肆 「お互いに友達だと思えば、友達だよ」 3
春先の冷たい海で泳ぐような人はいない。この季節でも釣りを楽しむ人や、部活動で砂浜を走る人はいるかも知れないが、今日の海には誰もいなかった。
私と双六君だけのプライベートビーチ。でも、プライベートビーチというお洒落な響きとは似合わない荒々しい波が私達を歓迎してくれていた。
苔が張り付いている緑色の岩に自らの体をぶつける波。そこから生まれる、自然の厳しさを伝えるような荒々しい音。
強い海風が、私の長い髪を吹き飛ばそうとする。案の定、私の髪は私の視界を奪う。ショートヘアも活動的でいいな。私は思った。
母なる海。ただいま説教中。そんなテロップが私の頭に浮かぶ。
「荒れてるね。海」
「でも、問題ありま…ないよ。環姉さん」
言い間違いを誤魔化すように付けくわえた環姉さん。順応能力が高い。双六君は世渡りがうまいかも知れない。
二人で気を付けて、コンクリートの道路から階段を下りて、砂浜に足を踏み入れる。
広い砂浜だった。おかげで波で靴が濡れる心配をしなくてもいい。
「環姉さんはここで待っててくだ…待っててね」
双六君は背負っていた大きなリュックを下ろすと、中から二リットルのペットボトルを取り出す。それも三つ。
液体を入れるのに適しているとは言えないが、子供らしいチョイスだ。改めて双六君の子供らしさに微笑んでしまう。
親が持たせたということはないだろう。海水を買って来い何ていう親いないだろうし。
双六君のリュックは小学生にしては大人しい無地の黒いリュックだった。ポケットはほとんどついていないが、その分大きなものも入りそうだ。
見たこともないロゴが入っている。何て言うブランドだろうか。
双六君はリュックをその場に置いて、二リットルのペットボトルを三つ一度に抱えて、海に向かって小走りで走り出す。
「ちょっと待った!」
「はぃ?」
ちょっと間抜けな声が返って来た。私の大きな声に驚いたのかも知れない。
双六君はペットボトルを腕いっぱいに抱えたまま、こっちを振り向く。
「今、何をしようとしたの?」
「海水を入れようと思って」
「あんな荒れた海で直接入れようとしてたよね?」
「駄目ですか?」
「駄目だよ。波に呑まれちゃうじゃん」
双六君はそんなこと思いもつかなかったらしい。驚いた顔で私を見る。
まったく、危なっかしいったらない。私は双六君のリュックを拾い、着いてくるように言う。
ちょうどよい岩場を見つけると、波が引いている間にペットボトルを上向きに岩の間にセットした。
「後は放っておくだけだね」
手に付いた砂をハンカチで落としながら、私は言う。
あとは、あの岩場が波に飲まれるのを待つ。海水は自動的に、ペットボトルの中に入るはずだ。
双六君は感動したように私を見上げて言う。
「環姉さん。カッコイイ!」
「もっと」
「環姉さん。頭いい!」
案外ノリがいい双六君だった。
同じ要領で双六君が残り二つのペットボトルを埋めて、待つこと数十分。
「そろそろかな?」
「うん」
すっかり私に懐いた双六君と一緒に、ペットボトルを回収する。
すると、少し予想外の出来事が起きていた。
「結構砂が入ってるね」
「うん」
ペットボトルの底の方にかなり砂が入っていた。
よく考えれば当然のことなのだけれど、私はまったく気が付かなかった。双六君の前で失敗するなんて一生の不覚だ。
それでも双六君はいい子だった。空気を読んだのか、落ち込む私が見るに耐えなかったのか、明るい口調でこう言った。
「これだけ集まれば十分だよ。ありがとう環姉ちゃん」
純真無垢な笑顔。私は涙腺が緩むのを堪えるので精一杯だった。
―――双六君。なんていい子なんだ! 私にも子供ができたら双六って名前を付けよう!
