隠し宝箱は救難箱
隠し宝箱にしては、あまりにも見つけやすかった。
鮮やかな赤い箱は、岩の裏側どころか、川沿いの道からでも見えるように高い台へ載せられている。
蓋の中央には白い印。その下には、大きな文字で用途が記されていた。
《山岳救難備品箱》
読める。
文字の形には少し古風な癖があったが、意味を考える必要もないほど、はっきり読めた。
そして、俺が期待していた単語は一つも書かれていなかった。
「宝箱ではないな」
声に出してみても、赤い箱が古びた木箱へ戻ることはなかった。
蓋の横には、さらに細かな注意書きがある。
《遭難、負傷、急な天候変化など、救助を必要とする場合に使用してください》
《使用後は備え付けの記録票へ記入してください》
《救助を必要としない方の持ち出しはご遠慮ください》
回復薬と保存食が入っている場所は、ゲームの記憶どおりだった。
だが、それは誰にも所有されていない宝ではない。
遭難者のための公共物だった。
腹が鳴った。
空を見上げる。
日が山の稜線へ近づき、風も少し冷たくなっている。昼から何も食べていない。現在地から町までどれほどかかるかも、実際に歩いたことはなかった。
遭難しているかと聞かれれば、そこまで切迫してはいない。
しかし、身元も金も食料もなく、異世界の山道に一人でいる。
救助が不要と言い切れる状態でもなかった。
「保存食を一つだけなら」
誰にともなく断ってから、留め金へ手をかけた。
鍵はかかっていない。
蓋を少し持ち上げたところで、頭上から澄んだ音が鳴った。
驚いて手を離す。
赤い箱から細い紐が伸び、岩の上へ立てられた小さな鐘につながっていた。蓋を開けると紐が引かれ、周囲へ使用を知らせる仕組みらしい。
電気も複雑な魔法も使っていない。
単純だが、誰かが箱を開けたことは分かる。
鐘の余韻が山道へ消えていく。
何も起きない。
少なくとも、警備兵が空から降ってくることはなかった。
俺は改めて蓋を開いた。
中には、瓶入りの回復薬、包帯、火起こし道具、毛布、乾燥させた食料が種類ごとに並んでいる。どれもゲームで見た物より新しく、一本ずつ番号札まで付いていた。
保存食を一袋取り出す。
硬い焼き菓子と乾燥果実が入っていた。
焼き菓子を一つ口へ入れる。
甘くはない。噛むたびに口の中の水分を奪われる。ゲームなら《保存食》とだけ表示され、使えば体力が少し回復する道具だった。
実物は、喉へ詰まりそうに硬かった。
水筒を返してしまったことを少し後悔する。
備品箱の中には水もある。
一本借りるべきか悩んでいると、遠くから草を踏む音が聞こえた。
かなり速い。
音がしたと思ったときには、道の曲がり角から一人の女性が現れていた。
深い緑色の上着。肩には白い印。腰には包帯や小瓶を収めた鞄を提げている。
「鐘が聞こえました。負傷ですか?」
女性は息一つ乱していなかった。
老婆、養蜂家に続く、三人目の比較材料。
しかも今度は、この土地の救難網で働く人間だった。
「いえ、怪我はほとんどありません」
「道に迷いましたか?」
「迷ってはいないと思います」
女性の視線が、俺の手にある保存食へ移る。
それから、革靴、汚れた服、黄色い紐を巻かれた〈旅人の剣〉を順に確認した。
「事情を聞いても?」
責める声ではなかった。
むしろ、本人が思っているより困った状態なのではないかと心配している顔だった。
「町へ向かっている途中です。食料を持っていなくて、日も暮れそうだったので、一袋だけ借りようと」
「それなら使用条件に入ります。水も一本持っていってください」
「いいんですか」
「暗くなってから脱水で動けなくなる方が、救助する側も大変ですから」
女性は箱の中から水を取り、保存食と一緒に俺へ渡した。
金を求められる様子はない。
「回復薬は?」
「必要ありません。足を少しぶつけましたが、歩けます」
「分かりました。必要のない薬を持ち出さないのは助かります」
俺は少しだけ胸を張った。
隠し宝箱だと思って中身を全部持ち帰ろうとしていたことは、黙っておく。
女性は備品箱の蓋の裏から紙と筆記具を取り出した。
「使用記録だけお願いします。氏名、使用した物、理由、向かう場所です」
氏名は書ける。
使用した物も分かる。
向かう場所は、開始地点の町。
問題は、現在の正式名称を知らないことだった。
「川沿いにある町へ行くつもりです」
「西部第四生活区ですね」
知らない名前だった。
紙へ書かれた文字は読める。言葉も通じている。だが、固有名詞だけが俺の記憶と一致しない。
「昔は、始まりの町と呼ばれていませんでしたか」
「古い物語では、そう呼ばれることもありますね」
女性は不思議そうに首を傾げた。
俺にとっては地図へ表示されていた正式名称である。
現地では、古い物語に出てくる呼び方らしい。
記録票の行き先へ、女性に教わった現在の名前を書く。
住所の欄は空白にした。
「旅の方ですか?」
「かなり遠くから来ました」
嘘ではない。
どれだけ遠いのか、自分でも説明できないだけだ。
女性は空欄を見たが、それ以上は尋ねなかった。
「この備品箱、以前からここにあったんですか」
「かなり古い設置場所だと聞いています。箱そのものは何度も交換されていますけれど」
「昔は木箱だったり?」
「最初期の記録では、旅人が置いた木箱を周辺住民が補充していたそうです。それを行政が引き継いで、現在の救難網になりました」
ゲーム時代の隠し宝箱が、そのまま公共設備の起点になったのか。
誰かが見つけ、誰かが補充し、箱を新しくし、鐘を付け、使用記録を取るようになった。
宝箱の場所は変わっていない。
宝箱を取り巻く世界の方が変わっていた。
「町までなら、いま出れば暗くなる前に着きます。川から離れなければ迷いません」
女性はそう言うと、備品箱の中身を手早く確認した。
空いた保存食と水の場所へ、背負っていた鞄から新しい物を補充する。
「補充まで持ち歩いているんですか」
「鐘が鳴ったとき、使用者がすでに出発していることもありますから」
女性は残った備品の数を記録し、蓋を閉じた。
俺は保存食を水で流し込みながら、川沿いの道へ戻った。
乾燥果実には酸味があり、硬い焼き菓子より食べやすい。空腹が落ち着くと、足取りも軽くなった。
レベル3になったからだけではない。
金も身分証も持たない俺が、今夜まで生き延びる心配をしなくて済んだ。
ゲームでは、宝箱を一度開ければ空になる。
この世界では、誰かが使った分を別の誰かが補充する。
効率だけを考えれば、必要な物をすべて持っていく方が得だった。
だが、次に困った人の分を残す仕組みの方が、ずっと長く役に立つ。
川沿いの道を下るにつれ、建物の屋根が見えてきた。
ゲームで知っている開始地点の町は、低い石壁に囲まれた小さな町だった。
目の前にある町の外壁は、その石壁より何倍も高い。
壁の外側にまで家々が広がり、何本もの煙が夕暮れの空へ昇っている。川には大きな橋が架かり、遠くの門を人と荷車が絶え間なく行き来していた。
救難箱だけではない。
町まで、俺の知っている開始地点とは別の物になっていた。
引退した英雄たちの隠れ里、と呼ぶには大きすぎる。
では、英雄たちの町へ成長したのか。
それとも、まだ別の前提を間違えているのか。
答えは、あの門の向こうにあった。




