人を裏切る行為だから」
「優しいんだ、宗像君って」
乙姫はふっと力が抜けたように微笑んだ。
不覚にも、どこか美しいと思ってしまう僕がいた。
「……その手には乗らないぜ」
ふと、彼女はなぜ軍人になったのだろうと思った。それほど戦争を忌み嫌う人間が、ときに『戦争屋』と嘲笑される軍人になり、戦争を止めるためにわざわざ暗躍しているのは、どこか矛盾している。
「――どうして、君は軍人になったんだ。それも、僕と同じ十代の子どもなのに」
「居場所がなかったから」
もしかして、彼女は僕と同じなのかもしれない。
「なぜ、僕にこの話をした」
――いや、きっとそうだ。
彼女と僕は同じように、心の居場所がない人間なのだ。
「理由は二つ。一つ、一昨日の晩に君の個人番号カードのチップから生体情報を読み取った限り、君が「敵」の側につくことはないだろうと判断できたこと……この件に関しては、私のはやとちりだった。本当にごめんなさい」
そういって乙姫は深々と頭を下げた。一昨日もそうだった。乙姫は肩書負けしないほどの軍人然とした雰囲気を備えているが、同時に一介の高校生の素直な女の子だ。僕は、もういいよ、過ぎたことだから、と軽く首を振った。
でも本題はそこじゃないだろう、と僕は考えていた。
「……もう一つは?」
「二つ目に、私と君は同じ――」
僕の疑問の正しさを保証するかのように、雲間から夕陽が顔を覗かせた。
屋上を吹き抜ける風が止んだ。
どんよりとした街に、黄金色の光の帯が次々に伸びる。
ヤコブの階段。
天寿を全うした者の魂も、全うしえなかった者の魂も、等しく祝福を与えるための、天上へと続く長い階段。僕はキリスト教徒ではないが、その存在を知っている――あるいは、夢見ている。この嘘と理不尽に塗れた地獄を帳消しにしてくれるのではないかと思っている。
あの階段を登れば、戦争で死ぬ者たちの魂も祝福されるのだろうか。敵に殺された者たちの魂も祝福されるのだろうか。
父や母の魂も、祝福されているのだろうか。
とり残されてずっと灰色の僕の魂も、祝福されて彩付くのだろうか。
真っ赤な夕陽が、乙姫の後ろ姿を燃やしている。彼女の髪は思ったよりも明るい茶色をしているのだという、この場に不釣り合いな事実が僕の脳裏をかすめる。
「「敵」のせいですべてを奪われた者だから」