私は心の中で誓った。
私の誓いなんて知らない双六君は、他二つのペットボトルを回収して、リュックに軽々とそれらを詰めていく。
普通に考えて二リットルペットボトルに、海水をたっぷり入れたらそれなりの重量になるはずだ。
八割ぐらいしか入ってないのだけれど、海水は水よりも重いし、砂も入っているので、ペットボトル一本につき二キログラム以上は必至。
しかし、片手で楽々と持ち上げ、リュックに器用に入れていく姿は、さっきまでの世間知らずな少年には似合わない怪力だった。
「力持ち何だね」
「ありがと。環姉さん」
満面の笑みで照れる双六君。
その天使のような微笑みをケータイの待ち受けにしたいと切望する。
双六君は、可愛らしく、よっこらしょと言いながらリュックを背負うと、まるで何も背負っていないような身のこなしで、テクテクと歩き出す。
人は見た目によらない。今度はそんなテロップが頭に浮かぶ。
「環姉さん、早く帰ろうよ」
「う、うん。…双六君は重くないの?」
「重い? あぁ、僕、力持ちだから」
背中に六キロの重り、十二歳の子供には文字通り、荷が重いような気がするのだけれども。私の気のせいかな?
やや当惑している私を尻目に、双六君は早く海水を持って帰りたいのか、先に行ってしまう。バスが来るまで、あと二十分はかかるのだけれど、双六君はお構いなしだった。
やはり、十二歳の子供に思いものを持たせることに、私は罪悪感のようなものを持たざるおえなかった。私は駆け足で双六君に追いつき、提案する。
「大丈夫? 交代で持とうか?」
「え? 何を?」
「リュック。重いよね?」
確認に近いニュアンスで私は聞いた。
双六君は考える間もなく首を横に振る。
「僕は大丈夫だよ。むしろ環姉さんに持たせられないよ」
「そ、そう? じゃあ、辛くなったら言うんだよ?」
私の提案をキッパリと断った双六君。
初めてあった時の、不思議な感じ、まるで根本の何かが人と違っているような感じが再現される。
幽霊に襲われたり、最近、変なことがよく起きるし、変な人によく会うな。
私がそんなことを思っている間にも、双六君はスタスタと歩いて行ってしまう。私はまた駆け足気味に双六君を追い掛ける。
「そんなに急いでもバスはまだ来ないよ?」
「えぇー! 早く帰らないと、酷い怪我なのに」
「怪我?」
「はい。トラックに轢かれて、大怪我をしてるんです。だから、海水を掛けて上げようと思って」
私の頭の中で、アイちゃんから聞いたトラックの話を思い出す。頭を振って嫌な予感を振り払った。
だいたい、双六君はペットに海水を使うはずじゃないか。トラックが轢いたのは、人間だったはずだ。双六君が人間をペットとしているなら話は別かも知れない。いや、それはない。
それにしても、傷口に塩水は沁みるぞ?
「ねぇ、環姉さん」
双六君の幼い顔に真剣な表情が生まれる。
私は少し身構えて、話を聞く。
「僕の家に遊びに来ませんか? ちゃんとお礼もしたいし」
「双六君の…家?」
一瞬、悪魔に誘われているような嫌な感じがした。
知りすぎた私の口を封じる気なんじゃないか? そんな、ありえないことまで想像してしまう。双六君の年齢にミスマッチな真剣な表情が、私の生存本能を刺激している。
無意識に生唾を飲んだ。喉が渇いている。
さっきまで仲良く打ち解けていたはずなのに、どこから湧いて来たんだろう。この不信感は。
「別にいいよ。気を使わせても悪いし、それに、私行かなきゃならない所があるし」
慎重に言葉を選びながら、私は言う。
それを聞いて双六君の表情は変わった。不信感も消えた。
「あ! そうだったね。環姉さんには用事があったんだよね」
さっきまでの双六君に戻る。双六君が何か別の物になっていたわけではないのだけれど、私はそう感じた。
重たいリュックを軽々と背負っているからか、空気が変わるほどの真剣な表情のせいか、顔つきや服装など不思議な見た目のせいなのか、わからないけれど、双六君と私の間に大きな距離を感じた。
恐怖に似た感触。危険信号のようなもの。私はそれを感じた。
「じゃあ、時間があったら、来てね」
「う、うん。わかったよ」
「僕の家はね…」
双六君の口から、驚く名前が出てきた。
完全に不意打ち。私は虚を突かれて、しばらく―――と言っても数秒なのだけれど―――反応がとれなかった。
双六君は自分の家をこう言ったのだ。
「久恒神社だから」
唖然。
それ以上の説明はいらない。私は完全に唖然としていた。
「場所は知ってるよね? 環姉さん?」
双六君の純真な瞳に私が映る。それだけで、私は恐怖を抱いた。
何かが狂っている。時間か、空間か、運命か、未来か、わからない。否、わかっている。狂い始めたのは、私の日常だ。
更新が遅れてすみません。
遅れた分も頑張って更新します。




